第110話「来ない朝」
雨のあと、礼拝堂の床は日に日に軽くなっていた。
濡れた木が抱えていた重さが抜け、割れた石の縁からも、水の名残が少しずつ退いていく。
ただ、全部が元に戻るわけではなかった。
水を吸った板は前よりわずかに曲がり、楔を打った場所は、そこだけ違う硬さで朝を受ける。ネアの足が通るたび、俺にはその差が分かった。
分かった、というより、覚えさせられた。
二週間近くここにいると、同じ場所を同じ足が踏む。濡れた床板を避ける歩幅。崩れた柱のそばを回る癖。包みの横だけ、ほんの少し速度が落ちること。
それらが重なって、礼拝堂はただの雨宿り先から、戻ってくる場所に変わっていた。
朝になる前の時間がある。
誰もまだ綱を引きに来ない。ネアも起きていない。壁の隙間から風だけが入り、割れた鐘の下を抜けていく。
その時間が、前と違った。
音が少ない、という話で済まない。雨の前にも、夜明け前は余白だらけだった。床は冷え、石は冷え、屋根の穴から落ちるものをただ受けていた。
今は、来ないことが来ていた。
誰も足を置かない床に、足を待つ形が残っている。綱がまだ引かれていないのに、梁の奥が引かれる前の細い緊張を抱えている。
俺は動けない。
それでも、礼拝堂の内側にできた空き間の密度が、昨日より少し変わったことは届いた。
(場所って、こうやってできるのか)
大げさな発見でもない。会社の休憩室だって、毎日同じ椅子に座る人間がいれば、その席だけ少し違う顔になる。
ただ、俺は椅子ではなく石で、ここは半分壊れた礼拝堂だった。
ネアが身じろぎした。
布が擦れ、床に置かれた木片がひとつ鳴った。彼女は起き上がる前に、手を伸ばす。俺の入った袋ではなく、壁ぎわの包みのほうへ。
触るだけだった。
ほどかない。持ち上げない。中を確かめない。
指先で布の結び目の位置を押さえ、昨日と同じ場所にあると確認してから、手を戻す。
それがもう、朝の支度の一部になっていた。
水を汲む前に桶を見る。火を入れる前に灰を寄せる。そういう動作と同じ並びで、ネアは包みを確かめた。
誰かが置いていったものは、名前のないまま、ここに一晩ずつ残っている。
『開けないのか』
聞いたあとで、少し余計だったと思った。
ネアは俺の袋を持ち上げ、膝の上に置いた。布越しに、体温が遅れて乗る。
「開けない」
短い返事だった。
理由はつかなかった。
ネアの理由は、たいてい手のほうに先に出る。彼女は包みの前に落ちていた小さな石粒を拾い、床の割れ目へ寄せた。包みを支えるためじゃない。誰かの置いた位置を、ただ乱さないための動きだった。
俺はそれ以上聞かなかった。
外から、まだ細い足音が近づいてきた。
男の子だ。
毎朝来る。来る時間は少しずつ違うが、入口の崩れた段を踏む前に一度止まる癖は変わらない。濡れた石が乾きはじめてから、その止まり方も短くなった。
「おはよ」
返事の前に、彼は綱へ向かった。
最初のころは、包みを見るたび足が乱れた。誰のものか、何が入っているのか、聞きたいのが床にも分かるほどだった。
今日は違った。
彼は包みの横を通るとき、わずかに爪先を内側へ逃がした。踏まないための距離だけ取って、そのまま割れた鐘の下へ行く。
気にしなくなったのではなく、そこにあるものとして扱いはじめた。
「床、乾いてきた」
男の子が言った。
ネアは木片を並べていた手を止めずに、「うん」と返した。
「昨日、ここ、沈んだ」
彼の足が板の継ぎ目を押した。雨を吸ったところだ。昨日までなら、重さが乗ると奥で湿った音がした。
今日は違う。
まだ頼りないが、沈みは浅い。ネアが打った楔と、男の子が拾ってきた薄い木片が、板の逃げる先を狭くしていた。
ちゃんと直ったとは言えない。
歩ける場所が一歩分増えた。それだけだ。
それだけで、礼拝堂の中を通る足の道は変わる。
男の子は綱を握った。両手をかけ、体を後ろへ倒す。梁の奥がきしみ、割れた鐘が上で擦れた。
音にはならない。
欠けた縁が重さを受けて、途中で止まる。震えだけが、壁の破れたところでほどける。
そのあと、王都の内側から鐘が届いた。
壁の向こうの鐘は、ひとつではなかった。低いもの、高いもの、遅れて追うもの。石壁を越えてくるころには角が削れていたが、それでも大きな場所で鳴らされた重みがあった。
男の子の手が止まった。
ネアも顔を上げたのだと思う。袋越しに、膝の角度が少し変わった。
こちらの鐘は割れている。
向こうの鐘は、たぶん欠けていない。
俺はその差を数えなかった。数えた瞬間、礼拝堂の朝が別のものになりそうだった。
男の子はもう一度綱を引いた。
割れた鐘は、今日も鳴らない。
金具の震えが、さっきより短く下りてくる。
それでも、床に置かれた木片が小さく震えた。包みの布の端も、わずかに揺れた。ネアの指がそこへ伸び、端を押さえる。
「飛ばない」
男の子が言った。
「うん」
「中、重いのかな」
ネアは答えなかった。
聞き方に悪気はない。ただ、子どもの声は、ときどき扉のないところへまっすぐ入っていく。
彼もすぐに気づいたのか、綱を離して床の修理道具のほうへ行った。昨日拾った木片を、壁ぎわの山から選ぶ。
「これ、入る」
ネアが首を振った。
「厚い」
「じゃあ、これ」
「割れる」
「むずかしい」
男の子はそう言って、でも笑わなかった。床の穴の前にしゃがみ、木片を並べ替える。ネアの手がその横から入り、薄いものを一枚抜いた。
二人の手は似ていない。
男の子の手は急ぎ、ネアの手は止まる。急ぐ手が持ってきたものを、止まる手が場所に合わせる。
俺はその間に挟まれていた。
木が板の下へ入ると、床の奥の余りが少し減る。楔が打たれる。強く打ちすぎると逃げるので、ネアは石の欠片で短く叩いた。
コン。
間を置いて、もう一度。
コン。
男の子が息を止める。その止め方まで、床に残るようになった。
礼拝堂に、人がいない時間の形ができたのは、たぶんそのせいだ。足音だけではない。息を止めた跡、綱を引く前の力、包みに触れる指の迷い。
全部が過ぎたあとにも、次に入るもののための幅が残る。
(石のくせに、待合室みたいなことを考えている)
役立っても、床の穴は塞がらないのに。
ネアが三枚目の木片を差し込んだとき、外から風が入った。雨の残りを含んだ重さは、もう薄い。
包みの結び目が少しだけ動いた。
ネアはすぐに手を伸ばした。
ほどけてはいない。位置も変わっていない。けれど彼女は、さっきと同じ場所を押さえ、布の皺を指で戻した。
男の子はもう、それを見ても何も言わなかった。
彼は床の穴へ顔を寄せ、木片の端を爪で押している。包みのほうへ向きかけた足は、途中で戻った。
風の通り道にも、癖ができる。
割れた入口から入った風は、床に積まれた木片の山を回り、包みの手前で少し落ち、鐘の綱をかすって外へ戻る。
昨日までばらばらに触れていたものが、今日はひとつの室内として風を受けた。
そのことを誰も言わない。
言わないまま、男の子は木片を探し、ネアは結び目の皺を直す。
二人の手が動くたび、室内のかたちが少しずつ変わる。俺だけが、そのままだ。
ここでは、触れないものも置き場所を持ちはじめている。
女の人が来た日の重さは、まだ床の深いところにあった。濡れた布、止まった呼吸、差し出された包み。
でも、今日の朝はそれだけでは終わらない。
男の子の爪先がある。ネアの膝がある。割れた鐘の綱がある。乾きはじめた板がある。
「まだ、残ってる」
ネアが言った。
何が、とは続けなかった。彼女は床の穴ではなく、包みの横の小さな隙間を指で押さえていた。
男の子は、その言葉を受け取った顔をしなかった。
ただ、木片の山から細い一枚を選び直す。
「ここ?」
ネアはうなずいた。
細い木片は、包みのすぐそばにあった床板の浮きへ入った。雨で膨らみ、乾きはじめて反った端だ。
そこを直さなければ、誰かが通るたび包みの布を擦る。
男の子は今度こそ慎重に押した。力が足りず、木片は途中で止まる。
ネアが石の欠片を渡した。
彼は受け取り、叩く前にネアを見た。ネアは首を横に振り、もっと端を示す。
コン。
さっきより軽い音だった。
包みは動かなかった。
床板の浮きが少し下がり、包みの下にあった布の端が、板に引っかからなくなった。
礼拝堂の修理は、大きなことをしない。
穴は全部塞がらない。屋根もまだ開いている。割れた鐘は割れたままだし、壁の向こうの鐘みたいには鳴らない。
それでも、朝ごとに一か所だけ、誰かが通れるようになる。
朝ごとに一か所だけ、置かれたものが濡れずにすむ。
男の子は立ち上がり、綱をもう一度引いた。
割れた鐘は鳴らない。
今度は、包みの布は揺れなかった。床の木片が先に受けて、震えの残りだけが壁ぎわへ薄く広がる。
ネアはその響きが消える前に、包みの前へ小さな石粒を戻した。
朝の目印みたいに。
男の子は綱を結び、入口へ向かった。段の前で一度止まり、振り返る。
「また明日」
ネアは「うん」と言った。
彼の足音が外へ出る。
そのあと、礼拝堂には次の足音までの幅が残った。
包みのある壁ぎわ、綱の垂れる梁の下、直したばかりの床の上。どこにも人はいないのに、さっきまでいた人のために、場所が少しずつ空いている。
ネアは俺の袋を持ち直した。
包みの前を通るとき、彼女は足を止めない。ただ、爪先だけを少し外へ逃がした。
男の子と同じ避け方だった。
礼拝堂の朝は、それを覚えた。
割れた鐘でも、毎朝引かれると朝の顔をする。
包みはまだ包みのままです。石なので勝手に開けられないし、開けられても困る。
男の子が「また明日」と言って帰った。
石なので明日まで動かないし、たぶん俺はここで聞いている側になる。来ない朝の数え方も、そろそろ覚えてきた。
☆評価やブックマークで、来る朝をひとつ数えさせてもらえると助かります。
次回「温む床」へ。
——石より




