10話 八年前の貸し借り
「首飾りは、私からミレーユへの贈り物だ」
エドガーは、支払元が空欄の購入予定表を見ても迷わなかった。
「ならば、殿下の私用金庫からお支払いください」
リディアが答えると、宝石商の応接室が静かになった。
卓上には、三千二百リールの首飾りが置かれている。
大粒の青い石を中心に、小さな真珠を二十四粒。婚約披露の夜会で使うため、王宮衣装局が三日前に仮押さえした品だった。
購入予定表には、受取人としてミレーユの名がある。
支払う人の欄は空白。
所有者の欄には、王家またはミレーユと二つの候補が書かれていた。
「王太子妃の装身具だ。王宮が払うのが当然だろう」
「王家の資産として管理し、公務の際に貸与するのであれば、王宮装身具費の候補です」
「私から贈ると言った」
「個人への贈り物なら、殿下個人のお支払いです」
同じ首飾りでも、誰が払い、誰の物になるかで帳簿が変わる。
エドガーは眉を寄せた。
隣に座るミレーユは、首飾りではなく購入予定表を見ている。
以前なら、青い石を見て笑ったのかもしれない。
今日は違った。
「殿下。これは、わたくしの物になりますか」
「もちろんだ」
「売ることも、使わずに保管することも、わたくしが決めてよいのですか」
エドガーは答えなかった。
宝石商が困ったように視線を伏せる。
「王太子妃の身につける物を、勝手に売られては困る」
「それなら、わたくしの物ではありません」
ミレーユの声は震えていた。
それでも、紙を裏返さなかった。
「贈り物と言われれば、わたくしは嬉しいです。でも、王家の物を預かるのなら、そう書いてください」
エドガーの顔に、怒りより戸惑いが浮かんだ。
ミレーユが反対するとは考えていなかったのだろう。
「リディア。君が言わせたのか」
「相談を受け、確認する項目をお伝えしました。答えを選んだのはミレーユ様です」
「君は昔から、数字と決まりで人の気持ちを切り分ける」
胸の奥がわずかに痛んだ。
婚約を破棄された夜にも、似たことを言われた。
愛のない女。
帳簿しか見ない女。
けれど、エドガーがいつもリディアを傷つけていたわけではない。
一度だけ、今も忘れられない夜がある。
◇
八年前、リディアは十八歳だった。
王太子の婚約者として、初めて外国使節を迎える夜会へ出た。
生まれたときに神から授かった【数学者】は、舞踏にも会話にも役立たない外れスキルだと笑われていた。
会場の床には、赤い絨毯が敷かれていた。
階段から大広間へ続く角だけ、留め金が一本浮いている。
リディアは入場前に気づいていた。
けれど、前には王妃、横にはエドガー、後ろには二十人以上の貴族がいる。列を止めれば、外れスキルの娘がまた数字を気にしていると笑われる。
大丈夫だと思った。
歩幅を少し変えれば避けられる。
ドレスの裾が、浮いた留め金へ引っかかった。
身体が前へ傾く。
手すりへ指が届かない。
床へ倒れる直前、腕をつかまれた。
エドガーだった。
片腕でリディアの背を支え、自分の肩へ引き寄せた。
「立てるか」
「はい。申し訳ございません」
すぐ後ろで、若い令嬢が笑った。
「数字なら何歩先まで分かるのではなくて?」
周囲にも小さな笑いが広がった。
リディアは、転んだ痛みより、その声が怖かった。
エドガーは彼女を立たせると、笑った令嬢へ向いた。
「足を取られた者を笑う前に、床を直す者を呼べ」
声を荒らげたわけではない。
それでも、笑いは止まった。
エドガーは絨毯の端を自分の靴で押さえ、後ろの列を別の側へ通した。
「誰かが大きな怪我をする前に気づけた。リディア、留め金の位置を侍従へ伝えてくれ」
数字を見る力を、笑わなかった。
その夜だけは。
修理が終わるまで、エドガーは彼女の横に立っていた。
リディアは、救われたと思った。
婚約者が自分を見てくれたと信じた。
それから八年、彼が困るたびに帳簿を整えた。
一度助けてもらった恩を返したかった。
返し終えたかどうかを、考えたことはなかった。
最初は、小さな手伝いだった。
夜会の翌月、エドガーが外国使節へ渡す贈答品の数を間違えた。予定より客が三人増えたのに、箱は以前の人数分しか用意されていなかった。
リディアは在庫と席順を数え、同じ家の夫妻へ一箱ずつ渡す形へ組み替えた。足りないことを隠さず、品を分ける理由を書いた札も添えた。
「君に聞けば早いな」
エドガーはそう言って笑った。
その言葉が嬉しかった。
次は、狩猟会の馬車代だった。
その次は、王太子府の使用人へ払う冬の手当。
リディアが二十歳になる頃には、食事の途中でも支払票が届いた。二十二歳の誕生日には、贈り物より先に未決裁の帳簿が十二冊届いた。
それでも断らなかった。
数字を見れば、人が困る前に不足が分かる。支払いを並べ替えれば、厨房の少年が賃金を待たずに済む。帳簿を整えれば、エドガーが臣下の前で恥をかかずに済む。
役に立てることは、選ばれることに似ていた。
【数学者】を外れと呼ばれてきたリディアにとって、必要とされる喜びは、疲れよりずっと強かった。
けれど、頼み方は少しずつ変わった。
〈見てもらえるか〉が、〈見ておいてくれ〉になった。
〈今夜だけ〉が、〈いつものように〉になった。
誰も、仕事を終えたリディアへ受領書を渡さない。報酬も、勤務時間も、代わりの者も決めなかった。
親切への感謝から始めた仕事が、婚約者なら当然の務めと呼ばれるようになっても、境目は見えなかった。
数を扱う自分が、たった一つだけ数えなかったもの。
それが、自分の差し出した時間だった。
◇
「覚えておいでですか」
現在の応接室で、リディアは尋ねた。
「八年前の夜会で、わたくしが転びかけたことを」
エドガーは目を細めた。
「覚えている。私が君を支えた」
「周囲の方が笑うのも止めてくださいました」
「ならば分かるだろう。私は君を粗末に扱ってきたわけではない」
否定すれば簡単だった。
婚約破棄をした人。
見えない仕事を当然と思った人。
それだけにすれば、過去の温かい記憶まで嘘にできる。
けれど、リディアは数字と同じように、都合の悪い事実も消したくなかった。
「はい。あのとき助けてくださったことには、今も感謝しております」
エドガーの表情が少し緩む。
「でしたら――」
「ですが、一度の親切は、八年間の無償労働を求める権利にはなりません」
エドガーの言葉が止まった。
ミレーユも顔を上げる。
「あの夜のことと、今日の首飾りの支払元は別です」
リディアは購入予定表を指した。
「感謝は消しません。だからといって、空欄へ王家と書くこともいたしません」
「君は私へ恩を返そうとは思わないのか」
「思っておりました」
声が少しだけ震えた。
「頼まれる前に支払日を確かめ、夜会の後にも帳簿を整え、財務官の代わりに不足を埋めました。殿下が困らないことが、恩返しになると思っておりました」
婚約者だから。
王太子を支えるのが役目だから。
一度助けてもらったから。
理由を重ねるたび、終わりが見えなくなった。
「ですが、いくら返せば終わるのか、誰も決めていませんでした」
リディアは鞄から、薄い手帳を一冊出した。
王宮を出た夜から、思い出せる範囲で書き始めた記録だ。
正式な勤務簿ではない。証明できない時間を、未払い賃金として請求するつもりもなかった。
ただ、自分が何をしてきたのかまで忘れたくなかった。
直近の一か月だけで、通常の執務後に二十七時間。
休日の呼び出しが四回。
食事中に持ち込まれ、そのまま冷めた皿が六度。
エドガーは手帳へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「なぜ、その時に言わなかった」
「言わなくても、いつか気づいてくださると思っていたからです」
それはエドガーだけの責任ではなかった。
断らず、困っている理由を説明せず、できてしまう自分に仕事を集め続けた。
リディアにも、仕組みにしなかった責任がある。
だから、過去を罰金に変えるのではなく、今後の条件を変える。
「わたくしも、黙って引き受けることを誠実さだと取り違えておりました。ですから次からは、始める前に範囲を決めます」
「婚約者同士でもか」
「婚約者だからこそです。好意で行うことと、国の責任を負う仕事を、同じ言葉で頼んではなりません」
【数学者】は、貸し借りを数えられる。
けれど、人の親切に正しい価格をつけることはできない。
だからこそ、親切を理由に無期限の義務を作ってはいけない。
「あの夜に助けていただいたことは、わたくしの大切な記憶です。帳消しにはしません。ただ、今後の仕事は仕事として契約します」
クロードは口を挟まなかった。
リディアが言い終えるまで、隣の席で待っていた。
以前の彼なら、守るために先に答えたかもしれない。
今は、任せると決めたことを奪わない。
エドガーは首飾りを見た。
「私用金庫には、いくら残っている」
随行の書記官が帳面を開く。
「先日の短期貸付二千七百リールのうち、未使用の七百六十六リールは王太子府への貸付金として分けております。殿下の今月の新規遊興費枠は九百リール。ほかに自由に支出できる残高はありません」
合計しても、三千二百リールには届かない。
書記官は念のため、王太子の私用金庫から今月すでに支払われた項目も読み上げた。
観劇席の予約に二百四十リール。
外国産の酒に百六十リール。
狩猟用の新しい上着に百八十リール。
いずれも、使っていない金ではない。取り戻せない支出を責めても、首飾りの代金は生まれない。
「来月分を先に使えばよい」
エドガーが言う。
「来月の支給額は、まだ国王陛下の裁可前です」
書記官の声が小さくなる。
「裁可されるだろう」
「決まっていない収入を、決まったものとして使えば、来月も不足から始まります」
リディアは新しい紙へ三つだけ書いた。
今月の残高で買える品へ替える。
エドガーが私物を売り、購入資金を作る。
今回は買わない。
「贈るお気持ちまで否定しているのではありません。この三つなら、支払う人を空欄にせず選べます」
ミレーユは首飾りと紙を交互に見た。
「殿下が私物を売れば、この首飾りは買えるのですか」
「売却額が三千二百リールへ届き、代金を受け取ってからであれば」
「では、その間に仮押さえが終わったら?」
「ほかの方が買われます」
青い石を見つめる目には、惜しむ色があった。
欲しくないわけではない。
欲しくても、誰かへ見えない請求書を渡さない。その選択に意味があった。
「王家で買い、私から贈ったことにすればいい」
「それは贈り物ではなく、王家資産の貸与です」
リディアが答える前に、ミレーユが言った。
声はまだ震えていた。
けれど、先ほどより大きい。
「わたくしは、この首飾りを買わなくてよいと思います」
「披露の夜会だぞ」
「青いドレスがあります。王家から借りる真珠の飾りも、手入れをすれば使えます」
「新しい王太子妃が、借り物でよいのか」
「支払う人がいない物を、わたくしの名で買うよりよいです」
宝石商は首飾りへ布をかけた。
「仮押さえは本日までです。ご購入されない場合も、違約金はございません」
まだ発注していない。
今なら、誰にも借金を残さず止められる。
エドガーは長く黙った後、購入予定表を卓上へ置いた。
「今回は見送る」
三千二百リールの支出が消えた。
それより大きかったのは、ミレーユが欲しいと言わなかったことでも、エドガーが怒鳴らなかったことでもない。
空欄のまま、誰かへ払わせなかったことだ。
宝石商からの帰り、ミレーユは馬車へ乗る前にリディアを振り返った。
「感謝していても、断ってよいのですね」
「はい」
「嫌いにならなくても?」
リディアは、八年前のエドガーを思い出した。
「嫌いになることと、引き受けないことは別です」
「では、好きなままでも、間違っていると言ってよいのですね」
ミレーユの問いに、リディアはすぐ答えられなかった。
八年前の自分にも必要だった言葉だからだ。
「はい。ただし、相手を傷つけるためではなく、何を変えてほしいのかまで伝えるのです」
「今日のわたくしなら、支払う人と、誰の物になるのかを書いてほしい、と」
「それで十分です」
ミレーユは、忘れないように胸の前で小さく頷いた。
それから小さく息を吐き、王宮の馬車へ乗った。
事務所へ戻ると、机の上に赤い封蝋の手紙があった。
フェルゼン公国の紋章。
宛先は、クロード・フェルゼン。
差出人は、公国商務院。
クロードが封を開き、一枚目を読んだところで表情を変えた。
「アルヴェリア王家への貸付金が、二期連続で支払われていない」
「金額は」
「元金八万リール。延滞分を含め、今月末までに八万六千四百リール」
月末支払予定五十八万リール。
そこへ入っていない、隣国への債務だった。




