第109話「濡れ目」
床の下に、水の重さが残っている。
雨そのものはもう落ちてこない。
それでも礼拝堂は、一晩ぶん吸い込んだものを、まだ吐き出せずにいた。
ネアの袋の中で、俺は布越しの揺れを受けていた。
足が入口の石を踏む。いつもなら乾いた割れ目が先に鳴る場所で、今日は低く沈む。水を含んだ土が、石の下から返事を遅らせた。
礼拝堂の床板は、濡れたところから先に重くなる。
濡れていないところは、軽く鳴る。
その境目が、昨日より少し奥へ動いていた。
ネアは膝をつき、袋を胸に寄せた。布が押され、俺の片側に体温が伝わる。手の動きは見えない。けれど、指が床に触れるたび、板の下に細い震えが走った。
木片を探している。
床板の継ぎ目に入れた小さな木片。割れた板の口をふさぐために、ネアが昨日まで何本も差したものだ。
水を吸った木は、石とは違う沈み方をする。
軽いはずの一本が、今日は床の中で太っていた。隙間に入れた時より、わずかにきつい。そこだけ板の返りが短く、ネアの指を押し返す。
悪くない。
そう思ったところで、別の場所が鳴った。
かた、と乾いた音。
雨の前には聞こえなかった、薄い逃げ音だった。
ネアの指が止まる。
俺も止まる。動けない石が止まるというのも妙な話だが、聞き取る側の重心が固まることはある。
そこは入口から二枚目の板の端だ。水が回り、下の土が少し抜けた。木片は膨らんでいるのに、板の下だけが空いた。押すと締まり、足を置くと逃げる。
直した場所が、全部同じように強くなるわけではない。
男の子の足音が外から来た。
朝の綱を引きに来る足取りは、いつも少し急ぐ。今日も同じだ。ただ、入口の前で一度止まった。靴の裏に水を含んだ土が付いている。石段に乗せる前、かかとを二度こすった。
「……おはよう」
ネアは返事の代わりに、床を指で押した。
男の子はその意味をもう知っている。礼拝堂に入る時、まっすぐ鐘の綱へ行かない。入口の板を避け、壁側を回る。壁の下は石が多く、踏んだ力が俺にも細く届いた。
「そこ、まだ駄目?」
「うん」
ネアの声は短い。
短いが、床より先に答えた。
男の子は綱の下で足を止めた。鐘は半分欠けたまま、上で重さを抱えている。綱が下りているだけで、鳴るものはもう鳴らない。
それでも、彼は毎朝引く。
今日も両手をかけた。
綱が軋む。梁から壁へ、壁から床へ、古い振動が落ちてくる。濡れた板はその振動をよく飲む。乾いた板は少し跳ねる。
礼拝堂の中で、音の行き先が変わっていた。
水を吸った楔は、梁から来る震えを前より短く止める。緩んだ端は、逆に細く震えを逃がす。昨日まで一枚の板みたいに返していた床が、今日は場所ごとに違う返事をする。
ネアがその違いを拾う。
膝をずらし、片手で板を押す。もう片方の手が袋を押さえ、俺は胸と床の間で小さく揺れた。
男の子は綱を引き終え、息を吐いた。息そのものは俺には触れない。ただ、肩が下がる時に綱の張りが戻り、床へ落ちる振動が変わる。
「今日は、明るい」
男の子が言った。
ネアの顔が少し上を向く。その動きだけで、布越しに首の筋が伸びるのが伝わった。光は俺には届かない。けれど、ネアのまぶたが受けたものは、体の緊張を変える。
雨のあと、穴のある屋根から入るものが増えたのだろう。
俺はそれを光とは呼べても、光として受け取ってはいない。
ネアは答えなかった。
代わりに、足元の包みに手を伸ばした。
昨日の女が置いていった包みは、壁際の石の上にあった。ネアの指が布の端をつまみ、屋根の残っている側へ少し寄せる。水を吸った重さは伝わらない。包みは軽く、布のこすれる音だけを床に落とした。
中は開けない。
男の子も見ない。
彼は綱のそばに立ったまま、床の隙間を見ている。いや、見ているというのはネアから流れてきた判断だ。俺に届くのは、彼の足が同じ場所から動かないことだけだ。
「これ、昨日のまま?」
ネアはうなずいた。
うなずきは声より小さい。けれど袋の中の俺には十分だった。
男の子の足が一歩だけ近づく。
そこで止まる。
「触らないほうがいい?」
「うん」
「じゃあ、触らない」
返事が早かった。
子どもの早さだ。怖がって逃げる早さではなく、言われた線の手前で止まる早さ。彼は綱を引くためにここへ来る。包みを調べるためではない。
ネアは床へ戻った。
濡れた板に膝を置かず、乾いたところを選ぶ。膝が乗る場所で板の鳴りが変わるからだ。修理する者の体重も、床には試しの一つになる。
細い木片を一本、袋の横から取り出す。
いつ拾ったものか、端が少し欠けていた。ネアは指先で欠けた側を確かめ、入口から二枚目の板の端へ持っていく。
緩んだ場所だ。
差す前に、板を押す。
かた。
逃げ音が鳴る。
男の子が少し身を引いた。床の音に驚いたのではない。自分の足がその音を大きくしないように、重さを戻したのだ。
ネアは木片を差した。
一度では入らない。
木が雨を吸った床の縁に当たり、少し戻る。ネアは押し込まず、向きを変えた。欠けた側を下にし、もう一度差す。
今度は入った。
奥で、細い抵抗が生まれる。
板がすぐ強くなるわけではない。下の土が抜けたままなら、木片だけで持ち上がるものではない。それでも、次に押した時、音が半分になった。
ネアはそこで手を止めない。
手のひらで板を押し、指で継ぎ目をなぞる。濡れたところと乾いたところの境目を、床に聞いている。地脈というほど大きなものではない。礼拝堂一つぶんの、湿った返事だ。
「直った?」
男の子が小声で聞く。
ネアは首を振った。
「少し」
「少し、直った?」
「うん」
男の子の足が、ほんのわずか前に出た。
ネアが手を上げる。
止まれ、という形だ。
彼は止まった。
「そこは、だめ」
ネアの声が、今日は少しだけ長い。
男の子は素直に壁側へ戻る。綱の下まで行き、もう一度両手をかけた。
「もう一回だけ」
ネアは止めなかった。
綱が引かれる。
鳴らない鐘が、上で重さを変える。梁がきしみ、濡れた木が低く受ける。さっき差した木片の近くまで震えが来た。
かた。
音はまだ出た。
けれど、さっきより短い。
男の子は綱を離さず、床を踏まないように片足を引いた。踏みしめるのではなく、浮かせる。片足立ちのまま、彼は自分の体が作る震えを減らした。
ネアがその足元を見たのだろう。胸の奥が、わずかに動いた。
笑ったわけではない。
息が整っただけだ。
俺は石なので、笑いの始まりと息の戻りをよく取り違える。取り違えても、誰にも怒られない。石に表情の採点を任せるほうが無茶だ。
「こう?」
男の子が聞く。
「うん」
「じゃあ、ここに立つ」
「……うん」
その場所は、綱を引くには少し遠い。両手を伸ばさないと届かない。子どもの腕にはきついはずだ。それでも、床の緩い場所を踏まないで済む。
祈るために来る場所で、最初に覚えるのが足の置き場。
おかしな話ではある。
けれど王都の外の半壊した礼拝堂では、そういう順番になる。床が抜ける前に止まる。包みに触れない。綱は引く。鳴らなくても、引く。
祈りがどこへ届くか、俺には測れない。
ただ、重さなら届く。
男の子の足の重さ。ネアの膝の重さ。濡れた板が抱える水の重さ。壁際へ寄せられた包みの、軽い布擦れ。
どれも礼拝堂の中に残り、床の下で少しずつ場所を取る。
ネアは新しく差した木片の端を、爪で押した。
入りすぎていないか。浮いていないか。次に誰かが踏んだ時、足裏へ刺さらないか。
一つずつ確かめる。
男の子は綱の下で待った。
待つのがうまくなっている。
最初の頃は、引けない時間を持て余して足を鳴らしていた。その足音が、床の弱いところを教えることもあった。今は鳴らさない。
鳴らさないから、弱いところが聞こえにくい。
少し困る。
少し助かる。
ネアが板をもう一度押した。
か。
音は、かなり小さくなった。
ネアはそこで作業をやめ、手を服で拭いた。濡れた木に触れた指先から、冷えた感覚が布越しに伝わる。彼女の指は、雨のあといつもより硬く動く。
男の子が綱から手を離した。
「明日も、ここ?」
ネアは床を指さした。
「ここと、そこ」
男の子は自分の足元を見下ろしたのだろう。重心が前後に揺れた。
「踏まない」
「うん」
短いやりとりが、床の上で決まる。
礼拝堂の外でも、大きな祈りは動いているのだろう。厚い壁の内側で、名のある誰かが、名のある誰かのために手を合わせている。
ここには、名前を聞かれない朝がある。
男の子は綱を片手で持ったまま、もう片方の手を胸の前に当てた。祈りの形か、ただの癖か、俺には分からない。
ネアは見ていた。
何も言わない。
俺も何も言わない。
念話で声をかければ、何かは返ってくる。けれど今は、床の音のほうが多くを持っていた。濡れた場所、乾いた場所、締まった場所、緩んだ場所。
その全部を、二人は踏み分けている。
男の子が綱をそっと戻した。
梁から落ちる震えは、今度はほとんどなかった。綱だけが、壁に沿って短く揺れ、古い繊維のこすれを床に落とす。
ネアは包みの前を通る時、指先で布の端をもう一度だけ押さえた。
それから入口の板を避けて、壁側の石を踏んだ。
男の子も同じ道をたどった。
外へ出る前に、彼は少しだけ振り返った。ネアの体がそれを受け、袋の中の俺が小さく傾く。
「また明日」
「うん」
返事のあと、足音が石段を下りる。
濡れた土に乗った靴底が、礼拝堂から遠ざかる。重さはすぐ薄くなり、壁の下に残った水の重さだけが戻ってくる。
ネアはまだ出ない。
入口のところでしゃがみ、さっき男の子が避けた板に手を置いた。押す。離す。もう一度、押す。
か。
小さな音がする。
ネアは爪の先で木片を少しだけ叩いた。
音を確かめるための、弱い一打。
そのあと、彼女は袋を抱え直した。
胸の前で布が締まり、俺は濡れた床から少し離れる。
礼拝堂の奥に、包みが残る。
綱も残る。
差したばかりの木片も、次の足を待つ。
ネアは入口の石を選び、濡れた境目を踏まずに外へ出た。
雨のあと、床は少しだけ正直になる。
直ったところも、直っていないところも、踏むと返事をします。
石に足はありませんが、足場の大事さだけは毎朝教わっています。
☆評価・ブックマークをいただけると、ネアがあまり喋らないので、代わりに何か言ってくれると助かる。
次回「来ない朝」もよろしく。
——石より




