第115話「鳴る前の朝」
綱が引かれる前から、礼拝堂の奥に重さがあった。
音ではない。誰かの声でもない。
地脈を伝ってくるのは、吊られたものが長いあいだ自分の重さを忘れずにいた、というだけの、鈍い張りだった。
床石を通してくるのは、いつもの朝より一段低い硬さだった。ゆるんで垂れている綱と、引かれるのを待ったまま固まっている綱とでは、下へ届く重さの底が違う。石になってから覚えた区別のひとつだ。
ネアの袋の底で、俺はその張りを受けていた。
布越しに、ネアの歩幅が短くなる。足を置くたび、石畳が少しだけ硬く応じる。礼拝堂の入口に近づくと、いつものへこみ、いつもの欠け、いつもの乾いた空洞があった。
ただ、今朝はそこに一本、余計なものが通っていた。
綱だ。いや、正確には綱にかかったまだ引かれていない力だ。
(引く前から重いって、なに。出勤前の月曜か)
短く浮かんで、すぐ消した。石に曜日はない。たぶん。
男の子はもう来ていた。
ネアが入口の割れた敷居を越える前に、小さな足の置き方が変わった。誰かを踏まないように、物を避けるように、ほんの少しだけ外へ逃がす足だ。
「……いる」
ネアが言った。
「うん」
男の子の返事は、それだけだった。今日はそこから先が続かなかった。問いも、昨日の話の続きもない。だから俺も、そこに引っかからずに済んだ。
ネアはいつもの場所に膝をついた。
小さな包みを置く音。菜を挟んだ薄いものが、石の上に軽く乗る。彼女が持ってきた分だ。女が残した包みとは別の、今日の食べ物。
男の子がそれに手を伸ばす。紙か布か、薄いものがこすれる気配。
食べる前に、彼は礼拝堂の奥へ向き直ったらしい。ネアの体の向きが少し変わり、袋の中の俺もゆっくり傾いた。
そのとき、奥の重さが一度だけ増した。
誰もまだ綱を引いていない。それなのに、上のほうで何かが待っている。
待つ、という言い方は違うかもしれない。鐘に意思を持たせると、話が急に怪しくなる。俺は石だが、同業者を擬人化しすぎる趣味はない。
ただ、吊られた金属には重さがある。綱には引かれる前のゆるみがある。
その二つの間に、今朝だけ細い張りが残っていた。
壊れているから鳴らない。それで片づけるには、少しだけ合わない張りだった。
男の子が綱に触れた。
先に来たのは、綱が指に沈む小さな圧だった。次に、古い麻の繊維が引き合う気配。ネアの袋越しに来るものではなく、石畳の奥から上がってくるものだ。
男の子は急に引かなかった。いつもなら、朝の最初に一度、力を入れる。鳴らないと分かっていても、確かめるみたいに。
今日は、先に重さを量っていた。
綱の下端がわずかに下がる。そのぶん、上の鐘が答えるはずだった。
答えなかった。
音は来ない。
代わりに、礼拝堂の割れた石と、残った柱と、昔から踏まれて擦れた板が、ほんの少しだけ奥へ押された。押された、というより、息を止めたみたいに固まった。
(鳴ってない。鳴ってないのに、鳴る前みたいな顔をしてる)
顔は知らない。言い直すなら、そういう重さだった。
ネアは何も言わなかった。説明も、問いもしなかった。
ただ、男の子の横に菜を置いて、包みが綱の邪魔にならない位置へずらした。
女の残した包みは、奥の壁際にあった。紐の結び目は、今日も解けていない。
俺はそれを見たわけじゃない。ネアがそこへ手を伸ばす直前、布越しに伝わる指の止まり方で分かった。
開けられる。知ろうと思えば、俺はもう少し深く地脈へ寄れる。薄い板の重なり、紐の締まり、包みが石に預けているわずかな重さ。その全部を、横から撫でるくらいはできるかもしれない。
でも、やめた。
俺が先に知って、それをネアに渡す話ではない。そもそも俺は動けない石で、探偵役の便利な置物ではない。置物ではある。そこは否定できない。
ネアの指は包みの端に触れ、それから離れた。彼女は男の子のほうへ戻る。
「食べる」
「あとで」
「今」
「……うん」
短いやり取りだった。男の子は綱から片手を離し、菜を受け取った。
噛む音は、俺には直接分からない。けれど、肩の力がわずかに落ちると、ネアの袋にかかる空気まで柔らかくなる。
礼拝堂は、その小さなやり取りを挟んでもまだ張っていた。
男の子がもう一度、綱を握る。今度は迷わなかった。
ぐ、と下へ引いた。
綱の重さが、下へ移る。腕の力。足裏の踏ん張り。古い柱が受ける斜めの負荷。吊られた鐘の芯まで、細い線でつながっていく。
鳴らない。
分かっていた。それでも、今朝の鳴らなさは、ただ失敗した結果ではなかった。
上で何かがほどけかけて、まだほどけきらない。結び目とは違う。包みの紐でもない。もっと古くて、誰か一人の手では決められないもの。
男の子の腕が止まった。綱は少し戻り、また下がり、最後に古い麻の癖で揺れた。
揺れた、と言っても音になるほどではない。礼拝堂の中に広がったのは、空振りの軽さではなく、重いものが目を開ける直前のような間だった。
(いや、目もない。俺、今日ずっと比喩が危ない)
石が石に厳しくしてどうする。
男の子は息を吐いたらしい。ネアの体が、その吐き方に合わせて少しだけ傾いた。
「鳴らないね」
「うん」
それで終わるはずだった。
終わらなかった。
男の子は綱を離さず、手の位置を少しだけ変えた。上へ戻したのではない。次に引くための持ち直しでもない。
綱の太いところを探している。擦り減ったところではなく、まだ芯の残っているところ。
彼はそこを握った。
その瞬間、礼拝堂の奥の重さが、初めて下へ降りてきた。
鐘が動いたわけではない。少なくとも、鳴るほどではない。地脈に伝わるものは、移動ではなく、釣り合いの変化だった。上に吊られたままだった重さの一部が、綱を通って男の子の手に乗った。
床の下では、柱の根が受け持っていた分が、そのぶんだけ軽くなった。
壁際の包みが石に預けている重さも、同じ拍子でわずかに動いた。読みに行ったわけではない。地脈が、そう伝えてきただけだ。
男の子が、受け止めた。
小さい体には重すぎる。それでも離さなかった。
ネアが横から片手を出した。綱を一緒に引くのではなく、男の子の手首の下に、そっと手を添えた。支えるだけ。奪わない。
男の子の足が、石畳をもう一度踏んだ。
今度の引きは短かった。音は、やはり来ない。
ただ、来ないものの形が変わった。
これまでは、穴だった。鐘が鳴る場所に空きがあり、そこへ何も入らない。そんな鳴らなさだった。
今朝は違う。空いているのではなく、まだ満ちていない。綱の先に、鐘の中に、礼拝堂の柱の根元に、何かが少しずつ寄っている。
鳴らない鐘、では足りない。鳴る前の鐘。
俺はその違いを、誰にも言えなかった。ネアには言える。でも言わなかった。
『今の、少し違った』
そう送ることはできた。けれど、ネアはすでに分かっていた。説明としてではなく、手首に添えた指の残し方で。男の子の手からすぐ離さず、かといって握りしめもしない。その中途半端なやさしさで。
男の子が綱を離した。麻の束が戻り、壁際に軽く当たる。
礼拝堂の奥の張りは消えなかった。むしろ、綱から手が離れたあとで、ゆっくり残った。
朝だから、何かが始まる。そんな言い方なら、たぶん簡単だ。
でも、ここで始まっているのはもっと不器用なものだった。
鳴らない鐘の下に、毎朝来る子どもがいる。開けられない包みがある。戻ってこない女の結び目がある。
それらが今日は、別々のまま、同じ重さのほうを向いた。
「明日も来る」
男の子が言った。
「うん」
ネアは菜をもう一つ置いた。
「残しとく」
「食べていいの?」
「いるなら」
男の子は少し迷ってから、うなずいた。
会話はそれだけだった。昨日みたいに問いは増えない。鐘の昔話も、女の包みも、誰も答えにしない。
それでよかった。
今日分かったのは、答えではない。
ただ、鐘が壊れたままの物ではなくなったことだ。男の子の手の中でも、たぶん。ネアの添えた手の中でも、少し。
ネアが立ち上がる。袋が持ち上がり、俺の重さも彼女の腰へ戻った。
礼拝堂を出る前、ネアは一度だけ奥へ向いた。
包みには触れない。綱にも触れない。ただ、男の子が握った太いところを、布越しの距離で確かめるように止まった。
『ネア』
俺はそこで、やっと短く送った。
『明日、重いかもしれない』
ネアは少しだけ袋を押さえた。
「……うん」
返事はそれだけだった。
外へ出ると、礼拝堂の中の張りは遠くなった。けれど消えない。石畳の下を、細いままついてくる。
外の空気は朝の温みを半分ほど含みはじめていた。それでも礼拝堂の底に残った重さだけは、その温みに追い出されずにいた。
次にあの綱が引かれるとき、何かが足りないままでは済まない。
そういう重さが、廃都の端で、鳴らない鐘の下に残っていた。
あとがき
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次回「綱の下で」もよろしく。石でも、少し身構える朝はある。
——石より




