9話 真実の愛にも予算がいる
「王太子妃になるには、毎月いくら必要ですか」
ミレーユ・コレットは、挨拶より先にそう尋ねた。
王都東区の商務事務所。翌朝九時。
彼女は侍女も王宮の書記官も連れず、一人で来た。淡い桃色の外套は上等だが、胸元の飾りは以前の夜会より少ない。
リディアは向かいの椅子を勧めた。
「王太子妃としての公的費用でしょうか。それとも、コレット伯爵令嬢個人の生活費でしょうか」
「違うのですか」
「支払う者と、決める者が違います」
ミレーユは膝の上で両手を組んだ。
「それを知りたいのです。わたくしのドレス代が王家の赤字を増やしたと聞きました。でも、何を着るかは王宮衣装局が決めます。値段を聞いても、王太子妃に必要だからとしか言われません」
先日確認したミレーユ名義の支払い一覧には、本人が見たことのない衣装や宝飾品まで含まれていた。
リディアは相談票を机へ置く。
「今日は個人依頼として承ります。初回相談料は五リール。調査が必要になれば、範囲と報酬を改めて決めます」
ミレーユは小さく息を飲んだ。
「話を聞くだけで五リールも?」
「払えませんか」
「払えます。ただ、誰かへ相談するのに値段があると思っていませんでした」
「値段があるから、依頼者として質問でき、わたくしも守る範囲を約束できます」
友情でも、王太子からの命令でもない。
婚約破棄の場でリディアの代わりに選ばれた令嬢と、捨てられた元婚約者でもない。
今日は依頼人と会計調査人だ。
ミレーユは財布から金貨ではなく、五枚のリール銀貨を数えて出した。リディアはその場で受領証を書き、控えを一枚渡した。
「最初に、今ご存じの費用をすべて教えてください」
ミレーユが持参した紙は三枚だった。
一枚目は王宮衣装局から渡された予定表。春の祝賀会、外国使節の歓迎会、慈善晩餐会、騎士団叙勲式。四か月で公的行事が十一回ある。
二枚目は衣装の指定。昼用正装四着、夜会服六着、喪服一着、乗馬服二着。宝飾品は行事ごとに変更。
三枚目には、コレット伯爵家が支払うよう求められた金額が並ぶ。
合計、一万二千四百リール。
「伯爵家の年間収入は」
「昨年は、たしか一万八千ほどです」
「手取りではなく総収入ですか」
「分かりません」
ミレーユの声が小さくなった。
「領地の橋の修理や使用人の給金を払ったあと、いくら残るかも?」
「知りません」
叱られると思ったのか、背筋を固くしている。
リディアは責めなかった。
王太子妃教育では、国の歴史、礼儀、舞踏、外国語、紋章、客の席順を教える。それなのに、自分の名で何が買われ、誰が払うかは教えられていない。
知らないことは、能力の欠如ではない。
尋ねる機会を与えられなかった結果だ。
「お父上から、婚姻に使える額を聞いていますか」
「王家に必要と言われたものは、できるだけ用意すると」
「上限は」
「聞いていません」
善意の約束ほど、数字がなければ止まりにくい。
伯爵は娘の立場を守りたい。王宮は王太子妃にふさわしい品をそろえたい。ミレーユは期待へ応えたい。誰も家を潰そうとは考えていないのに、三人とも「必要なだけ」と言えば、支出だけが増えていく。
リディアは別紙へ、伯爵家へ確認すべきことを書いた。
昨年の総収入。
領地運営の固定費。
借入金と返済日。
婚姻準備へ使える上限。
「この答えが届くまでは、伯爵家が払えるとも払えないとも決めません」
「父が、恥をかかせるなと言ったら?」
「誰に対する、どのような恥かを尋ねます。支払不能になる方が領民にも取引先にも大きな損失です」
ミレーユは紙の端へ、小さく〈父に聞く〉と書いた。
「では、分からない欄へ印をつけましょう」
リディアは紙へ三種類の印を作った。
本人が決めた費用。
王宮が決めた公務費。
誰が決めたか分からない費用。
「この青いドレスは?」
「衣装局が、エドガー様の瞳に合うからと」
「宝石の首飾りは」
「王妃様がお選びになりました。王家の所蔵品だと思っていました」
「請求は伯爵家へ来ています」
ミレーユの顔から血の気が引く。
「借りる物を、買ったことにされているのですか」
「まだ決めません。所蔵品の貸出記録と、宝石商の納品書を照合します」
「でも、わたくしの名前で」
「名義と、決定した人と、利益を受けた人を分けます」
リディアは同じ言葉を、ゆっくり繰り返した。
ミレーユ名義だからミレーユが浪費した、とは限らない。
反対に、本人が知らなかったから責任が一切ない、とも限らない。自分の名前を使わせる立場になった以上、これからは確認する責任が生じる。
「わたくしは、何をすればいいのでしょう」
「まず、署名しないことです。分からない紙には」
「王太子妃教育の先生は、王宮の決定へ逆らうなと」
「拒否ではありません。確認するまで保留します」
リディアは短い文を書いた。
〈支払者、所有者、使用目的、返却条件の確認後に署名します〉
「これを、ご自分の言葉で言えますか」
ミレーユは紙を見た。
「誰が払い、誰の物になり、何に使い、いつ返すのか。それが分かってから署名します」
「十分です」
難しい言葉を覚えることが教育ではない。
自分が理解できる言葉へ戻し、判断できることが必要なのだ。
次に、十一回の行事を一つずつ確認した。
外国使節の歓迎会は王家の外交行事。騎士団叙勲式も公務。慈善晩餐会は王妃主催だが、寄付者の名簿にはミレーユ個人の名が載る予定だった。
春の祝賀会だけは、婚約を披露する私的な意味と王家の公式行事が混ざっている。
「全部を一つの財布で払うから、誰も責任を決められないのですね」
ミレーユが言った。
「はい。公務費、王家の資産、伯爵家からの持参、あなた個人の支出を分ける必要があります」
「エドガー様の贈り物は?」
「誰のお金で買ったかによります」
「贈り物なのに?」
「王太子個人の年金からなら私的贈与です。王家の公費なら、相応の公務目的と記録が必要です」
ミレーユは、さらに小さな封筒を出した。
中には、エドガーから贈られたという真珠の耳飾りの明細がある。
価格は四百八十リール。
支払欄には〈王宮特別交際費〉。
承認欄はベルナール財務官。
受領者はミレーユ。
「エドガー様が、ご自分で選んでくださったと思っていました」
声が震えていた。
リディアは、耳飾りの価値を否定しなかった。
贈られたときの嬉しさまで帳簿で偽物にはできない。
「殿下が選んだことと、支払いを公費へ回したことは別です。まず確認しましょう」
「もし、エドガー様が公費だと知っていたら?」
「ご本人が説明し、必要なら返す責任があります」
「わたくしにも?」
「知った後の責任があります。耳飾りを公務用の王家資産として登録するか、個人で買い取るか、返却するか。選択肢を出せます」
ミレーユは耳元へ触れた。今日は、その真珠を着けていない。
「買い取るなら、わたくしのお金で?」
「はい。ただし生活を壊してまで買う必要はありません」
「王太子妃になるのに、生活が壊れることもあるのですか」
「収入より支出が多ければ、どの身分でも壊れます」
真実の愛で食卓のパンは増えない。
けれど、愛に値段をつけたいわけでもない。
続けるために、誰が何を負担するかを見えるようにするのだ。
リディアは仮の四か月予算を作った。
既存衣装の仕立て直し、千二百リール。
外交上必要な新調二着、千八百リール。これは王家公務費の候補。
個人用の昼服二着、三百リール。ミレーユ個人または伯爵家。
王家所蔵の宝飾品は貸与台帳を作り、新規購入を止める。
馬車、警護、招待状、席次表など衣装以外の費用は別表へ移す。
現在の一万二千四百リールから、少なくとも七千リール以上を保留できる。
リディアは、削った後の金額だけを見せなかった。
「公務費へ移した分は、消えたわけではありません。王家が払います」
「王家には赤字があるのに」
「だから公務の数と費用を、国王陛下と殿下が選ばなくてはなりません。あなたの名義へ移せば、赤字がなくなるわけではありません」
祝賀会を開くなら、警備や料理人の給金も要る。外国使節を迎えるなら、国の信用のために相応の支出も必要だ。すべてを削ればよいのではない。
限られた金で、何を守るか決める。
その決定を、飾りの陰へ隠さない。
「わたくしが同じ服を着れば、その分で兵士の手袋を買えますか」
「直接同じ財布ではありません。ただ、余った公務費の使途を決め直すことはできます。最初からそう記録すれば」
「では、手袋に使ってほしいと書けますか」
「意見としては。最終決定者は殿下と国王陛下です」
ミレーユは、予算案の余白へ自分で一文を加えた。
〈衣装費の減額分は、北部国境警備隊の未払装備費へ充当することを希望します〉
リディアはその文を消さなかった。
決裁権がなくても、希望を記録する権利はある。
「同じ服を二度着てもよいのですか」
ミレーユが真剣に尋ねた。
「汚れておらず、行事の格に合い、王家が同じ服を禁じる正式規則がないなら」
「先生は、王太子妃は毎回違う姿で国の豊かさを示すものだと」
「国境の兵士へ手袋代を払えない国が、同じ服を避けて豊かに見えるでしょうか」
ミレーユは答えられなかった。
少し前のリディアなら、もっと鋭く言ったかもしれない。
だが目の前の少女は、赤字を作るために王宮へ来たのではない。教えられた正しさを守ろうとしていただけだ。
「同じドレスへ襟や帯を足し、違う場に合わせる方法があります」
「見破られませんか」
「見破られて構いません。節約を隠す必要はありません」
「貧しいと思われたら」
「未払いを隠す方が、信用を失います」
ミレーユは長く考えた。
「わたくし、きれいな物が好きです」
「好きでいてください」
「好きだから、王家を苦しめたのでしょうか」
「いいえ。好きな物に、払える額を決めなかったことが問題です。そして決める権限をあなたへ渡さず、名前だけ使った人にも責任があります」
ミレーユの目に涙が浮かんだ。
泣くことを恥じるように瞬きを繰り返す。
「リディア様は、わたくしを嫌っていると思っていました」
「好意を相談の条件にはしておりません」
「そういうところが、少し怖いです」
「よく言われます」
「でも、安心します」
二人の間に初めて、短い笑いが生まれた。
そこへ、クロードが扉を叩いた。
彼は勝手に入らず、返事を待った。
昨日決めた役割分担の最初の実践で、書記官へ任せた支払照会の結果を持ってきたのだ。
「ロアン工房と王宮衣装局から回答が届いた。今、入ってよいか」
リディアはミレーユを見る。
「この方は契約上、調査補助と事務所責任者です。同席を許可しますか」
「はい」
許可を得てから、クロードは席についた。
回答書によれば、一万二千四百リールのうち二千六百リールは、まだ発注すらされていない仮見積もりだった。衣装局が将来の支出を確保するため、支払要求一覧へ混ぜていた。
さらに千九百リールは、王家所蔵品の貸出手入れ費であり、伯爵家へ請求する根拠がない。
「止められるのですか」
ミレーユが尋ねる。
「発注前の二千六百は止められます。千九百は王宮へ差し戻し、請求根拠を求めます」
「残りは?」
「実際に納品済みの物と、誰も現物を確認していない物を分けます」
すべてが一日で消えるわけではない。
それでも、四千五百リールは今この場で支払いから外せる。
ミレーユは自分の紙へ数字を書き写した。
「わたくしが、王宮で説明します」
「一人で行く必要はありません」
クロードが言った。
ミレーユは首を振る。
「一人で決めるという意味ではありません。わたくしの名前が使われているから、わたくしの口でも説明したいのです。資料を作るのを手伝ってください」
リディアは、新しい依頼範囲を書いた。
支払要求十三件の分類。
貸与台帳との照合。
四か月予算案の作成。
王宮衣装局との面談へ同席。
報酬は二十五リール。資料取得費は実費。期間は五日。
ミレーユは一行ずつ読み、先ほど覚えた言葉を使った。
「誰が払い、誰の物になり、何に使い、いつ返すか。分からないものは署名しません」
それから契約書へ、自分の名を書いた。
扉の外で、王宮の使者が到着を告げた。
エドガーからミレーユへ、午後の宝石商との打ち合わせに出席するよう命じる手紙だった。
添付された購入予定表には、婚約披露用の新しい首飾り。
価格、三千二百リール。
支払元は空欄だった。
ミレーユは以前なら、喜んで王宮へ戻ったのだろう。
今日は紙を裏返し、使者へ答えた。
「支払う人と、誰の物になるのかを確認してから伺います」
声は震えていた。
それでも、自分の名前で答えた。




