第51話「見知らぬ男」
翌朝。市場の音は、戻ったふりをしていた。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
籠を置く音。
パンを並べる音。
子どもが走って、誰かに叱られる声。
犬が水桶の横で爪を鳴らす音。
昨日の3人の足音は、もう市場にはなかった。
けれど、井戸の縁の石だけが、少し深く沈んだままだった。
雑貨屋の壁も、昨日触られたところだけ、戻りが遅い。
(踏まれた跡、みたいなものか)
いや、石に足跡が残るのは困る。
俺は石だが、そこまで万能な感想製造機ではない。
市場の音は明るかった。
明るくしようとしている音だった。
◆
「魔石の調査だそうだよ」
ヴェラの声がした。
パン屋の前。粉を払う手の動きが、少しだけ長い。
「いやあ、急で申し訳ない」
知らない男の声だった。
昨日の3人のうち、前に立っていた足音。
それと同じ重さが、市場の中央にあった。
声は柔らかい。
朝の挨拶に混ぜても、たぶん浮かない。
少し低くて、よく通る。笑っている形の声。
けれど足音は違った。
足を置くたび、地面の下を測っていた。
井戸の縁で止まり、雑貨屋の壁で止まり、パン屋の窯の前で止まる。
見るための足ではなかった。
探すための足だった。
「すぐ終わります。古い石が多い場所ですからね」
「古いだけだよ。ここは」
ヴェラがそう返した。
声はいつもの調子だった。
けれど粉を払う手は止まっていた。
◆
ネアはフリンの家から戻る途中だった。
空の布袋を腕に抱えている。
歩幅はいつも通り。
ただ、ポケットの上に触れている指だけが、昨日から少し固い。
男の足音が、井戸の縁から離れた。
市場の流れに入る。
人にぶつからない距離を取り、野菜籠を避け、子どもの走る先を先に空けた。
上手かった。
廃都の住民ではないのに、廃都の朝を壊さない歩き方をしていた。
慣れていない者の遠慮ではない。
慣れている者の調整だった。
「お嬢ちゃん」
男が、ネアの前で止まった。
近い。
市場で知らない大人が子どもに声をかける距離より、少しだけ近い。
「いい朝だね」
ネアは答えなかった。
布袋を抱え直しただけだった。
男は笑った。
笑った形の息が、ネアの前でほどけた。
「薬草の届けかい」
ネアは何も言わなかった。
俺も、念話を出さなかった。
◆
男の視線が落ちた。
視覚で捉えたわけではない。
けれど、重さの向きが変わった。
声がネアの顔の高さにあったのに、息の端だけがポケットのあたりに下がった。
俺の方だった。
男の呼吸が、短く止まる。
すぐ戻る。
戻り方まで自然だった。
(この人は、普通じゃない)
念話にしそうになって、止めた。
男の手が袖の中で動いた。
小さな動きだった。
袖の布が擦れ、指の関節が折れる音がした。
硬い。
商人の手でも、薬師の手でもない。
刃物を握る人間の手に近い。
傷が多い手だった。
笑う声と、手の形が合っていなかった。
「きれいな石だ」
男が言った。
ネアの指が、ポケットの上で止まった。
「見せてもらっても?」
市場の音が、ひとつ浅くなった。
ヴェラの粉を払う手が止まる。
ダン爺さんの足音が、市場の角で沈む。
タロが木箱の横で動きかけて、止まる。
ネアは、男を見上げているらしかった。
布袋を抱えた腕が、少しだけ上がる。
ポケットを隠す位置だった。
「……だめ」
短かった。
男は、すぐに引いた。
「そうか。悪かった」
声は柔らかいままだった。
手だけが、まだ戻らなかった。
◆
俺は地脈に触れた。
広げれば、男の足音をもう少し追えた。
井戸の縁の沈み方も、壁の戻りの遅さも、昨日より深く拾えた。
この距離なら、男の靴底に混じる金属の癖も掴める。
たぶん、できる。
できるから、使わなかった。
ここで強く探れば、地面が応える。
地面が応えれば、男も何かに気づくかもしれない。
昨日の3人は、地面の下まで聞こうとしていた。
俺は石だ。
動けない。
だからこそ、動いた跡を残すのはまずい。
(……見てるだけにする)
ネアに言わなかった。
言えば、ネアは動く。
動けば、男が見る。
男はまだ何もしていない。
何もしていない形を、崩していない。
◆
「ありがとう」
男が言った。
何に対する礼なのか、分からなかった。
断られたことに対する礼か。
見たことに対する礼か。
それとも、見せなかったことに対する礼か。
ネアは答えなかった。
男は横に逸れた。
市場の流れに戻る。
パン屋の前でヴェラに会釈し、井戸の縁をもう1度だけ踏み、雑貨屋の壁には触れなかった。
触れなかったことが、いちばん残った。
ダン爺さんの足音は市場の角にあった。
ふだんの位置。
腰の後ろに手は回っていない。
けれど指の関節が、深く曲がっていた。
タロの足音が木箱の陰から出た。
「ネア」
声が少し低い。
ネアは答えなかった。
「あいつ、何」
「知らない」
ネアはそれだけ言って、家の方へ歩いた。
足音は速くなかった。
ポケットの上の指は、離れなかった。
◆
男はすぐには帰らなかった。
市場の外れにある古い石段で止まり、腰を下ろした。
休んでいる形だった。
旅人なら、そこで水を飲む。
商人なら、荷を置く。
疲れた大人なら、息を吐く。
男は、そのどれでもなかった。
座った重さが軽すぎた。
体を休める人間の重さは、もっと地面に預けられる。
けれど男の重さは、いつでも立てる位置に残っていた。
片足の裏だけが、石段の角を踏んでいる。
もう片方の足は、薄く浮いているような重さだった。
逃げるためではない。
追うための姿勢だった。
(座ってるのに、立ってる)
変な感想だ。
だが、そうとしか言えなかった。
ヴェラがパンを2つ紙に包んだ。
「持っていくかい」
「助かります」
男は受け取った。
金を置く音がする。
軽い音ではなかった。
銅貨の音に混じって、別の硬さが薄く鳴った。
ヴェラの指が、硬貨の上で止まる。
「多いよ」
「迷惑料です」
「迷惑なら、置いていかない方がいいね」
ヴェラの声は明るかった。
明るいまま、硬かった。
男は笑った。
「では、次から気をつけます」
次。
その言葉のところで、ダン爺さんの呼吸が止まった。
市場の角。
木箱の陰。
タロの足音も止まる。
男はパンを持って、石段から立った。
立つ動きにも無駄がなかった。
体が先に動いて、足音があとからついてくる。
人の動きに見えるのに、地面には人より先の準備だけが残る。
◆
ネアは家の戸口まで戻っていた。
中には入らない。
戸口の影で立ち、男の足音を聞いている。
俺はポケットの中で同じ音を聞いていた。
『ネア』
言いかけて、止めた。
危ない、と言うのは簡単だった。
でも危ないと言えば、ネアは男を見る。
男を見るネアを、男も見る。
それだけで、何かが渡る気がした。
ネアの指が、ポケットの上で少し動いた。
俺が何も言わなかったことに、気づいたのかもしれない。
それでも、ネアも何も言わなかった。
ただ、布袋を戸口の内側に置いた。
両手を空けるための動きだった。
俺は、それを止めなかった。
止めないことと、動かすことは違う。
たぶん、違う。
男の足音が街道の方へ向かう。
途中で1度だけ、ネアの家の前を通る道から外れた。
外れた先には、古い石碑の欠けた土台がある。
男はそこで止まった。
手は触れない。
足も近づきすぎない。
ただ、立った。
石碑の土台の重さが、薄く震えた。
触れられていないのに、見られている重さだった。
(そこも、見るのか)
グラン爺だけが意味を知っている古い石碑。
誰も読めない文字の残り。
市場の人間にとっては、邪魔にならない古い石。
男は、その前で息を止めた。
短く。
すぐ、戻る。
それから街道の入口へ歩いた。
◆
夜。
ネアの家は静かだった。
竈の火が落ち、布が擦れ、ぐりが土間の隅で少し転がった。
ネアの寝息は戻っていた。
戻っているのに、指だけがポケットの近くにあった。
街道の入口の方に、宿の重さがある。
その中で、紙の音がした。
その前に、男はパンを食べていなかった。
昼に受け取った紙包みは、宿の机の端に置かれたままだった。
紙の油が、木の板に薄く移っている。
パンの重さは減っていない。
水差しも、ほとんど動かなかった。
男がこの街で口にしたものは、たぶん少ない。
ヴェラのパンも、水も、まだそこにある。
ただ、硬貨だけが市場に残った。
(食べに来たわけじゃない)
当たり前のことを、今さら思った。
当たり前すぎることほど、音になるまで遅い。
ペン先が走る。
止まる。
また走る。
数行ぶん。
男の呼吸は乱れなかった。
声もない。
ただ、紙の上に薄い重さが増えていく。
俺には文字は読めない。
けれど、書かれているものが短いことだけは拾えた。
報告の形をした音だった。
紙が折られる。
革袋に入れられる。
紐が結ばれる。
袋の重さが、男の手から離れた。
別の足音が受け取った。
軽い足音だった。
市場を歩いた3人の足音とは違う。
荷運びの子どもより軽く、商人の小間使いより迷いがない。
受け取るためだけに来た足だった。
その足音は、宿の戸口で1度も止まらなかった。
袋を受け取り、すぐに向きを変える。
男の声は出ない。
受け取った足も、返事をしない。
音だけで済むやり取りだった。
宿を出て、街道の方へ向かう。
遠ざかる。
井戸の縁の石が、まだ深い。
雑貨屋の壁も戻らない。
市場の朝は、たぶん明日も戻ったふりをする。
見知らぬ男の話。
「見せてもらっても?」
——見せなかった。
俺は、見ていただけだ。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「グラン爺の体調が悪化する」もよろしく。
また重い話になりそうだ。
——石より




