第52話「グラン爺の体調」
市場の朝は、戻っていた。
籠の底が石畳に当たる音。
ヴェラの窯の扉が閉まる音。
井戸の水を汲む綱の擦れる音。
数日前に来た男の足音は、もう残っていない。
少なくとも、地面の表面には。
◆
ネアは薬草の束を抱えて、坂の方へ歩いていた。
フリンの家から預かったものだった。
乾いた葉の軽い擦れ方が、ネアの腕の上で鳴っている。
俺はポケットの中で、地脈を聞いていた。
井戸の縁は澄んだままだった。
市場の端に作られた畝も、前より根の重さが素直に下りている。
あの新しく来た女が言っていた、水と作物の話は、まだ続いていた。
(廃都、地味に健康になってるな)
言わなかった。
石が街の健康診断を始めると、さすがに職業が迷子になる。
ネアは坂に入った。
足音が少し軽くなる。
市場の平らな石畳から、古い坂道の割れた石へ。
靴底が拾う音が変わる。
坂の上に、グラン爺の家があった。
扉の前で、ネアの足が止まった。
中から、咳が聞こえた。
◆
いつもの咳ではなかった。
グラン爺は前から咳をする。
年寄りだから、という言葉で片づけられる音だった。
話の途中に混じる。
笑ったあとに少し残る。
薬草の匂いと一緒に、家の中に置かれている音。
けれど、今の咳は違った。
息が出る前に、咳が来ていた。
咳のあとで、息が追いついていた。
木の壁に当たった音が、薄く沈んで、すぐ戻らない。
ネアは扉に手をかけなかった。
「グラン爺」
短い声だった。
中の咳が止まった。
少し間が空いた。
「……入りなさい」
声が低かった。
低い、というより、深い。
喉から出た声ではなく、寝床の木の下あたりから引き上げたような声だった。
ネアは扉を開けた。
◆
家の中は、薬草の匂いが濃かった。
乾いた葉。
古い紙。
火の入っていない竈。
机の上の小皿。
そこまでは、いつものグラン爺の家だった。
違っていたのは、重さの場所だった。
グラン爺は机の前にいなかった。
寝床の縁に体を預けていた。
片足だけが床に下りている。
もう片方は布の上。
杖は、手の下になかった。
寝床の横に立てかけられている。
木の先が床に触れ、かすかに鳴っていた。
手から離れた杖の音だった。
ネアが薬草の束を机に置いた。
何も言わない。
俺も、何も言わなかった。
言えば、たぶん届く。
念話でグラン爺に何か言うことはできる。
地面に降ろしてもらえば、家の中の重さをもっと細かく聞けるかもしれない。
けれど、ネアは俺を出さなかった。
俺も、出してくれとは言わなかった。
薬草の束だけが、机の上で乾いた音を立てた。
◆
「すまんな」
グラン爺が笑った。
笑いは、咳に近かった。
咳は、笑いには戻らなかった。
「フリンには、礼を言うておいてくれ」
ネアは頷いた。
たぶん。
布の擦れる音が小さくした。
「……飲んで」
ネアが言った。
それだけだった。
「飲むとも」
グラン爺はそう言って、机の方へ手を伸ばしかけた。
届かなかった。
途中で手が止まる。
指が空中で少し曲がって、戻った。
ネアが小皿を取った。
水差しの首を傾ける。
水が器に落ちた。
その音だけ、家の中でやけに澄んでいた。
ネアは器を寝床の横へ置いた。
グラン爺の手が器に触れた。
指の節が、器の縁を探すのに少しかかった。
俺はポケットの中で聞いていた。
(手が、遅い)
言わなかった。
寝床の横には、畳まれていない布があった。
いつもなら、グラン爺の家の布はきちんと畳まれている。
薬草の束も、紙も、古い木箱も、置き場所が決まっていた。
この家は古いのに、散らかってはいない。
グラン爺がそういう人間だからだ。
その布だけが、少しずれていた。
ネアは一度、布の方を見た。
たぶん。
足の向きが、ほんの少し変わった。
直せる距離だった。
手を伸ばせば届く。
布を畳んで、寝床の端に置き直せる。
けれど、ネアはやらなかった。
グラン爺が、自分で直す場所だったから。
ネアの手は、薬草の束の横に戻った。
指先が机の木を一度だけ叩いた。
音は小さかった。
(……お前、そういうとこあるよな)
これも、言わなかった。
◆
グラン爺は薬草の水を少し飲んだ。
喉が鳴る。
すぐに咳が来た。
ネアの指が、ポケットの上で止まる。
俺のいる場所を、軽く押さえた。
いつもより強い。
でも、握り潰すほどではない。
ちょうど、言葉の代わりくらいの重さだった。
「お前さんは、顔に出さんのう」
グラン爺が言った。
ネアは答えなかった。
「いや、出ておるか。わしには見えんだけかもしれん」
また笑う。
今度は少しだけ、いつもの笑いに近かった。
ネアは机の端に手を置いた。
それ以上近づかなかった。
近づけば、背中を支えられる。
器を持てる。
寝床を直せる。
でも、ネアはそこまでしなかった。
グラン爺が、自分で器を持つのを待っていた。
グラン爺の指が器を持ち上げる。
少し揺れた。
水が縁に触れて、小さく鳴った。
「わしには、まだ、やることがある。だから、死なんよ」
笑いながらだった。
ネアは、何も言わなかった。
ポケットの上の指だけが、少し深くなった。
◆
その頃、市場の角の家で、別の金属音がした。
ダン爺さんの家だった。
古い棚が開く。
布がずれる。
革の柄が、指の中に収まる。
刃の根元に、薄い刻みがあった。
紋章らしい。
俺に見えるわけではない。
けれど、刻まれた金属は、何もない金属と鳴り方が違う。
ダン爺さんは、しばらくそれを持っていた。
「……どこかで見た顔だ」
誰に向けた声でもなかった。
数日前の男の足音。
笑った声。
袖の中の硬い手。
ダン爺さんの呼吸が浅くなる。
刃は抜かれなかった。
誰にも見せられなかった。
ただ、布の中へ戻った。
棚の奥には、ほかにも古い金具があった。
革の切れ端。
欠けた留め具。
使わなくなった鞘。
どれも、今の廃都ではあまり聞かない重さだった。
市場の鍋や包丁とは違う。
荷車の金具とも違う。
人に向けて作られた金属の音だった。
ダン爺さんは、その前で長く立っていた。
外では子どもが走った。
誰かが野菜の値段で笑った。
朝の市場は、朝の市場のままだった。
ダン爺さんは、外に出なかった。
ナイフも持っていかなかった。
棚が閉まる。
金属の音は、そこで消えた。
◆
グラン爺の家では、器が寝床の横に戻されていた。
「ネア」
「……ん」
「今日は、もう帰りなさい」
ネアは動かなかった。
「フリンにも、心配はいらんと伝えてくれ」
心配はいらない。
その言葉だけ、家の中で軽すぎた。
薬草の束より軽い。
器の水より軽い。
立てかけられた杖より、ずっと軽い。
ネアは、やっと足を動かした。
扉の方へ向かう。
歩幅は小さかった。
いつもの坂を下りる前の歩き方ではない。
扉の前で、グラン爺の声がまた来た。
「……イシル」
俺は、ポケットの中で止まった。
石なので、最初から動いてはいない。
でも、止まった。
「そろそろ、全部、話す時が、近い」
ネアの呼吸が消えた。
すぐ戻った。
俺は答えなかった。
グラン爺も、続きを言わなかった。
◆
扉が閉まった。
坂の上の風が、ネアの服を撫でた。
市場の音は下から聞こえていた。
籠の音。
犬の足音。
ヴェラの窯の扉。
朝は、ちゃんと朝の形をしていた。
ネアは坂を下りた。
途中で、ぐりが道の端で跳ねた。
硬い体が石に当たる。
いつもなら、ネアの足元に寄ってくる。
今日は、寄ってこなかった。
坂の上も見なかった。
市場の方へ転がっていった。
俺はグラン爺の家の方を聞いていた。
咳は、もう聞こえない。
声もない。
杖は寝床の横に立てかけられたまま。
家の中の重さだけが、坂の上に残っていた。
市場の音が下から薄く当たっても、その重さは動かなかった。
(戻らない、らしい)
グラン爺の咳。
「そろそろ、全部、話す時が、近い」
——全部。
俺は、石なので待つのは得意だ。
得意なだけで、軽くはない。
☆評価・ブックマーク、もらえると嬉しい。
ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「タロと外の世界」もよろしく。
外、らしい。
——石より




