8話 公爵閣下の不得意科目
「その書類から手を離してください」
リディアが言うと、クロードは封を切りかけた外交報告を持ったまま動きを止めた。
王都東区の商務事務所には、夕方の鐘が響いている。
北部国境警備隊への支払いを動かし、三つの工房と輸送組合を回って戻ったばかりだ。窓の外はもう薄暗い。
それなのに、クロードの机だけは朝よりひどい有様だった。
輸送契約書。雇用面接の記録。倉庫の鍵交換に使った金具の領収書。フェルゼン公国から届いた外交報告。使い走りへ渡すはずだった伝令簿。
書類の山の端には、手をつけられないまま冷え切った昼食がある。
クロードの右手には、押し損ねた封蝋の赤が付いていた。
「これは公国からの報告だ。私が読む」
「読むことを止めているのではありません。今、読むことを止めています」
「違いが分からない」
「では、分かるようにいたします」
リディアは机の上から未処理の紙を取り、床へ落とさないよう種類ごとに分けた。
今日中に返答が必要なものは五通。
明日の正午までが七通。
三日以内が九通。
期限の記載がないものが十一通。
合計三十二通。
そのうちクロード本人にしか決められないものは、外交報告への回答と輸送組合との特別契約、合わせて四通だけだった。
「残る二十八通を、なぜ閣下が持っているのですか」
「間違いがあれば困る」
「何が間違うと困るのでしょう」
クロードは質問の意図を測るように、リディアを見た。
「すべてだ」
「それでは誰にも仕事を渡せません」
「だから私が見ている」
あまりにも迷いのない答えだった。
リディアは怒鳴らなかった。代わりに、冷めた昼食の皿を机の中央へ置いた。
薄いパンが二枚。固くなった鳥肉。表面に膜の張ったスープ。
「こちらは、いつ届きましたか」
「昼頃だろう」
「何時ですか」
「覚えていない」
「では、最後に水を飲んだのは」
クロードは答えなかった。
「閣下が倒れた場合、この三十二通は誰が処理しますか」
「倒れない」
「その回答は計画ではありません」
静かな声だったが、クロードの眉がわずかに動いた。
リディアは、自分の胸の内にも苛立ちが生まれていることを認めた。
彼女は今日、国境の兵士へ防寒具を届けるため、誰が何を確かめるかを決めてきた。副官一人が限界まで待たなくてよい仕組みも作った。
その隣で働いた男が、事務所へ戻った途端、同じ過ちを繰り返している。
「わたくしとの契約には、人員と権限の整理も含まれています」
「承知している」
「承知していらっしゃる方は、使い走りの伝令時刻まで自分で転記なさいません」
「昨日、一件抜けていた」
「それは聞いておりません」
「私が直したから、報告する必要はない」
その一言で、リディアの苛立ちが形を持った。
「あります」
クロードが目を細める。
「抜けた記録を閣下が黙って直せば、担当者は自分の誤りを知りません。手順も直りません。そして閣下だけが、次も確認しなければならなくなります」
「教育している間に、取引相手は待ってくれない」
「すべてを抱えて倒れた公爵を、取引相手はもっと長く待つことになります」
二人の間に沈黙が落ちた。
一階では、片づけをしていた倉庫番が木箱を動かしている。運河を行く荷船の鐘も聞こえた。
クロードは手にしていた外交報告を机へ置いた。
「君は、私が仕事を渡せば解決すると思っているのか」
「いいえ」
リディアは即答した。
「任せる相手も、確認方法も決めずに渡せば、ただ責任を押しつけるだけです」
「ならば」
「間違えても発見でき、直せる形にして渡します」
リディアは白紙を一枚取り、中央へ線を引いた。
左に〈任せる仕事〉、右に〈戻す条件〉と書く。
「たとえば伝令記録なら、使い走りが出発時刻、届け先、受領者、帰着時刻を書く。空欄があれば書記官へ戻す。予定より一時間以上遅れたものと、受領署名がないものだけを閣下へ報告する」
「虚偽を書けば?」
「受領者の署名と照合します。週に一度、書記官が無作為に三件を届け先へ確認します」
「書記官と使い走りが示し合わせれば」
「月に一度、担当を入れ替えます。すべての不正を一枚の紙で防ぐことはできません。ですが、閣下一人が全件を見るより、発見される可能性を高くできます」
クロードは白紙を見たまま、口を閉ざした。
「定例支出は、以前決めたとおり十リール以下を担当書記官が承認します。同じ相手、同じ目的の支出は七日間の合計で十リールまで。初取引、契約変更、分割した疑いがあるものは金額に関係なく閣下へ戻す。承認済み一覧は週末に確認なさってください」
「鍵の交換は」
「倉庫番が現物数と交換場所を記録し、護衛が立ち会う。請求書と数が一致しなければ書記官へ。紛失、破損、予備鍵の追加だけを閣下へ」
一つずつ、仕事を渡す条件と戻す条件を作る。
任せるとは、見ないことではない。
見るべきものを選ぶことだ。
「公爵閣下」
リディアは呼びかけた。
「なぜ、そこまで他人の確認を信用なさらないのですか」
クロードの琥珀色の目が、初めて紙から離れた。
「信用していないのではない」
「では、なぜです」
彼は答えようとして、止まった。
その間に、廊下から足音が近づいた。
扉を叩いたのは、書記官候補として働き始めた青年だった。先ほどクロードが自分で書き直した伝令簿を持っている。
「失礼いたします。公爵閣下、こちらの帰着時刻について確認を」
「私が直した。午後二時だ」
「ですが、届け先の受領証は午後二時十分となっています。出発から十五分で届く場所ですので、帰着が先になるのは……」
クロードが伝令簿を受け取った。
彼はしばらく数字を見つめ、赤いインクで書いた自分の文字へ線を引いた。
「午後三時の誤りだ」
「承知しました」
青年は責める様子もなく、訂正理由と確認者の欄を指した。
クロードが署名する。
青年が退室すると、部屋に再び静けさが戻った。
リディアは何も言わなかった。
クロード自身の間違いが、必要な説明をしていた。
「疲れていた」
やがて彼が言った。
「はい」
「普段なら間違えない」
「普段の閣下しか働けない仕組みでは、病気の日も、疲れた日も持ちません」
クロードは椅子の背へ身体を預けた。
「以前、部下へ港の積荷確認を任せたことがある」
唐突に始まった話を、リディアは黙って聞いた。
「私の指示は、到着した箱の数を確認しろ、だった。報告された数は合っていた。だが、箱の印も、封も、中身も確認されていなかった。三日後、別の商人の荷と入れ替わっていたことが分かった」
「その方を処罰なさったのですか」
「いや。指示したのは私だ。数だけ見ればよい書き方をした」
クロードは自分の右手についた封蝋を見た。
「それ以来、説明する時間があるなら自分で見た方が早いと思うようになった」
「一度の失敗を防ぐために、すべてを閣下へ集めたのですね」
「そうしておけば、間違いは私のところで止まる」
「いいえ。今日、止まりませんでした」
冷たい言葉に聞こえるかもしれない。
それでも、慰めて曖昧にすれば同じことが起きる。
「閣下の訂正が間違っていました。そして、青年が受領証を照合したから見つかりました。人へ任せたために起きた失敗ではありません。確認方法を一人の記憶へ置いたために起きた失敗です」
クロードは反論しなかった。
リディアはもう一枚の紙へ、三つの欄を作った。
〈担当者〉
〈確認者〉
〈最終判断者〉
「一人が全部を兼ねてはいけません。担当者が記録し、別の者が照合する。条件から外れたものだけを、最終判断者へ上げる。閣下が責任を負うことと、閣下が全部の手を動かすことは別です」
「君は簡単に言う」
「簡単ではありません」
リディアの声も硬くなった。
「わたくしは、王宮で同じことをしていました」
クロードが顔を上げる。
「間違いが怖くて、未処理請求箱の最後の一枚まで自分で確認しました。誰かに任せて止まれば、その人の給金や食事が失われると思っていたからです」
皿洗いのマルタ。薬を待つ弟。
北部で手袋を待つ兵士たち。
数字の向こうに人が見えるほど、紙を手放すのは難しくなる。
「だから婚約を破棄された翌朝、わたくしがいなくなっただけで、支払いが止まりました」
自分の有能さが証明された出来事ではない。
自分しか処理できない状態を残してしまった失敗でもある。
「わたくしは、必要とされることと、代わりがいないことを同じだと思っていました」
リディアは紙の端を押さえた。
「違いました。代わりがいなければ、わたくしが倒れた日に数字の向こうの人が困ります」
クロードは長く息を吐いた。
「君も不得意なのか」
「ええ。ですから、仕組みにします」
少しだけ、彼の口元が緩んだ。
「では、この事務所には不得意な者が二人いる」
「一人増やさないでください。書記官を二人雇う予定です」
「厳しいな」
「業務委託契約の範囲です」
リディアは、三十二通の書類を改めて並べた。
公爵本人のみ四通。
書記官が確認できる定例支出と伝令記録が十二通。
倉庫番と護衛の現物確認で処理できるものが六通。
通訳の下訳が必要なものが五通。
期限不明で、差出人へ確認を返すものが五通。
青年を書記官見習いとして呼び戻し、今夜は十二通のうち三通だけを試しに渡した。いきなり全部は任せない。記録欄と戻す条件を一緒に読み、疑問があれば推測で埋めず、空欄のまま持ってくるよう伝える。
「空欄のままでは、仕事をしていないと思われませんか」
青年は不安そうに尋ねた。
「分からないものを埋める方が危険です。空欄には、確認中と書き、誰へいつ質問したかを添えてください。答えが来なければ、それも閣下へ戻す条件にします」
「間違いを見つけた場合は」
「元の文字を消さず、訂正理由と確認した資料を書きます。先ほど閣下がなさったように」
クロードは訂正済みの伝令簿を見て、苦い顔をした。
だが、否定はしなかった。
倉庫番には鍵交換の確認表を渡した。使い走りには、明日から受領署名を必ず持ち帰るよう説明する。
「最初の一週間は、毎日終業前に十五分確認します」
リディアが言う。
「一週間後から週二回。誤りの種類と数を記録し、減らなければ手順を変えます」
「私が全件を見るのは」
「戻す条件に当てはまったものだけです」
「一件も当てはまらなければ」
「週末の一覧をご覧ください」
クロードは不満そうだった。
だが、机へ戻そうとした伝令簿を途中で止め、青年へ渡した。
小さな一歩だった。
リディアは冷えた昼食を厨房へ下げ、新しいスープとパンを頼んだ。食事の時間も、予定表へ三十分確保する。
「食事まで契約に含まれるのか」
「閣下が倒れれば納品が遅れます。工程管理です」
クロードは反論しながらも、温かいスープを飲んだ。
その間に書記官見習いが一通目を持ってくる。
「定例支出ですが、同じ商会への支払いが四日前にも七リールあります。本日の六リールと合わせると十リールを超えます」
以前なら、クロードが全件を読んで見つけていた。
今日は、決めた条件が拾い上げた。
「私へ回して正しい」
クロードが答える。
青年の顔から緊張が少し消えた。
二通目は、倉庫の予備鍵の追加だった。これも戻す条件に当てはまる。
三通目は、受領署名も時刻も揃った通常の伝令記録。青年が処理済みの箱へ入れた。
クロードの手を通さず、一つの仕事が終わった。
彼はその箱を、しばらく見ていた。
「任せても、責任は消えないのだな」
「消しません。見える形に分けるだけです」
「君は、このやり方を王宮にも残したかったか」
リディアは答える前に考えた。
婚約者としていた頃なら、残さなければならないと言っただろう。
「依頼され、対価と権限が決まれば」
今はそう答えた。
クロードは静かに頷いた。
夜の鐘が鳴る前に、机の上から二十二通が消えた。別室へ隠したのではない。担当者と期限が決まり、それぞれの仕事として動き始めたのだ。
残った十通のうち、今夜クロードが読むべきものは四通だけだった。
彼が最初の外交報告を開いたとき、一階の扉を叩く音がした。
使い走りが、白い封筒を持って上がってくる。
差出人の欄には、ミレーユ・コレット。
表には、〈会計調査人リディア・アーヴェル様へ。私個人の費用について相談を希望します〉と、自分の字で書かれていた。
王太子妃になる予定の令嬢が、王宮を通さず、自分の名で仕事を依頼しようとしている。
リディアは受領時刻を記し、未開封の封筒を明日の欄へ置いた。
今夜、抱え込まないために。




