11話 隣国から届いた赤い封蝋
「この八万六千四百リールを、今月末までに支払えという意味ですか」
リディアは赤い封蝋の手紙を机へ置いた。
フェルゼン公国商務院から、クロードへ届いた正式通知。
貸付元金、八万リール。
二期分の延滞金、六千四百リール。
支払期限、今月末。
昨日まで把握していたアルヴェリア王家の月末支払予定は、五十八万リールだった。この債務は、そこへ一行も入っていない。
「そうだ」
クロードが答えた。
「三年前、北部の河川が氾濫した際、穀物と橋梁資材を緊急購入するために貸した。返済は半年ごとに二万リールずつ。最初の二回は支払われたが、その後が止まった」
「では、元の貸付額は十二万リールですか」
「そのとおりだ」
十二万リールから、二万リールを二回。
残る元金は八万リール。
数字は合う。
だが、リディアの記憶にある王家債務一覧には、この貸付そのものがなかった。
「契約書の原本は」
クロードが手紙に同封された控えを差し出した。
アルヴェリア国王と、当時のフェルゼン公国商務院長の署名。両国の国璽。貸付日、返済日、延滞率、通知先。必要な項目は揃っている。
「偽造を疑っているのではありません」
リディアは先に言った。
「王家の帳簿から消えた経路を確認したいのです」
「分かっている」
クロードは怒らなかった。
以前なら、それで話を進められた。
けれどリディアは、もう一つ確かめなければならない。
「閣下は、この件を調べるために王都へ事務所を作ったのですか」
クロードの指が止まった。
三階の窓から、運河を行く荷船が見える。階下では書記官が受領印を押し、倉庫番が箱を動かしていた。
小さな商務事務所。
そう聞いていた。
だが公国商務院の手紙は、単なる相談ではなく、クロードの報告を求めている。
「一部はそうだ」
「一部、とは」
「公国の商品を王都で販売し、職人と商会の取引を仲介する。それが表向きという意味ではない。実際の業務だ」
クロードは言葉を選んだ。
「同時に、アルヴェリア王国との取引が安全に続けられるか調査する任務も受けている。王家の支払い停止が一時的な混乱なのか、制度そのものの問題なのか。公国へ報告する立場にある」
リディアは契約書を思い出した。
三週間、六十時間、総額千二百リール。
現状調査、収支計画、人員と権限の整理、帳票設計。
外交調査という言葉は、どこにもなかった。
「わたくしが整える帳票や、外部顧客から得た情報も報告へ使うおつもりでしたか」
「君の顧客情報を無断で渡すつもりはない」
「質問への答えになっておりません」
クロードの眉が動く。
怒ったのではない。
痛いところを指摘されたとき、彼は少しだけ右肩を固くする。
「事務所全体の収支と、アルヴェリアで契約が守られているかという傾向は、報告へ含めるつもりだった」
「わたくしが作る仕組みも含まれますね」
「含まれる」
リディアは扇を持っていなかった。
右手の指が、何もない机の縁を二度なぞる。
秘密にされていたことが悲しいのか。
仕事に利用されたように感じることが悔しいのか。
すぐには分けられなかった。
ただ一つ分かる。
このまま作業を続ければ、契約に書かれていない目的へ、自分の成果が使われる。
「本日の作業を一旦止めます」
クロードが顔を上げた。
「契約解除か」
「まだ決めておりません。追加の目的、提供する情報の範囲、報告先、秘密保持を確認するまで止めます」
王宮では、目的が曖昧でも仕事を始めた。
困っている人がいるなら、先に数字を合わせた。
だから終わりがなくなった。
今度は、始める前に止まる。
「君へ話すべきだった」
クロードが言った。
「はい」
「公国の命令には守秘が付いていた」
「すべてを話せないなら、話せない情報が業務に含まれることを契約へ書くべきでした」
「そのとおりだ」
言い訳を重ねられなかったことに、リディアは少しだけ救われた。
それでも、問題が消えたわけではない。
「なぜ、最初からおっしゃらなかったのですか」
クロードは赤い封蝋を見た。
「君が婚約を破棄された夜、仕事を失ったように見えた」
「見えた、ではなく、王宮の役職は失いました」
「だから、まず君が自分の仕事を持てる場所を作りたかった。公国の調査まで話せば、国同士の争いへ君を引き込むことになると思った」
「すでに引き込まれております」
「……そうだな」
守ろうとして、決めるための情報を渡さない。
エドガーとは違うやり方で、同じ場所へ近づいていた。
「閣下は、わたくしへ頼ることが苦手なのではなく、頼む前に相手の答えを決めてしまうことがあります」
クロードは反論しかけ、口を閉じた。
階段から足音が聞こえた。
書記官見習いの青年が、扉の外で名乗る。
「公爵閣下。公国商務院への受領報告について、確認をお願いできますか」
「入れ」
青年は一枚の書式を持ってきた。
〈通知を受領した〉
〈内容を確認中である〉
〈支払いを承認したものではない〉
三つの欄が分かれている。
クロードは以前なら、自分で文章を書いただろう。今日は青年が作った文を読み、訂正箇所を一つだけ示した。
「受領時刻を入れてくれ。それ以外はこのままでよい」
青年が頷く。
「リディア様にも確認者として署名いただきますか」
クロードはすぐ答えなかった。
そして、リディアへ尋ねた。
「この文書の確認を、別の仕事として依頼してよいだろうか」
頼む前に、答えを決めなかった。
小さな違いだった。
「内容確認のみであれば、四半刻。五リールです」
「支払う」
「現在の業務委託とは別の受領証を発行します」
「承知した」
青年が二人を見比べたあと、少しだけ安心した顔で退室した。
リディアは新しい紙を三枚用意した。
一枚目は、債務の事実確認。
二枚目は、王家の帳簿から消えた経路。
三枚目は、自分とクロードの契約変更に必要な項目。
混ぜれば、どれも分からなくなる。
まず貸付契約書の日付と、過去二回の返済記録を並べた。
一回目、二万リール。王家一般会計から支払い。
二回目、二万リール。王室災害復旧勘定から支払い。
三回目、未払い。
四回目、未払い。
「二回目だけ支払元が違います」
「公国側の入金記録もある」
クロードが控えを示した。
入金額は正しい。
だが王家の一般会計では、二回目の返済が支出として見つからない。災害復旧勘定は、ベルナールの通常管理から外れ、国王直属の復旧委員会が扱っていた。
「返済先を変えたあと、次回予定が一般会計へ戻されなかった可能性があります」
「故意に隠した可能性は」
「まだ判断できません」
記録が消えたからといって、盗んだとは限らない。
担当が変わった。
勘定が変わった。
期限を書き戻す人がいなかった。
それだけでも、支払いは帳簿から消える。
「この八万リールは、公国の国庫だけから出したものですか」
リディアが尋ねると、クロードは貸付契約の別紙を開いた。
公国商務院が四万リール。
穀物商会六社が二万八千リール。
橋梁職人組合が一万二千リール。
王国へ届いた荷は、小麦三千袋、乾燥豆八百樽、仮橋二基分の木材と金具だった。洪水で道を失った三つの村へ配られた受領記録も残っている。
「返済されなければ、商会と職人組合はどうなりますか」
「商務院が立て替えているため、すぐ潰れるわけではない。ただし次の共同貸付へ出す資金が減る」
クロードは別の一覧を示した。
フェルゼン北部では、今年も二つの堤防を直す予定がある。橋梁職人組合には、工事開始時に一万リールを支払う契約だった。
アルヴェリア王家が返さなかった金のために、隣国の橋を直す職人の前金が遅れる。
数字の向こうにいるのは、顔を知らない債権者だけではない。
「では、今月末に全額を取れば、公国の工事は進みます」
「そうだ」
「ですが、アルヴェリア王家が無理に八万六千四百リールを作れば、今月予定している給金や国境警備費をまた止めるかもしれません」
「その可能性もある」
どちらか一方だけを救う数字ではなかった。
公国が請求を諦めれば、契約を守った商会と職人が損をする。
王国が何も考えず一括で払えば、すでに待たされている人々へ新しい未払いが生まれる。
「払えないから消すことも、払うために別の人から奪うこともできません」
リディアは白紙を横に置いた。
支払義務の確認。
今月中に動かせる資金。
分割を求める場合の初回額と期限。
延滞中に削減する王家支出。
まだ数字は書かない。王家の資金繰りと、公国側が最低限必要とする額の両方を見なければ、正しい分割額は出せない。
「交渉案を作る前に、誰を待たせる案なのかを確認します」
クロードは職人組合の支払日へ印を付けた。
「公国商務院には、堤防工事を止めずに済む最低入金額も照会しよう」
「はい。ただし、こちらがその額を払えると約束したことにならない文面でお願いします」
受領と承認を分ける。
首飾り一つでも、国同士の借金でも、そこは同じだった。
リディアは別紙の受領者名を指でたどった。小麦を受け取った三村の署名には、同じ筆跡が一つもない。震えた線、インクの濃い線、文字を書けない者が立会人と残した印。八万リールは王家の威信のために借りた金ではなく、その冬を越すために使われていた。
「借りた判断まで、間違いだったことにはいたしません」
「だが、返さない理由にもならない」
「はい。助かった命と、返す責任を両方記録します」
過去の正しい支出を認めながら、今の未払いも認める。どちらかを消さなければ話せないほど、帳簿は狭くない。
「必要なのは、復旧委員会の解散記録、残務引継書、二回目の送金命令、三回目の支払通知です」
クロードが立ち上がった。
「王宮へ使者を出す」
「誰に、何を求めるか決めてからです」
彼は止まった。
以前なら一人で王宮へ行ったかもしれない。
リディアは依頼書の宛先を三つに分けた。
王宮財務室には、一般会計の債務一覧と引継書。
旧復旧委員会の文書庫には、解散時の残務目録。
公国商務院には、過去の督促状を送った日付と受領者。
「同じ質問を三か所へ送ります。返答が一致するとは限りません」
「一致しなければ?」
「違いが、消えた場所です」
クロードは三通を読み、書記官見習いへ渡した。
「出発時刻と受領者を記録してくれ。返答がなくても、確認した時刻を空欄にしない」
青年は、以前二人で決めた手順をそのまま復唱した。
仕組みが、クロード一人の記憶を通らず動いていく。
リディアは三枚目の紙へ向き直った。
「わたくしとの契約についてです」
「条件を聞こう」
「外交調査へ使う成果物を分けます。事務所の収支と公開済みの制度情報は使用可。顧客名、個別相談、未公表資料は本人の書面同意なしに使用不可」
クロードが頷く。
「公国への報告書には、出典と確認日を書きます。推測は事実と分ける」
「それから、追加報酬です」
クロードの口元が、ほんの少し緩んだ。
「当然だ」
以前のリディアなら、同じ仕事の続きだと思っただろう。
けれど目的が増えれば、責任も増える。
「外交調査に関する帳票設計と報告確認は、十時間を上限に二百五十リール。超える場合は再見積もり。わたくしがアルヴェリア王国の代理人として債務交渉を行うことは含みません」
「公国側の代理にもならないのか」
「なりません。両方の数字を確かめる者が、片方の結論を先に決めてはいけません」
クロードは少し考えたあと、自分で一文を書き加えた。
〈リディア・アーヴェルは、いずれの国家の支払承認権も負わない〉
「これでどうだ」
「確認します」
すぐに署名せず、リディアは一行ずつ読んだ。
守ると言われるより、読める条件がある方が安心できた。
二人が契約変更へ署名したところで、王宮から最初の返答が届いた。
財務室の債務一覧に、フェルゼン公国への八万リールはない。
だが、添えられた古い引継書の端に、小さな記載があった。
〈災害復旧勘定の残務は、国王秘書室が一括保管する〉
財務室でも、ベルナールの保管庫でもない。
国王秘書室。
リディアは赤い封蝋と、その一行を並べた。
王家の帳簿から借金が消えたのではない。
誰も開かない場所へ、返済期限ごと移されていた。
そして月末まで、あと十二日しかなかった。




