表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生したのに動かない!?——でも、なぜか世界が少しずつ変わっていく【1章完結】  作者: シラフ
廃都編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/90

第52話「グラン爺の体調」


 市場の朝は、戻っていた。


 籠の底が石畳に当たる音。

 ヴェラの窯の扉が閉まる音。

 井戸の水を汲む綱の擦れる音。


 数日前に来た男の足音は、もう残っていない。


 少なくとも、地面の表面には。


   ◆


 ネアは薬草の束を抱えて、坂の方へ歩いていた。


 フリンの家から預かったものだった。

 乾いた葉の軽い擦れ方が、ネアの腕の上で鳴っている。


 俺はポケットの中で、地脈を聞いていた。


 井戸の縁は澄んだままだった。

 市場の端に作られた畝も、前より根の重さが素直に下りている。

 あの新しく来た女が言っていた、水と作物の話は、まだ続いていた。


(廃都、地味に健康になってるな)


 言わなかった。


 石が街の健康診断を始めると、さすがに職業が迷子になる。


 ネアは坂に入った。


 足音が少し軽くなる。

 市場の平らな石畳から、古い坂道の割れた石へ。

 靴底が拾う音が変わる。


 坂の上に、グラン爺の家があった。


 扉の前で、ネアの足が止まった。


 中から、咳が聞こえた。


   ◆


 いつもの咳ではなかった。


 グラン爺は前から咳をする。

 年寄りだから、という言葉で片づけられる音だった。

 話の途中に混じる。

 笑ったあとに少し残る。

 薬草の匂いと一緒に、家の中に置かれている音。


 けれど、今の咳は違った。


 息が出る前に、咳が来ていた。

 咳のあとで、息が追いついていた。

 木の壁に当たった音が、薄く沈んで、すぐ戻らない。


 ネアは扉に手をかけなかった。


「グラン爺」


 短い声だった。


 中の咳が止まった。

 少し間が空いた。


「……入りなさい」


 声が低かった。


 低い、というより、深い。

 喉から出た声ではなく、寝床の木の下あたりから引き上げたような声だった。


 ネアは扉を開けた。


   ◆


 家の中は、薬草の匂いが濃かった。


 乾いた葉。

 古い紙。

 火の入っていない竈。

 机の上の小皿。


 そこまでは、いつものグラン爺の家だった。


 違っていたのは、重さの場所だった。


 グラン爺は机の前にいなかった。

 寝床の縁に体を預けていた。

 片足だけが床に下りている。

 もう片方は布の上。


 杖は、手の下になかった。


 寝床の横に立てかけられている。

 木の先が床に触れ、かすかに鳴っていた。

 手から離れた杖の音だった。


 ネアが薬草の束を机に置いた。


 何も言わない。


 俺も、何も言わなかった。


 言えば、たぶん届く。

 念話でグラン爺に何か言うことはできる。

 地面に降ろしてもらえば、家の中の重さをもっと細かく聞けるかもしれない。


 けれど、ネアは俺を出さなかった。

 俺も、出してくれとは言わなかった。


 薬草の束だけが、机の上で乾いた音を立てた。


   ◆


「すまんな」


 グラン爺が笑った。


 笑いは、咳に近かった。

 咳は、笑いには戻らなかった。


「フリンには、礼を言うておいてくれ」


 ネアは頷いた。

 たぶん。

 布の擦れる音が小さくした。


「……飲んで」


 ネアが言った。


 それだけだった。


「飲むとも」


 グラン爺はそう言って、机の方へ手を伸ばしかけた。


 届かなかった。


 途中で手が止まる。

 指が空中で少し曲がって、戻った。


 ネアが小皿を取った。

 水差しの首を傾ける。

 水が器に落ちた。


 その音だけ、家の中でやけに澄んでいた。


 ネアは器を寝床の横へ置いた。

 グラン爺の手が器に触れた。

 指の節が、器の縁を探すのに少しかかった。


 俺はポケットの中で聞いていた。


(手が、遅い)


 言わなかった。


 寝床の横には、畳まれていない布があった。


 いつもなら、グラン爺の家の布はきちんと畳まれている。

 薬草の束も、紙も、古い木箱も、置き場所が決まっていた。

 この家は古いのに、散らかってはいない。

 グラン爺がそういう人間だからだ。


 その布だけが、少しずれていた。


 ネアは一度、布の方を見た。

 たぶん。

 足の向きが、ほんの少し変わった。


 直せる距離だった。

 手を伸ばせば届く。

 布を畳んで、寝床の端に置き直せる。


 けれど、ネアはやらなかった。


 グラン爺が、自分で直す場所だったから。


 ネアの手は、薬草の束の横に戻った。

 指先が机の木を一度だけ叩いた。

 音は小さかった。


(……お前、そういうとこあるよな)


 これも、言わなかった。


   ◆


 グラン爺は薬草の水を少し飲んだ。


 喉が鳴る。

 すぐに咳が来た。


 ネアの指が、ポケットの上で止まる。


 俺のいる場所を、軽く押さえた。

 いつもより強い。

 でも、握り潰すほどではない。


 ちょうど、言葉の代わりくらいの重さだった。


「お前さんは、顔に出さんのう」


 グラン爺が言った。


 ネアは答えなかった。


「いや、出ておるか。わしには見えんだけかもしれん」


 また笑う。


 今度は少しだけ、いつもの笑いに近かった。


 ネアは机の端に手を置いた。

 それ以上近づかなかった。


 近づけば、背中を支えられる。

 器を持てる。

 寝床を直せる。


 でも、ネアはそこまでしなかった。


 グラン爺が、自分で器を持つのを待っていた。


 グラン爺の指が器を持ち上げる。

 少し揺れた。

 水が縁に触れて、小さく鳴った。


「わしには、まだ、やることがある。だから、死なんよ」


 笑いながらだった。


 ネアは、何も言わなかった。


 ポケットの上の指だけが、少し深くなった。


   ◆


 その頃、市場の角の家で、別の金属音がした。


 ダン爺さんの家だった。


 古い棚が開く。

 布がずれる。

 革の柄が、指の中に収まる。


 刃の根元に、薄い刻みがあった。

 紋章らしい。

 俺に見えるわけではない。

 けれど、刻まれた金属は、何もない金属と鳴り方が違う。


 ダン爺さんは、しばらくそれを持っていた。


「……どこかで見た顔だ」


 誰に向けた声でもなかった。


 数日前の男の足音。

 笑った声。

 袖の中の硬い手。


 ダン爺さんの呼吸が浅くなる。


 刃は抜かれなかった。

 誰にも見せられなかった。

 ただ、布の中へ戻った。


 棚の奥には、ほかにも古い金具があった。

 革の切れ端。

 欠けた留め具。

 使わなくなった鞘。


 どれも、今の廃都ではあまり聞かない重さだった。

 市場の鍋や包丁とは違う。

 荷車の金具とも違う。

 人に向けて作られた金属の音だった。


 ダン爺さんは、その前で長く立っていた。


 外では子どもが走った。

 誰かが野菜の値段で笑った。

 朝の市場は、朝の市場のままだった。


 ダン爺さんは、外に出なかった。

 ナイフも持っていかなかった。


 棚が閉まる。


 金属の音は、そこで消えた。


   ◆


 グラン爺の家では、器が寝床の横に戻されていた。


「ネア」


「……ん」


「今日は、もう帰りなさい」


 ネアは動かなかった。


「フリンにも、心配はいらんと伝えてくれ」


 心配はいらない。


 その言葉だけ、家の中で軽すぎた。

 薬草の束より軽い。

 器の水より軽い。

 立てかけられた杖より、ずっと軽い。


 ネアは、やっと足を動かした。


 扉の方へ向かう。

 歩幅は小さかった。

 いつもの坂を下りる前の歩き方ではない。


 扉の前で、グラン爺の声がまた来た。


「……イシル」


 俺は、ポケットの中で止まった。


 石なので、最初から動いてはいない。

 でも、止まった。


「そろそろ、全部、話す時が、近い」


 ネアの呼吸が消えた。

 すぐ戻った。


 俺は答えなかった。


 グラン爺も、続きを言わなかった。


   ◆


 扉が閉まった。


 坂の上の風が、ネアの服を撫でた。

 市場の音は下から聞こえていた。

 籠の音。

 犬の足音。

 ヴェラの窯の扉。


 朝は、ちゃんと朝の形をしていた。


 ネアは坂を下りた。


 途中で、ぐりが道の端で跳ねた。

 硬い体が石に当たる。

 いつもなら、ネアの足元に寄ってくる。


 今日は、寄ってこなかった。


 坂の上も見なかった。

 市場の方へ転がっていった。


 俺はグラン爺の家の方を聞いていた。


 咳は、もう聞こえない。

 声もない。

 杖は寝床の横に立てかけられたまま。


 家の中の重さだけが、坂の上に残っていた。

 市場の音が下から薄く当たっても、その重さは動かなかった。


(戻らない、らしい)


グラン爺の咳。


「そろそろ、全部、話す時が、近い」


——全部。


俺は、石なので待つのは得意だ。

得意なだけで、軽くはない。


☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。

ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。


次回「タロと外の世界」もよろしく。

外、らしい。


——石より

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ