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婚約破棄は承りました。では、王家の赤字もそちらでお引き受けください  作者: ハッピーミラクルエンジョイ


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8/11

8話 公爵閣下の不得意科目

「その書類から手を離してください」


リディアが言うと、クロードは封を切りかけた外交報告を持ったまま動きを止めた。


王都東区の商務事務所には、夕方の鐘が響いている。


北部国境警備隊への支払いを動かし、三つの工房と輸送組合を回って戻ったばかりだ。窓の外はもう薄暗い。


それなのに、クロードの机だけは朝よりひどい有様だった。


輸送契約書。雇用面接の記録。倉庫の鍵交換に使った金具の領収書。フェルゼン公国から届いた外交報告。使い走りへ渡すはずだった伝令簿。


書類の山の端には、手をつけられないまま冷え切った昼食がある。


クロードの右手には、押し損ねた封蝋の赤が付いていた。


「これは公国からの報告だ。私が読む」


「読むことを止めているのではありません。今、読むことを止めています」


「違いが分からない」


「では、分かるようにいたします」


リディアは机の上から未処理の紙を取り、床へ落とさないよう種類ごとに分けた。


今日中に返答が必要なものは五通。


明日の正午までが七通。


三日以内が九通。


期限の記載がないものが十一通。


合計三十二通。


そのうちクロード本人にしか決められないものは、外交報告への回答と輸送組合との特別契約、合わせて四通だけだった。


「残る二十八通を、なぜ閣下が持っているのですか」


「間違いがあれば困る」


「何が間違うと困るのでしょう」


クロードは質問の意図を測るように、リディアを見た。


「すべてだ」


「それでは誰にも仕事を渡せません」


「だから私が見ている」


あまりにも迷いのない答えだった。


リディアは怒鳴らなかった。代わりに、冷めた昼食の皿を机の中央へ置いた。


薄いパンが二枚。固くなった鳥肉。表面に膜の張ったスープ。


「こちらは、いつ届きましたか」


「昼頃だろう」


「何時ですか」


「覚えていない」


「では、最後に水を飲んだのは」


クロードは答えなかった。


「閣下が倒れた場合、この三十二通は誰が処理しますか」


「倒れない」


「その回答は計画ではありません」


静かな声だったが、クロードの眉がわずかに動いた。


リディアは、自分の胸の内にも苛立ちが生まれていることを認めた。


彼女は今日、国境の兵士へ防寒具を届けるため、誰が何を確かめるかを決めてきた。副官一人が限界まで待たなくてよい仕組みも作った。


その隣で働いた男が、事務所へ戻った途端、同じ過ちを繰り返している。


「わたくしとの契約には、人員と権限の整理も含まれています」


「承知している」


「承知していらっしゃる方は、使い走りの伝令時刻まで自分で転記なさいません」


「昨日、一件抜けていた」


「それは聞いておりません」


「私が直したから、報告する必要はない」


その一言で、リディアの苛立ちが形を持った。


「あります」


クロードが目を細める。


「抜けた記録を閣下が黙って直せば、担当者は自分の誤りを知りません。手順も直りません。そして閣下だけが、次も確認しなければならなくなります」


「教育している間に、取引相手は待ってくれない」


「すべてを抱えて倒れた公爵を、取引相手はもっと長く待つことになります」


二人の間に沈黙が落ちた。


一階では、片づけをしていた倉庫番が木箱を動かしている。運河を行く荷船の鐘も聞こえた。


クロードは手にしていた外交報告を机へ置いた。


「君は、私が仕事を渡せば解決すると思っているのか」


「いいえ」


リディアは即答した。


「任せる相手も、確認方法も決めずに渡せば、ただ責任を押しつけるだけです」


「ならば」


「間違えても発見でき、直せる形にして渡します」


リディアは白紙を一枚取り、中央へ線を引いた。


左に〈任せる仕事〉、右に〈戻す条件〉と書く。


「たとえば伝令記録なら、使い走りが出発時刻、届け先、受領者、帰着時刻を書く。空欄があれば書記官へ戻す。予定より一時間以上遅れたものと、受領署名がないものだけを閣下へ報告する」


「虚偽を書けば?」


「受領者の署名と照合します。週に一度、書記官が無作為に三件を届け先へ確認します」


「書記官と使い走りが示し合わせれば」


「月に一度、担当を入れ替えます。すべての不正を一枚の紙で防ぐことはできません。ですが、閣下一人が全件を見るより、発見される可能性を高くできます」


クロードは白紙を見たまま、口を閉ざした。


「定例支出は、以前決めたとおり十リール以下を担当書記官が承認します。同じ相手、同じ目的の支出は七日間の合計で十リールまで。初取引、契約変更、分割した疑いがあるものは金額に関係なく閣下へ戻す。承認済み一覧は週末に確認なさってください」


「鍵の交換は」


「倉庫番が現物数と交換場所を記録し、護衛が立ち会う。請求書と数が一致しなければ書記官へ。紛失、破損、予備鍵の追加だけを閣下へ」


一つずつ、仕事を渡す条件と戻す条件を作る。


任せるとは、見ないことではない。


見るべきものを選ぶことだ。


「公爵閣下」


リディアは呼びかけた。


「なぜ、そこまで他人の確認を信用なさらないのですか」


クロードの琥珀色の目が、初めて紙から離れた。


「信用していないのではない」


「では、なぜです」


彼は答えようとして、止まった。


その間に、廊下から足音が近づいた。


扉を叩いたのは、書記官候補として働き始めた青年だった。先ほどクロードが自分で書き直した伝令簿を持っている。


「失礼いたします。公爵閣下、こちらの帰着時刻について確認を」


「私が直した。午後二時だ」


「ですが、届け先の受領証は午後二時十分となっています。出発から十五分で届く場所ですので、帰着が先になるのは……」


クロードが伝令簿を受け取った。


彼はしばらく数字を見つめ、赤いインクで書いた自分の文字へ線を引いた。


「午後三時の誤りだ」


「承知しました」


青年は責める様子もなく、訂正理由と確認者の欄を指した。


クロードが署名する。


青年が退室すると、部屋に再び静けさが戻った。


リディアは何も言わなかった。


クロード自身の間違いが、必要な説明をしていた。


「疲れていた」


やがて彼が言った。


「はい」


「普段なら間違えない」


「普段の閣下しか働けない仕組みでは、病気の日も、疲れた日も持ちません」


クロードは椅子の背へ身体を預けた。


「以前、部下へ港の積荷確認を任せたことがある」


唐突に始まった話を、リディアは黙って聞いた。


「私の指示は、到着した箱の数を確認しろ、だった。報告された数は合っていた。だが、箱の印も、封も、中身も確認されていなかった。三日後、別の商人の荷と入れ替わっていたことが分かった」


「その方を処罰なさったのですか」


「いや。指示したのは私だ。数だけ見ればよい書き方をした」


クロードは自分の右手についた封蝋を見た。


「それ以来、説明する時間があるなら自分で見た方が早いと思うようになった」


「一度の失敗を防ぐために、すべてを閣下へ集めたのですね」


「そうしておけば、間違いは私のところで止まる」


「いいえ。今日、止まりませんでした」


冷たい言葉に聞こえるかもしれない。


それでも、慰めて曖昧にすれば同じことが起きる。


「閣下の訂正が間違っていました。そして、青年が受領証を照合したから見つかりました。人へ任せたために起きた失敗ではありません。確認方法を一人の記憶へ置いたために起きた失敗です」


クロードは反論しなかった。


リディアはもう一枚の紙へ、三つの欄を作った。


〈担当者〉


〈確認者〉


〈最終判断者〉


「一人が全部を兼ねてはいけません。担当者が記録し、別の者が照合する。条件から外れたものだけを、最終判断者へ上げる。閣下が責任を負うことと、閣下が全部の手を動かすことは別です」


「君は簡単に言う」


「簡単ではありません」


リディアの声も硬くなった。


「わたくしは、王宮で同じことをしていました」


クロードが顔を上げる。


「間違いが怖くて、未処理請求箱の最後の一枚まで自分で確認しました。誰かに任せて止まれば、その人の給金や食事が失われると思っていたからです」


皿洗いのマルタ。薬を待つ弟。


北部で手袋を待つ兵士たち。


数字の向こうに人が見えるほど、紙を手放すのは難しくなる。


「だから婚約を破棄された翌朝、わたくしがいなくなっただけで、支払いが止まりました」


自分の有能さが証明された出来事ではない。


自分しか処理できない状態を残してしまった失敗でもある。


「わたくしは、必要とされることと、代わりがいないことを同じだと思っていました」


リディアは紙の端を押さえた。


「違いました。代わりがいなければ、わたくしが倒れた日に数字の向こうの人が困ります」


クロードは長く息を吐いた。


「君も不得意なのか」


「ええ。ですから、仕組みにします」


少しだけ、彼の口元が緩んだ。


「では、この事務所には不得意な者が二人いる」


「一人増やさないでください。書記官を二人雇う予定です」


「厳しいな」


「業務委託契約の範囲です」


リディアは、三十二通の書類を改めて並べた。


公爵本人のみ四通。


書記官が確認できる定例支出と伝令記録が十二通。


倉庫番と護衛の現物確認で処理できるものが六通。


通訳の下訳が必要なものが五通。


期限不明で、差出人へ確認を返すものが五通。


青年を書記官見習いとして呼び戻し、今夜は十二通のうち三通だけを試しに渡した。いきなり全部は任せない。記録欄と戻す条件を一緒に読み、疑問があれば推測で埋めず、空欄のまま持ってくるよう伝える。


「空欄のままでは、仕事をしていないと思われませんか」


青年は不安そうに尋ねた。


「分からないものを埋める方が危険です。空欄には、確認中と書き、誰へいつ質問したかを添えてください。答えが来なければ、それも閣下へ戻す条件にします」


「間違いを見つけた場合は」


「元の文字を消さず、訂正理由と確認した資料を書きます。先ほど閣下がなさったように」


クロードは訂正済みの伝令簿を見て、苦い顔をした。


だが、否定はしなかった。


倉庫番には鍵交換の確認表を渡した。使い走りには、明日から受領署名を必ず持ち帰るよう説明する。


「最初の一週間は、毎日終業前に十五分確認します」


リディアが言う。


「一週間後から週二回。誤りの種類と数を記録し、減らなければ手順を変えます」


「私が全件を見るのは」


「戻す条件に当てはまったものだけです」


「一件も当てはまらなければ」


「週末の一覧をご覧ください」


クロードは不満そうだった。


だが、机へ戻そうとした伝令簿を途中で止め、青年へ渡した。


小さな一歩だった。


リディアは冷えた昼食を厨房へ下げ、新しいスープとパンを頼んだ。食事の時間も、予定表へ三十分確保する。


「食事まで契約に含まれるのか」


「閣下が倒れれば納品が遅れます。工程管理です」


クロードは反論しながらも、温かいスープを飲んだ。


その間に書記官見習いが一通目を持ってくる。


「定例支出ですが、同じ商会への支払いが四日前にも七リールあります。本日の六リールと合わせると十リールを超えます」


以前なら、クロードが全件を読んで見つけていた。


今日は、決めた条件が拾い上げた。


「私へ回して正しい」


クロードが答える。


青年の顔から緊張が少し消えた。


二通目は、倉庫の予備鍵の追加だった。これも戻す条件に当てはまる。


三通目は、受領署名も時刻も揃った通常の伝令記録。青年が処理済みの箱へ入れた。


クロードの手を通さず、一つの仕事が終わった。


彼はその箱を、しばらく見ていた。


「任せても、責任は消えないのだな」


「消しません。見える形に分けるだけです」


「君は、このやり方を王宮にも残したかったか」


リディアは答える前に考えた。


婚約者としていた頃なら、残さなければならないと言っただろう。


「依頼され、対価と権限が決まれば」


今はそう答えた。


クロードは静かに頷いた。


夜の鐘が鳴る前に、机の上から二十二通が消えた。別室へ隠したのではない。担当者と期限が決まり、それぞれの仕事として動き始めたのだ。


残った十通のうち、今夜クロードが読むべきものは四通だけだった。


彼が最初の外交報告を開いたとき、一階の扉を叩く音がした。


使い走りが、白い封筒を持って上がってくる。


差出人の欄には、ミレーユ・コレット。


表には、〈会計調査人リディア・アーヴェル様へ。私個人の費用について相談を希望します〉と、自分の字で書かれていた。


王太子妃になる予定の令嬢が、王宮を通さず、自分の名で仕事を依頼しようとしている。


リディアは受領時刻を記し、未開封の封筒を明日の欄へ置いた。


今夜、抱え込まないために。


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