第113話「結び目の硬さ」
綱を引く手つきが、今日は少し乱れていた。
礼拝堂の奥で、古い麻がこすれる。鐘は鳴らない。鳴らないのに、男の子は朝になると来て、何度か綱を引く。それはもう仕事というより、忘れ物を取りに来るみたいな動きだった。
俺に入ってくるのは音そのものではない。綱が梁をこすり、石敷きに足裏の重さが移り、空っぽの鐘が上でわずかに身じろぎする。その順番だけだ。
今日は、その順番が一つ余った。
男の子が綱から手を離す前に、もう片方の足をずらした。迷っている。鐘ではなく、礼拝堂の脇に置かれた包みのほうへ、体の向きが変わったのが分かった。
「ネア」
男の子の声は、いつもより小さかった。
「これ、昨日もこの結び方だった?」
ネアは返事をしなかった。代わりに歩いた。俺は袋の底で、布越しに揺らされる。揺れる、というより、運ばれる。石としては通常営業だ。
(異世界転生、移動手段が十一歳の徒歩)
便利さでいえば馬車に負ける。信頼度では勝っている。たぶん。
ネアがしゃがむ。布の外から、硬いものへ近づく気配がした。包みは礼拝堂の端、崩れた壁の内側に置かれている。前に女が置いていったものだ。中身はまだ、誰も開けていない。
誰も、という言い方は正確じゃない。
開けたいと思った者はいたはずだ。男の子も、ここへ来るほかの小さい足も、たぶん何度か近寄っている。けれど包みは残っていた。崩れた礼拝堂で、鳴らない鐘の下で、開けられないまま。
ネアの指が、包みの紐に触れた。
布越しに伝わってきたのは、細い繊維のざらつきだった。前に触れた時より、結び目が硬い。きゅっと締め直されている。古い紐は伸びているのに、そこだけ力が新しい。
ネアは結び目を指の腹でなぞった。ほどこうとはしない。巻きの向きを確かめるだけの触り方だった。俺に巻きの向きは分からない。ただ、紐が布を押す小さな段差が、布越しに二つ数えられた。前に触れた時は、一つだった気がする。
新しい力の入り方は、男の子の細い指のものではなかった。
「……違う」
ネアが言った。
男の子が息を飲んだ。大げさな音ではない。ただ、足の重さが石敷きに少し残った。
「やっぱり?」
「うん」
「昨日、ぼくが帰る時は、もっとほどけてた。ここ、ぴろんって」
説明しながら、男の子の指が紐の端をつまむ。ネアはその手首を軽く押さえた。強くはない。止めるだけの力。
「あけない」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
男の子は少し黙った。ネアの言わなさとは違う。ネアは言葉を使わない時も用事をしている。男の子のそれは、言葉が出てくる場所を探している間だった。
「じゃあ、誰が直したんだろ」
礼拝堂にいるのは、ネアと男の子だけだ。少し離れて、菜を入れた小さな籠。割れた椀。誰かが座るには低すぎる石の段。鳴らない鐘の綱。
そして、俺。
数に入れていいかは毎回悩む。石なので。
男の子は、礼拝堂の入口のほうを一度気にした。誰かを待っている足ではない。来てほしくない足音を探すものでもない。来ていたかもしれない誰かを、あとから追いかけるみたいな重さだった。
「朝より前かな」
「なにが」
「その人。ぼくが来るより前に来たなら、鐘、引いたのかなって」
ネアは綱を見上げたのだと思う。俺には分からない。ただ、袋の布が肩に沿って動き、視線の高さが少し変わった。
「鳴らない」
「うん。でも、知らない人なら、引くかもしれないだろ」
知らずに引く。鳴らないと分かる。そこで帰るのか、それとも包みの紐を締め直すのか。
その差は、たぶん大きい。
ネアは包みの横に手を置いた。中身を押したわけではない。ただ、布のたるみを確かめるように、端だけを持ち上げる。
その時、紐の結び目の奥で、薄い板のようなものがかすかに当たった。
金属ではない。石でもない。布でも、干した草でもない。軽く、平たく、角だけが妙に残っている。俺はそこで意識を止めた。
地脈に沿って読めば、もう少し分かるかもしれない。包みの重みが石敷きに落としている圧、紐が押さえている面、内側の隙間。たぶん、横から指を差し込むみたいに輪郭を拾える。
でも、それは違う。
俺はこの包みを開けられない。ネアの手も、まだ開けていない。なら、俺だけが横から全部読むのは、開けたのとあまり変わらない。
動けない石にも、しないでおくことくらいはある。
「また来たのかな」
男の子が言った。
ネアは紐から指を離した。
「女の人」
「見たの?」
「見てない。けど、これ、ぼくじゃない。ネアでもないでしょ」
「ない」
「ほかの子も、触らないと思う。ここのもの、勝手にさわると、あとで嫌な感じするから」
ネアが少しだけ首を傾けた気配があった。布越しだから動きそのものは分からない。ただ、髪が袋の口をかすめ、俺の周りの布がほんの少しこすれた。
「嫌?」
「うん。怒られるとかじゃなくて」
男の子は言い直す。
「鐘が鳴らないのに、ここで鳴らしたふりするの、なんか変だろ。包みも、それに似てる。開けたら、ここに来た人のふりになる気がする」
小さいわりに、ずいぶんややこしいことを言う。
でも、分かる気がした。
鳴らない鐘は、立派な鐘ではない。街の人間を集める力も、神殿みたいな名前も、たぶん持っていない。ただ、男の子が毎朝綱を引く。その分だけ、ここには朝が置かれる。
祈りが何かは知らない。
少なくとも、分かった顔で説明するには、俺の石歴が足りない。前世会社員歴を足しても足りない。会議で祈りを議題にしたことはない。
ただ、立派な鐘が鳴ることと、鳴らない鐘の綱を毎朝引くことは、同じ箱に入らない気がした。
大きさの問題ではない。
男の子は綱のほうへ戻らなかった。包みの前に膝をつき、指を組むでもなく、頭を下げるでもなく、ただ座った。
ネアは籠から菜を一枚出して、割れた椀の横に置いた。
「それ、食べものじゃないよ」
「知ってる」
「包みの人に?」
「違う」
「じゃあ誰に」
ネアは少し考えた。
「ここ」
男の子は目で見ているはずだ。俺には見えない。けれど、彼の体が少し前へ傾いたのは分かった。
「ここって、礼拝堂?」
「うん」
「礼拝堂って、菜を食べるの?」
「食べない」
「じゃあ、なんで」
ネアは割れた椀を指で押した。かた、と小さな接触が石に移る。
「からっぽ、いや」
それで説明は終わった。
男の子はしばらく何も言わなかった。ネアが説明役にならないのは、ある意味とても安定している。投げっぱなしではない。置いていくのだ。言葉も、菜も。
「じゃあ、ぼくも何か置く」
「ないなら、いい」
「ある」
男の子は服のどこかを探った。布がこすれ、薄いものが折れる音に近い振動がした。出てきたものは俺には見えない。ただ、石敷きに置かれた時の軽さで、紙か、薄く削った木片か、そのあたりだと分かった。
置く前に、男の子の重さが一度だけ止まった。走ってきた日の止まり方ではない。順番を待つ時の、短いやつだった。
「鐘の絵」
言ってから、男の子は慌てた。
「鳴るほうじゃないよ。ここのやつ」
ネアは頷いたらしい。袋が少し上下した。
「上手くないけど」
「いい」
「ほんと?」
「うん」
男の子は、薄いものを包みの横に置いた。包みには触れない。菜にも重ねない。割れた椀の端から少し離す。
さっきまで余っていた順番が、そこに収まった。
綱を引く。鳴らない。包みを見る。結び目が違うと気づく。開けない。代わりに、何かを置く。
礼拝堂の朝は、少しだけ手順を増やした。
それを儀式と呼ぶには、あまりに雑だった。
菜は椀からはみ出しているし、薄いものは端が少し反っている。男の子は置いたあとで角度を直そうとして、ネアに一度止められた。止められると、今度は両手を膝に置いた。
「ずれてる」
「いい」
「でも、鐘が曲がって見える」
「鐘、鳴らない」
「そういう問題?」
問題ではない。たぶん。
けれどネアは、それ以上直させなかった。曲がっているものを、曲がったままにしておく。ここに置かれたものが、きれいな形を求めていないと知っているみたいに。
俺は少し安心した。整いすぎた礼拝堂は、たぶんこの場所に似合わない。
俺は包みの中身を読まなかった。代わりに、結び目の硬さだけを覚えておく。誰かが戻ってきたかもしれない、という形で。
ネアは立ち上がり、籠を持った。
「また来る?」
男の子が聞いた。
「うん」
「女の人も?」
ネアは答えなかった。
その返事のなさは、知らない、の代わりではなかった。知らないことを、知らないまま置いておくためのものだった。
床が受け取ったものを、俺は布越しに数え直す。菜が一枚。薄いものが一枚。結び目の硬さが、一つ。
明日、数が変わっていたら、俺が最初に気づく。
ネアは籠を持ち直して、入口の光のほうへ歩き出した。男の子が先に外へ出て、砂利が二人ぶん、間を空けて鳴った。
包みの紐は、まだ硬いままだった。
あとがき
今日は、開けませんでした。そういう日の話です。
☆やブックマーク、いつも助かっています。次回「ほどける前」。
——石より




