第114話「ほどける前」
「ねえ、石って、聞いてるのかな」
男の子の声は、綱より先に来た。
礼拝堂の床を細く走って、割れた石の下で少しだけ散った。朝の足音よりも軽い。けれど、いつもの「おはよう」ではなかった。
その違いだけで、俺は少し身構えた。
石が身構えるとは何だ、という話ではある。できることは、せいぜい黙っていることくらいだ。聞いている。聞いているが、この子には届かせようがない。
「これ、まだ置いてある」
これ。
その一語が、床の上の空白を指した。
俺には、指の向きも顔も分からない。分かるのは、男の子の足が礼拝堂の入口で止まったこと。いつものように綱の真下へ進まず、横へずれたこと。ネアがその少し後ろで、袋の重みを膝に移したこと。
包みは、まだそこにある。
女が置いていったもの。結び直された紐。薄い板のような中身。
そこまでは、前に触れた。これ以上を急いで確かめに行くと、石のくせに覗き見が過ぎる。
地脈を細く伸ばせば、布の下の硬さや、置いた者の歩幅の残りくらいは拾えるかもしれない。
でも、今それをやるのは違う気がした。
俺は動けない。なら、動かないなりの距離がある。
誰かが置いたものを、勝手にほどく役まで引き受けたら、もう石ではなく不審物だ。
「……ある」
ネアが短く答えた。
「ネアの?」
「ちがう」
「じゃあ、石の?」
(石に荷物を送る文化があるなら、まず差出人を確認したい)
「ないと思う」
ネアの返事は、いつも通り短かった。
男の子は笑わなかった。いつもならそこで少し肩の力が抜けるのに、今日は足裏の圧が床に残ったままだった。
綱がまだ鳴らされていない。
礼拝堂の朝は、そこだけ順番が違っていた。
男の子は包みの近くまで行って、止まった。
触らない。蹴らない。ほどかない。子どもにしては、妙に律儀な距離だった。
「これ、鳴る前に置くやつ?」
声が、床を通って俺の中に入った。
鳴る前。
何が、と聞くまでもなかった。
礼拝堂には鐘がある。鳴らない鐘だ。
毎朝、男の子は綱を引く。鐘は鳴らない。それでも彼は来る。ネアは菜を置き、火の残りを分け、たまに黙って座る。
その全部が、ここではもう日常になっていた。
けれど男の子の問いは、その日常の下に、別の床を一枚出した。
昔、この鐘が鳴っていた頃。
鳴る前に、何かを置く人がいたのか。
この包みは、その続きなのか。
「だれが、言ったの」
ネアが聞いた。単語を置くだけの、いつもの聞き方だった。
男の子の爪先が、石の欠け目を踏み直した。
「ばあちゃんが、言ってた。鐘って、鳴らす前に待つんだって」
「まつ?」
「すぐ鳴らすと、怒られるって」
「だれに」
「知らない。ばあちゃん、そこで寝ちゃったから」
怒られる。
急に生活の気配が出る言葉だった。
ただ、床に残った古い圧の並びが、その言葉で少しだけ意味を変えた。
綱の前。
鐘の真下。
そこには、同じあたりに重なった小さなくぼみがいくつもあった。
ひざをついた跡か、荷を置いた跡か、長い時間そこにいた者の重さか。
昨日までなら、ただ擦り減った床だった。今日は、誰かが鳴る前に待っていた場所に思えた。
ネアがそのへこみのひとつに、指を置いた。
深さを測るのでもなく、ただ大きさを比べるみたいに。彼女の膝が床へ近づいて、俺は袋ごと少し下がる。
へこみは、大人の膝より小さかった。子どもの膝なら、ちょうど埋まる。
今の男の子と、同じくらいの。
思えただけだ。
断定すると、だいたい間違う。前世で何度も見た。
「なにを待つかは、言ってなかった」
男の子が付け足した。ばあちゃんの話は、そこで終わっていたらしい。
(何を待つんだろうな)
ネアは答えなかった。答えを持っていないのだと思う。持っていたとしても、ここで説明する子ではない。
彼女は袋を下ろし、中から小さな菜の束を出した。
置く場所を少し迷って、いつもの石の欠け目ではなく、礼拝堂の壁ぎわに寄せた。包みから離したのだ。
それだけで十分だった。
触らない。混ぜない。勝手に自分たちのものにしない。
男の子は菜の束と包みのあいだを行ったり来たりするように足をずらした。
迷っている。声を出す前の迷いは、床に出る。
「これ、置いた人、戻ってくる?」
ネアの指が、袋の口を押さえた。
「たぶん」
「じゃあ、怒らない?」
「なにが」
「ぼく、綱引いてる」
そう来るか。
俺は、少し遅れて理解した。
男の子は包みの中身を知りたいのではなかった。置いた人が誰かを当てたいのでもない。
戻ってくるかもしれない誰かに、この毎朝の行為を見られること。
鳴らない鐘を鳴らすふりみたいに引いていること。
それが、よその人の場所を勝手に使っていることになるのか。
子どもの不安は、変なところで礼儀正しい。
(怒らないんじゃないか)
そう思ってから、少し雑だったと思った。
知らない女の代弁をする権利は、石にはない。石に限らず、誰にもあまりない。
分からない。分からないが、綱を引いてることは、隠すことじゃない。それだけは、たぶん言える。
ネアが俺のほうに少しだけ体を向けた。布越しに、彼女の重心が伝わる。
同じことを考えている時の、重さの置き方だった。二週間も胸の前に吊られていると、そういうものまで分かるようになる。分かってどうする、とも思う。
「……引く?」
ネアが言った。
男の子はすぐに返事をしなかった。
足裏の圧が、綱のほうへ少し寄る。そこで止まる。包みのほうへ戻りかける。また止まる。
小さな体の中で、たぶん2つのことがぶつかっている。
毎朝やってきたこと。
今日だけは、誰かの前でやるかもしれないこと。
「置いた人、聞くかな」
「なにを」
「なんで鳴らないのに引くの、って」
それは、俺も少し聞きたかった。
いや、嘘だ。ずっと聞きたかった。
でも聞かなかった。男の子が毎朝引くなら、それでいいと思っていた。鳴らない鐘に理由をつけると、途端に立派なものになる。
立派な鐘は、きっと王都のどこかにある。
大きな場所で、大きな音を出して、大勢に時間を知らせる。そういうものが本来の鐘なのだろう。
ここにあるのは、鳴らない鐘だ。
それでも毎朝、ひとりの子どもが綱を引きに来る。
量で負けて、質で勝っている、と言うのも違う。そういう採点表に乗せた瞬間、この場所の小ささが別のものにされる。
ただ、残っている。
それも今日は言わない。使いすぎると、言葉はすぐ薄くなる。
ネアが綱の下へ歩いた。
自分で引くためではない。男の子が立つ場所の横、少しだけ離れたところに立った。
「聞かれたら」
男の子が顔を上げた気配がした。
「朝だから、って言えば」
説明ではなかった。
でも、答えにはなっていた。
男の子はしばらくその場で足を揺らしたあと、綱をつかんだ。
古い繊維がこすれる細かな震えが、床に落ちる。腕の力が入る前に、息のようなためらいが綱を伝った。
鐘は鳴らない。
綱が引かれ、上の金具がわずかに軋み、床のくぼみに男の子の重さが乗った。
音ではなく、動きの跡だけが降りてくる。
1回。
いつもなら続けてもう1回引く。
けれど今日は、そこで止まった。
綱の震えが消えたあとも、男の子の手は綱の高さに残っていた。下ろすのを忘れたのではなく、下ろさないでいるのだと、圧の残り方で分かった。
男の子は綱を握ったまま、包みのほうへ声を向けた。
「朝だから」
誰に言ったのかは分からない。
置いた女にか。
前にここで待っていた誰かにか。
それとも、まだ鳴らない鐘にか。
声は小さかったが、礼拝堂の床は拾った。
拾って、割れ目の奥へ少しだけ残した。
ネアは何も言わなかった。
代わりに、菜の束をもう少し壁ぎわへ寄せた。包みから離しすぎず、近づけすぎず。戻ってくる誰かが気づける場所に。
誰かの朝を乱さない距離でもあった。
男の子が綱を離す。
古い綱は、ゆっくり戻った。
その戻り方が、ほどける前の紐に似ている気がした。
まだ結ばれている。まだ誰のものか分からない。けれど、誰かの指がそこへ来れば、すぐに形を変えてしまう。
包みは開かれなかった。
女も来なかった。
問いだけが、礼拝堂に増えた。
これは鳴る前に置くものなのか。
昔、ここで誰が待っていたのか。
戻ってくる人は、朝の綱をどう聞くのか。
答えはない。
ないまま、床の古いくぼみと、今日の小さな足跡が隣に並んだ。
「あした、来る?」
ネアが聞いた。
男の子は少し考えた。
「来る。来ないと、朝じゃないし」
それだけ言って、彼は入口のほうへ走りかけた。
途中で戻って、包みには触らずに、綱の下にしゃがんだ。膝が、床の古いくぼみのひとつに、すっと収まった。狙ったのではない。ちょうどよかっただけだ。
そのまま、床へ向けて小さく言った。
「置いた人にも、朝あるかな」
ネアが目を向けた気配だけが、布越しに届いた。
俺は答えなかった。答えられる相手でもない。
答えたら、たぶんほどけてしまう。
まだ、ほどける前でいい。
あとがき
男の子のばあちゃん、初登場です(声だけ)。
鐘は今日も鳴りませんでしたが、問いは増えました。☆やブックマークで見守ってもらえるとありがたいです。
次回「鳴る前の朝」。
——石より




