7話 払われない騎士団
「雪まで、あと二十日です」
北部国境警備隊副官ヘンリク・ロウは、古い凍傷で白くなった指を机の上へ置いた。
その指が示しているのは、未払いの請求書だった。
外套百二十着。防寒手袋二百組。雪上靴八十足。合計四万二千リール。
三か月前に発注され、二か月前に最初の納品予定を迎えた。けれど職人へ前金が届かず、布も革も買えないまま作業が止まっている。
「今ある装備で、冬を越せる方は何人ですか」
リディアが尋ねると、ヘンリクはすぐには答えなかった。
「兵は百八十六名。昨年の装備を使える者が七十四。修繕すれば使える者が三十八。残り七十四名分が足りません」
「負傷者が出始める気温は」
「夜間で氷点下十度を下回れば。風が強ければ、それより前です」
紙の上では、四万二千という一つの数字だ。
その向こうには、指の感覚を失う七十四人がいる。
母の言葉が蘇った。
帳簿の数字の向こうには、誰かの夕食がある。
今回は夕食だけではない。指も、足も、国境で守られる村もある。
「依頼人を確認します。王宮財務官室ではなく、北部国境警備隊ですね」
「はい」
「わたくしは王宮へ戻りません。未払いを無償で処理することもしません」
ヘンリクの目が一度だけ揺れた。
「承知しています。隊の緊急経費から、調査と交渉の報酬を出します」
差し出された依頼書には、初期調査百リール、支払い経路の確定と納期再設定が成立した場合に二百リールとあった。旅費と伝令費は実費。職人への代金とは別勘定である。
「受任します」
リディアは署名した。
クロードが王都から北部砦までの距離を地図で測る。
「通常の荷馬車で八日。雨で北街道が傷んでいる。完成品を一度に送れば、雪に間に合わない可能性がある」
「三つに分けます」
リディアは請求書を品目ごとに並べた。
「最初に修繕用の革と留め具。それだけなら二日で揃えられます。砦の縫製ができる方へ送り、三十八名分を先に使える状態へ戻す」
次に防寒手袋。凍傷の危険が高い夜間哨戒員を優先する。
最後に外套と雪上靴。仕上がった分から週二便で北へ送る。
「全部完成するまで待つ必要はないということか」
ヘンリクが身を乗り出した。
「はい。ただし、職人が材料を買えることが前提です」
問題は四万二千リールを、どこから支払うかだった。
王宮から届いた支出停止通知には、財務官印が押されている。
理由は国庫不足。
だが、添付された歳出表を読むと不自然な点があった。国境警備隊の冬季装備費は、半年前の予算会議で承認済みだ。財源は一般の宮廷費ではなく、北部関税収入の四分の一を積み立てる防衛準備金と定められている。
「防衛準備金の残高証明はありますか」
「先月、残高は十万八千リールと通知されました」
「では、国庫全体が不足していても、この四万二千リールは支払えるはずです」
ヘンリクの表情が明るくなりかけた。
リディアは手を上げて止める。
「残高証明が正しく、他の承認済み支出へ使われていなければ、です」
【数学者】が教えるのは、紙の上のつながりだ。金庫の中身も、誰かの嘘も、自動では見えない。
「確認が必要です」
クロードはすでに伝令用の紙を三枚に分けていた。
「私は北部関税局と輸送組合へ照会する。リディアは王宮か」
「王宮財務官室と防衛評議会へ。同じ質問を別々に送ります」
「回答が違えば」
「違ったこと自体が記録になります」
ヘンリクには職人工房の一覧と、昨冬に凍傷が出た配置を確認してもらう。
一人で処理しようとせず、三人で仕事を分けた。
正午までに、最初の返事が届いた。
北部関税局の記録では、防衛準備金の残高は十万八千リール。今月の引き出しはない。
王宮財務官室の返答は、〈国庫支出停止中につき全案件保留〉の一行だけだった。
防衛評議会からは、冬季装備費の承認を取り消していないという確認書が来た。
三枚を並べると、支払いを止める根拠が一枚だけ足りない。
リディアは防衛準備金の月別残高も並べた。
六か月前は六万二千リール。五か月前に北部関税から三万一千、四か月前に二万八千、三か月前に二万六千が入っている。砦の屋根修繕へ三万九千、秋の保存食へ一万を支出し、残りは十万八千。
足し算は合っている。
けれど、最後の残高だけを信じることはできない。
「積み立てた金が、実際の金庫にもある証明が要ります」
クロードが尋ねた。
「関税局の数字だけでは不足か」
「関税局は送ったことを証明できます。支払局が受け取ったことは、支払局の受領記録で確かめます。同じ人が書いた二枚では、間違いも二枚へ写ります」
ヘンリクは戸惑った顔をした。
「十万八千と書いてあるのに、ないことがあるのですか」
「あります。盗まれた場合だけではありません。別の箱へ入れた。日付を一日違えた。返す予定で一時的に借りた。どれも紙の残高と現金をずらします」
「数字に強ければ、見ただけで分かるのかと思っていました」
その言葉に、幼い頃の家庭教師の声が重なった。
答えだけ出せるなら、説明はいらないだろう。
リディアは扇の親骨を一度なぞり、手を止めた。
「わたくしの力は、知らない事実を作れません。だから、違う場所にある記録を確かめるのです」
午後に届いた支払局の受領簿には、関税局の送金が同じ日付、同じ金額で三回とも記録されていた。金庫番二名の署名もある。
少なくとも、準備金は王都へ届いていた。
残る問題は、使える金を使えないものとして止めた手順だった。
専用の準備金まで止める命令だ。
「命令がないのに止めたのですか」
ヘンリクが低く尋ねた。
「まだ断定しません。一般会計の停止通知を、担当者がすべての支出へ広げた可能性があります」
「結果は同じです。兵の装備がない」
「結果が同じでも、直す場所は違います」
ヘンリクの白い指が請求書の端を押さえた。
「私は十七の冬から北部にいます。一度、手袋の縫い目が裂けたまま夜番に出ました。朝には小指が曲がらなくなった」
彼は自分の指を見た。
「今回も、支払いは遅れているが装備は来る、と部下へ言い続けました。私が王宮を信じなくなれば、兵も持ち場を離れると思ったからです」
「いつまで待つつもりでしたか」
「雪が降る前日まで」
「それでは遅いです」
「分かっています」
強い声ではなかった。
リディアは責める言葉を飲み込んだ。ヘンリクもまた、上へ疑問を返す仕組みを持たず、一人で信頼を支えようとしていた。
「次からは、納期を七日過ぎた時点で警告を出します。十四日で評議会へ自動照会。二十一日で代替調達を始める。副官が限界まで待つ必要はありません」
「そんな規則を、作れるのですか」
「作るだけでは足りません。依頼書と契約へ入れ、誰が照会するか決めます」
ヘンリクは、今度は迷わず頷いた。
命令があるなら、命令を出した者へ変更を求める。
命令がないなら、誤って止めた処理を再開する。
横領なら金の行方を追う。
同じ未払いでも、原因を取り違えれば時間を失う。
午後、リディアたちは王宮西棟の支払局へ向かった。
婚約者として何百回も通った廊下だった。今日は胸元に王家の紋章も、王太子妃候補の通行証もない。
受付の衛兵が、リディアを見て姿勢を正した。
「アーヴェル伯爵令嬢。会計室へお戻りですか」
「いいえ。北部国境警備隊から依頼を受けた会計調査人として来ました」
言葉にすると、扉の向こうとの距離がはっきりした。
かつては自分の机があった。鍵を返した今は、依頼人のために必要な範囲だけ入る。
支払局長は、リディアの提出した三通を読んで額の汗を拭いた。
「一般会計が止まった以上、勝手に払うことはできません」
「防衛準備金は一般会計ではありません」
「同じ王家の金庫に置かれています」
「物理的な金庫が同じでも、用途は同じになりません」
リディアは積立規則の第五条を示した。
防衛準備金は、評議会承認済みの装備、糧食、砦修繕へ優先使用する。一般会計の不足を理由に停止する場合、国王または評議会三名以上の署名が必要。
今回の停止通知に、その署名はない。
「財務官様の印はあります」
「財務官の印一つでは、この準備金を止められません」
局長は通知を裏返した。
「しかし、婚約破棄の翌朝でした。会計室は混乱し、ベルナール様から全部止めろと口頭で……」
「誰が聞きましたか」
「私と、当直書記が二人」
「時刻は」
「午前六時半頃です」
「復唱しましたか。専用勘定も含むと確認しましたか」
局長は黙った。
口頭指示を、最も広い意味で受け取った。確認すれば責任を負う。全部止めれば、後で上の命令だったと言える。
ベルナール一人の保身が、下の者の保身を増やしていた。
「支払いを再開してください」
「私の判断ではできません」
「では、できる方を呼んでください」
局長が呼んだのはベルナールではなく、防衛評議会の老侯爵だった。
リディアは同じ説明を繰り返した。残高、承認、規則、足りない署名。ヘンリクは不足人数と雪までの日数を報告した。
老侯爵は声を荒らげなかった。
「支払いが遅れた場合、最初の凍傷者はいつ出る」
「二十日後とは限りません。山の天候が崩れれば、十日後です」
「今、いくら出せば最初の被害を減らせる」
リディアは職人の見積もりを確認する。
「本日中に一万二千リール。革、留め具、防寒布の一部を買えます。五日以内に残る三万リールを支払えば、分割納品で雪に間に合う見込みです」
老侯爵は二通の命令書を作らせた。
一通は支払局へ。防衛準備金から一万二千リールを即日支払い、残額三万リールを五日以内に支出する。
もう一通はベルナールへ。専用勘定まで停止した根拠と、口頭指示の範囲を翌朝までに文書で答えること。
「これで全部解決ですか」
ヘンリクが尋ねた。
「いいえ。お金が動いただけです」
リディアたちは、その足で三つの工房を回った。
外套を縫う工房では、裁断台に布が一枚もなかった。手袋職人は、材料が届けば夜番を二組に増やせると言った。雪上靴の工房は、前金なしで少量の革を確保していたため、すでに借金を抱えていた。
リディアは、王宮から工房へ直接払う金額と日付を一軒ずつ書面にした。遅れた場合の連絡先は、財務官室だけでなく防衛評議会とヘンリクにも置く。
クロードは輸送組合と交渉し、週二便の荷車を確保した。最初の便は三日後。修繕用材料と完成した手袋四十組を積む。
「公爵閣下ご自身が、荷車の時刻表まで作られるのですか」
ヘンリクが驚いた。
「今日、空いていた者が私だった」
クロードは平然と答えた。
その机には、輸送以外の書類も積み上がっている。リディアは気づいたが、今は何も言わなかった。
夕方、一万二千リールの支払証が届いた。
工房主たちは材料商へ走り、止まっていた裁断台に布が広げられた。大きな鋏が、厚い防寒布を最初の一着分だけ切る。
紙の上の数字が、人の手の動きへ変わった。
ヘンリクは、その音を聞いて深く頭を下げた。
「兵たちには、アーヴェル伯爵令嬢が救ったと伝えます」
「会計調査人が支払い経路を確認した、と伝えてください」
「同じことでは」
「違います。わたくし一人が毎年救わなければならない制度では、来年また止まります」
支払局、評議会、警備隊、工房。誰が、いつ、何を確認するかを残したから、次はリディアがいなくても動かせる。
それが本当の解決だった。
事務所へ戻ると、クロードの机だけが見えないほど紙に埋まっていた。
輸送組合の契約書。フェルゼンからの外交報告。商館の雇用面接。倉庫の鍵交換。さらに、今日リディアが任せた照会の控えまである。
「書記官へ渡すはずの定例支出も、閣下が確認なさったのですか」
「私が見た方が早い」
「使い走りへ任せるはずの伝令記録まで?」
「間違いがあれば困る」
クロードは答えながら、封蝋を一つ押し損ねた。
三時間前なら、そんな失敗はしなかったはずだ。
リディアは、机の端に置かれた冷めた昼食を見た。
他人に頼る仕組みを作る契約を結んだ依頼人が、誰よりも仕事を手放せずにいる。
国境の未払いは動き始めた。
けれど、事務所の中では別の問題が、音もなく積み上がっていた。




