第53話「タロと外の世界」
次の日の昼。市場の端に、空いた場所があった。
◆
ネアのポケットの中で、俺は地脈の振動を聞いていた。
行商人の荷車が止まる場所だった。
いつもなら、車輪の跡が土に薄く残っている。
乾いた革の匂いがして、荷ほどきの木箱が地面をこする。
子どもたちが勝手に近づいて、ヴェラに怒られる。
今日は、それがなかった。
土は平らだった。
車輪の古い跡だけが、浅く残っていた。
市場の音はいつもどおりだった。野菜を並べる音、井戸の縄がきしむ音、誰かが値段で揉める声。
けれど、その場所だけ、音が乗らなかった。
ネアは薬草を束にしていた。
フリンに渡す分を、細い紐で分けている。
指の動きは静かだった。
坂の上の家には、今日は行かなかった。
グラン爺の家の方の重さは、昨日から戻っていない。
寝床の縁に預けられたものが、まだそこにあった。
俺はそっちを聞きすぎないようにした。
聞いたところで、俺は石だ。
(便利じゃないな、石)
誰にも言わなかった。
◆
タロの足音が、市場の奥から来た。
籠を持っていた。
大きすぎる籠だった。中身は芋と葉物で、片側に重さが寄っている。
タロはそれを片手で持ち替え、もう片方の手で弟らしい小さい足音を押し戻した。
「そっち行くな。井戸の縄、踏むな」
声はいつものタロだった。
でも、最後が少し低い。
怒鳴る前の声ではなく、飲み込んだ後の声だった。
小さい足音が走って戻った。
もうひとつ、もっと軽い足音がそれを追った。
タロは籠を置かなかった。
置かないまま、市場の端の空いた場所を見ているようだった。
俺に顔は見えない。
けれど、足の向きは分かる。
タロの足先は、行商人の荷車が来る方へ向いていた。
◆
「なあ、ネア」
タロが言った。
ネアの指が、薬草の茎を結ぶところで止まった。
返事はしなかった。
「城下町って、廃都と全然違うのかな」
市場の音が、少しだけ薄くなった。
誰も黙ったわけじゃない。
ただ、俺がそこだけを聞いた。
ネアは答えなかった。
薬草を結ぶ指も、まだ止まっていた。
タロは籠を地面に置いた。
どさり、ではなかった。
静かに置いた。
中の芋が転がりかけて、ひとつだけ籠の縁に当たった。
「行商人が言ってた。石の道がずっと続いてるって」
タロは続けた。
「夜でも明るい店があるって。水の上に、でかい建物が映るって。馬車が何台も並んで、それでも道が足りないって」
言葉だけが少し速くなった。
足は動かなかった。
「あと、パンが白いって」
そこだけ、妙に子どもだった。
俺は危うく笑いそうになった。
石なので笑えない。こういう時だけ便利だ。
ネアの指が動いた。
薬草の茎を結び直す。
ほどけていない紐を、もう一度。
「屋根の上に鐘があってさ。朝になったら、街じゅうに鳴るんだって」
タロは、行商人の言葉をそのまま並べているようだった。
見たことのないものを、見たことがあるみたいに言う。
でも、声の底は浮かなかった。
「あと、兵士が立ってる門。でっかい門。廃都の入口みたいに、崩れてないやつ」
門も、鐘も、知らない。
それを聞いて、ネアの指がほんの少し遅れた。
ネアも、外の門を知らない。
俺も知らない。
知っているのは、街道の入口に残る石の欠けと、荷車の跡と、そこを通る足音だけだ。
タロが笑うかと思った。
笑わなかった。
◆
タロの弟妹の足音が、また近づいた。
「兄ちゃん、これ持つ」
「持つな。落とす」
「落とさない」
「昨日落としただろ」
「昨日は石があった」
(石のせいにするな)
言いかけて、やめた。
念話で小さい子に突っ込む石は、だいぶ嫌だ。
タロが籠の中身を分けた。
軽い葉物だけを小さい手に渡す。
重い芋は、自分の方に戻した。
そういう動きは、迷わなかった。
誰に何を持たせるか。
どこまで行かせるか。
いつ止めるか。
タロの体は、もう覚えていた。
その足先だけが、まだ行商人の道を向いていた。
小さい足音のひとつが、タロの横で止まった。
「兄ちゃん、城下町行くの」
タロの籠の重さが少し下がった。
「行かねえよ」
早かった。
早すぎた。
「なんで」
「うるせえ。芋、持つな」
タロが芋を取り上げた。
葉物を渡す。
それから、弟妹の頭の上に手を置いた。
乱暴ではなかった。
撫でた、とも少し違う。
その場所から動くな、という重さだった。
◆
俺は、念話を組み立てた。
できることは少ない。
聞くことくらいだ。
それも、聞かない方がいい時がある。
でも、このまま市場の音に戻すには、少しだけ重かった。
(タロ。お前、外に出てみたいか)
タロの足音が止まった。
軽い葉物を持った弟妹の足音も止まった。
たぶん、タロが動かなくなったからだ。
市場の端で、縄がきしんだ。
井戸の桶が水に触れた。
タロは何も言わなかった。
沈黙は長かった。
長すぎて、俺は少しだけ後悔した。
(今のは、石としてどうなんだ)
返事はなかった。
ネアも何も言わなかった。
薬草の紐を結ぶ音だけが、小さく続いた。
結べているはずなのに、同じ場所を触っていた。
◆
「……弟妹が、いるから。俺は、行けない」
タロが言った。
声は、さっきより低かった。
石様、と騒ぐ時の声ではなかった。
喉の奥で、いったん止めてから出した声だった。
弟妹の足音が動いた。
意味は分かっていないらしい。
葉物を持ったまま、どこかへ走りかけた。
「走るな」
タロが言った。
その声は、いつもの兄の声だった。
走りかけた足音が止まる。
また戻る。
タロは籠の取っ手を握った。
でも、持ち上げなかった。
市場の端の空いた場所に、風が通った。
車輪の古い跡に、乾いた砂が少し入った。
グラン爺の家の方の重さが、遠くで沈んだままだった。
街道の方には、行商人の車輪の音はない。
外は、来なかった。
来ないものを待つ場所だけが、市場に残っていた。
タロはそこに立っていた。
立っているだけなら、誰にも怒られない。
けれど、籠はまだ地面にある。
弟妹は近くで葉物を抱えている。
市場の奥では、次の仕事の声が飛んでいる。
行けない理由は、言葉にすると短かった。
短すぎるくらいだった。
◆
俺はまた、念話を組み立てた。
励ます言葉はいくつか思いついた。
そのうち全部、やめた。
お前なら行ける。
いつか行ける。
弟妹も分かってくれる。
どれも、人間だった頃なら言ったかもしれない。
便利な言葉だ。
便利すぎる。
タロの籠は重い。
弟妹の足音は小さい。
市場は今日も動く。
坂の上の家は戻らない。
だから、別の言葉にした。
(でも——見たいんだろ)
タロの呼吸が止まった。
今度の沈黙は、さっきより短かった。
短いのに、重かった。
「……うるさい」
タロが言った。
ネアの指が止まった。
タロはそれ以上言わなかった。
石様、とも言わなかった。
ふざけるな、とも言わなかった。
ただ、籠を持ち上げた。
今度は重さがまっすぐ上がった。
葉物を持った弟妹に、「そっち」と短く言う。
小さい足音が市場の奥へ向かった。
タロも続いた。
足音は生活の方へ戻っていった。
ネアは、まだ薬草の束を持っていた。
結び目は、もうできている。
それでも指は、その上にあった。
「……うるさい」
小さく、ネアが言った。
タロに向けた声ではなかった。
俺に向けた声でも、たぶん違う。
同じ言葉なのに、少しだけ違った。
タロの「うるさい」は、触られた場所を押さえる声だった。
ネアの「うるさい」は、押さえる手が見つからない声だった。
ネアは外を知らない。
タロも知らない。
俺も知らない。
誰も答えを持っていなかった。
それでも、ネアはタロを呼ばなかった。
俺も呼ばなかった。
追いかけて何か言えば、たぶん言えた。
でも、タロはもう籠を持っていた。
弟妹の歩幅に合わせていた。
今は、それをほどく時じゃない。
ネアは薬草の束を籠に入れた。
指がポケットの上に一度だけ触れた。
すぐ離れた。
何も言わなかった。
◆
市場の昼は、元に戻った。
井戸の縄がきしむ。
ヴェラが誰かを叱る。
ぐりが雑貨屋の影で転がる。
坂の上の家の重さは、戻らない。
行商人の場所には、まだ荷車がない。
タロの足音は市場の奥で動いていた。
籠を置き、芋を分け、弟妹を呼び戻す。
全部いつもの動きだった。
でも、ひとつだけ残った。
籠を置いたあと。
弟妹を追いかける前。
タロの足先が、ほんの少しだけ街道の方へ向く。
すぐ戻る。
戻るけれど、消えない。
(タロ。お前にも、見せてやりたいものがある)
タロが、外の話をしていた。
「……うるさい」
——見たい、の手前。
俺は、見せられない。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「石喰い(ぐり)の大冒険」もよろしく。
たぶん、走るらしい。
——石より




