第54話「石喰い(ぐり)の大冒険」
朝の市場は、だいたいうるさい。
パン屋の戸板。木箱を引きずる音。タロが「そこ、俺が持つ」と言って、持たなくていいものまで持とうとする声。
ネアのポケットの中で聞いているぶんには、全部まとめて朝だった。
ただ、その朝の中に、ひとつ足りなかった。
ごろり。
雑貨屋の隅で聞こえるはずの、硬い転がり。
ぐりの音が、なかった。
◆
ネアは市場の端で薬草の束を受け取っていた。
指先が布を押さえる重さは、いつもの仕事の重さだった。
タロは少し離れたところで籠を運んでいる。
足音は戻っている。けれど、街道の入口へ向いた重さだけは、まだ薄く残っていた。
グラン爺の家の方から届いた咳も、軽くはない。
朝は戻った。戻っていないものもある。
そのへんを考えていたら、また聞こえた。
ごろ。
雑貨屋ではない。
裏手の崩れた壁の方だった。
◆
ぐりは、壁の裏にいた。
正確には、壁の裏で転がっていた。
転がる。
止まる。
また転がる。
そして、ときどき妙な音がした。
ごり。
石を噛む音だった。
石喰いなんだから石を食うのは当然だ。
当然なのだが、朝食みたいにやられると、こちらの常識が少し嫌な音を立てる。
(朝から壁か)
念話には出さなかった。
たぶん出しても、ぐりは返事をしない。
ぐりが口に入れているのは、崩れた壁の欠片だった。
ただの欠片ではない。
地脈の流れが淀んで、黒く軽くなった石。
地面を通して、少しだけ分かる。
腐った石だった。
◆
ぐりがその石を食べ終えると、壁の根元の重さが少し抜けた。
力を使った感じではない。光ったわけでもない。俺が何かしたわけでもない。
悪くなっていた石が消えた。それだけで、地脈の引っかかりが抜けた。
ぐりは次へ転がった。
雑貨屋の裏。
井戸の北側。
坂の曲がり角の、誰も踏まない石畳の端。
どれも、人の生活から少し外れた場所だった。
でも、廃都の下では全部つながっている。水の重さ。畑の土。市場の床。
ぐりが欠片を食べるたび、そこに混じっていた悪い軽さが抜ける。
ものすごく地味だった。奇跡というには、音が汚い。
ごり。
ごり。
(……お前、役に立ってたのか)
言ってから、少し後悔した。
◆
ぐりは止まらなかった。
返事もしなかった。感謝もなかった。誇らしげな気配も、たぶんなかった。
ぐりは念話に答える生き物ではない。
そもそも俺の言葉をどう受け取っているのかも怪しい。
ただ、転がる。
腐った石を見つける。
食べる。
次へ転がる。
役に立とうとしている動きではなかった。
廃都を守ろうとしている動きでもない。ぐりは、ぐりの腹に従っているだけに見えた。
それで廃都が少し軽くなる。
納得しにくい。かなり、しにくい。
俺は石だ。
要石らしい。
街の地脈を少しずつ戻している。
その隣で、よく分からない石喰いが朝飯で同じ方向の仕事をしている。
(俺の立場)
念話には出さなかった。
◆
「……ぐり」
ネアが小さく呼んだ。
市場の端で、薬草をまとめる手が止まっていた。
ぐりは戻ってこない。
坂の下の割れた敷石のあたりで、また止まった。
そこには、薄く腐った石が埋まっていた。
人の足では気づかないくらいの淀みだった。
ネアは何も言わず、薬草の束を置いた。
追いかけようとしたのか、足が動いた。
『ネア、待て』
言ってから、俺はすぐ続けた。
『たぶん、大丈夫だ』
大丈夫、という言い方は雑だった。
でも他に言い方がない。ぐりは危ないが、今は廃都の悪い石を食べている。
ネアの足が止まった。
「……食べてるの?」
『壁とか、石畳とか。悪くなったやつだけだと思う』
「おなか、壊さない?」
(心配そこか)
出しかけて、やめた。
ネアの声は短い。でも、足はぐりの方へ向いたままだった。
◆
タロが籠を抱えたまま近づいてきた。
「石様、ぐりが何かやってるのか?」
『朝飯だ』
「朝飯!?」
声が大きい。
近くの犬が吠え、ヴェラがパン屋の前で「朝から何を騒いでんだい」と言った。
ぐりは何も気にしない。
坂の下の腐った石を食べ終え、今度は井戸の裏へ転がっていった。
井戸の水は前より澄んでいる。
畑の土も、前よりましになっている。
俺の力だけでは届きにくい隅がある。人が踏まない場所。壁の陰。古い石の下。
ぐりはそこを勝手に回っていた。
勝手に。
大事なところだ。
命令していない。頼んでいない。俺が動かしたわけでもない。
だから、止めなかった。
止めなかったのだが、ぐりはそこで終わらなかった。
井戸の裏の石を食べたあと、ぐりは市場の中央へ転がってきた。
まっすぐではない。
木箱の脚に当たる。
止まる。
野菜籠の横を抜ける。
タロの靴先に当たりかける。
「うわっ、ぐり!」
タロが籠を抱えたまま跳ねた。
籠の中で小さな芋が転がり、地面に落ちた。
ぐりは芋には向かわなかった。
石喰いだから当然だが、今の俺は少しだけ芋の方を応援した。
ぐりはそのまま、市場の古い石畳の継ぎ目へ向かった。
人が毎朝踏んでいる場所だった。
踏まれすぎて、表面は平らになっている。
けれど、その下の細い割れ目に、黒い軽さが残っていた。
ぐりがそこへ鼻先みたいな部分を押しつけた。
いや、鼻がどこかは知らない。
たぶん、ない。
ごり。
石畳の端が少し欠けた。
ヴェラが「そこは道だよ」と言った。
ネアの足も動いた。
『待て。たぶん、下が悪い』
俺はそう言った。
ネアは止まった。
ヴェラは止まらなかったが、ぐりの方へ近づく足は少しだけ遅くなった。
ぐりは欠けた石を食べた。
その下の引っかかりが抜ける。
市場の中央を流れる細い地脈が、ほんの少しだけ通った。
道は少し欠けた。
廃都は少し軽くなった。
どちらを先に怒ればいいのか、石には難しい問題だった。
市場は、その間も朝だった。
ヴェラは欠けた石畳を見て、短く息を吐いた。
「……まあ、昨日より水はいいからね」
怒る声ではなかった。
許した声でもなかった。
その中間の、朝の忙しい人間の声だった。
タロが落ちた芋を拾い、土を払った。
その足の向きは、一度だけ街道の入口へずれた。
すぐ戻った。
ネアは何も言わず、ポケットの上から俺を押さえたまま、ぐりの方を見ているらしかった。
たぶん、顔は見えない。
でも、指の重さが少しだけ強かった。
ぐりは誰にも謝らない。
当然だ。
石喰いが謝ったら、それはそれで別の問題になる。
◆
昼前には、ぐりは雑貨屋の隅へ戻ってきた。
市場の人たちは、ほとんど気づいていなかった。
気づいたとしても「また転がってる」くらいだった。
廃都の下は少し軽くなっていた。
井戸の縁の淀みが消えた。
坂の下の引っかかりも薄くなった。壁の裏の腐った気配も、今朝のぶんだけ消えている。
タロの足の重さは、まだ街道の方に残っている。
グラン爺の咳も、軽くなってはいない。全部がよくなるわけではない。
それでも、ぐりが通った場所だけ、廃都は少し食べ残しを減らしていた。
ぐりは雑貨屋の隅で止まった。
硬い表面の気配が、ゆっくりこちらを向く。
ネアのポケット。
つまり、俺の方。
(おい)
ぐりは動かない。
腐った石ばかり食べていた気配が、今度はまっすぐ俺に向いている。
俺は腐っていない。
たぶん。
そこは信じたい。
ぐりは戻らない。
食べもしない。ただ、こっちを見るみたいに向いている。
ネアの指がポケットの上から、俺を押さえた。
「……だめ」
ぐりは、何も答えなかった。
◆
朝の市場は、いつもの音に戻っていた。
パン屋の戸板。籠の底。タロの足音。ネアの短い返事。
その下で、廃都の地脈は少しだけ軽い。
ぐりの腹に消えた石のぶんだけ、古い淀みが減っている。
けれど、雑貨屋の隅から向けられた気配は、まだ俺の方にあった。
食べ終わった顔では、なかった。
*【第54話 了】*
ぐりの朝飯。
「……だめ」
——食べていい石と、だめな石。
俺は、だめな方に入れてほしい。
石だが。
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ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「廃都に子どもが増えた」もよろしく。
また増えるらしい。
——石より




