6話 財務官は盗んでいない
「わたしは一リールも盗んでいない」
ベルナール・ドリエ財務官は、椅子へ座る前に言った。
王宮東棟の小会議室。
机の片側にはベルナールと二人の監査書記。反対側にはリディア、クロード、ミレーユ、衣装局の支払書記オスカーが座っている。
中央には、赤い印章を収めた鍵付きの箱が置かれていた。
リディアは昨日のうちに、衣装局長へ調査範囲を書面で求めた。
許可されたのは、ミレーユ名義の衣装費と、同じ簡易承認印を使った過去三年分の支払い。原本は王宮から持ち出さず、二人の監査書記が立ち会う。
勝手な監査ではない。
だからこそ、ベルナールも呼び出しを無視できなかった。
「横領したとは申し上げていません」
リディアが答える。
「だが、私の印を調べたのだろう」
「印章が使われた支出を調べました。あなた個人の財産や口座は調べていません」
ベルナールは鼻を鳴らした。
五十四歳。白髪の混じる髪も、銀の飾り鎖も整っている。
疲れてはいるが、追い詰められた犯罪者には見えない。
むしろ、自分がここにいること自体を時間の無駄だと思っている顔だった。
「この一覧へ、印章を押した人の氏名はありません」
リディアは未確認支出二千七百二十リールの一覧を示した。
「それは衣装局の書記に聞くべきことだ」
「書記は、この印があるため財務官室へ回さなかったと証言しています」
「規則どおりだ」
「規則を作ったのは誰ですか」
ベルナールの指が止まった。
「三年前、式典準備が遅れるという苦情を受け、あなたが簡易承認を認めた。八百リール未満なら、衣装局に預けた印章で支払える。間違いありませんね」
「緊急時の措置だ。衣装が間に合わなければ国の威信に関わる」
「緊急時とは、どのような場合ですか」
「必要な場合だ」
「誰が必要と判断しますか」
「衣装局だ」
「衣装局の誰ですか」
ベルナールは答えなかった。
会議の後、リディアたちは衣装局の廊下へ出た。
「これで、私が使っていないと証明されたのですか」
ミレーユが尋ねる。
「まだです」
リディアは正直に答えた。
「ですが、あなたが使ったと決めつけられる状態ではなくなりました。次は職人の控えと納品先を確かめます」
「最後まで調べてもらえますか」
「ご依頼の範囲です」
ミレーユは胸へ手を当て、小さく息を吐いた。
「自分のお金が十二リールしかなかったことを、恥ずかしいと思っていました」
「恥ではありません」
「でも、王太子妃になるなら、お金のことを知らないままではいけませんね」
以前の彼女なら、衣装局に任せると言ったかもしれない。
「知らないことより、知らないまま署名することの方が危険です」
ミレーユはその言葉を、何度か口の中で繰り返した。
アンナが持つ記録紙を覗き、自分で確認済みと未確認の数字を読み上げる。
千百二十。
二千七百二十。
足せば三千八百四十。
昨日は見たこともないと言うだけだった数字を、今日は自分の問題として数えていた。
「八リールのお支払いも忘れません」
「期限は次の個人費を受け取った翌営業日です。今日ではありません」
「借りていることを、なかったことにしたくないのです」
「では、その意思も記録しておきます」
リディアは微笑んだ。
人を数字だけにしない。
同時に、数字を曖昧な善意だけにも任せない。
どちらも必要だった。
◇
フェルゼン公爵商務事務所へ戻ると、新しい依頼人が待っていた。
擦り切れた濃紺の外套。
磨かれているが、踵の減った軍靴。
男は王国北部国境警備隊の副官、ヘンリク・ロウと名乗った。
「冬季装備の代金が、三か月払われていません」
机へ置かれた請求書は、衣装費の紙より薄かった。
そこに書かれた数字は四万二千リール。
外套百二十着。
防寒手袋二百組。
雪上靴八十足。
品物は北部の倉庫で半分まで完成しているが、前金が止まり、職人が材料を買えないという。
「王宮の回答は?」
クロードが尋ねた。
「財務官の承認待ちです。三度送りました」
つい先ほど、簡易承認を止めた財務官の机には、別の未処理が積まれている。
衣装の穴を塞いだだけでは、王国全体の支払いは動かない。
「支払いがなければ、どうなりますか」
リディアが問う。
ヘンリクは手袋を外した。
指先が、古い凍傷で白くなっている。
「あと二十日で雪が降ります。外套も靴も届かなければ、兵が国境に立てません」
「国境を離れるのですか」
「離れません」
副官は即答した。
「装備がなくても立つでしょう。そして、去年より多くの者が指を失います」
今度の未払いは、誰かの評判を傷つけるだけではない。
人の指と、命を奪う。
リディアは依頼受付簿を開いた。
王宮へ戻って無償で穴を埋めるのではない。
国境警備隊を依頼人として、支払経路と納期を確かめる。
「初回確認の料金と、必要な書類をご説明します」
以前なら、ここでリディアは王宮へ走り、眠らずに支払案を作っただろう。
クロードが受付用の紙を二枚出した。一枚をヘンリクへ、もう一枚を自分の前へ置く。
「私は納期と輸送路を確認します。王宮への照会は、リディアに任せても?」
頼ることが苦手な彼が、役割を抱え込まずに尋ねた。
「はい。回答期限も書面へ入れます」
二人で分ければ、今夜どちらか一人が倒れるまで働く必要はない。
ヘンリクは深く頷いた。
ベルナールが盗んでいないことは、今日確認できた。
だが、盗んでいない財務官の机で、必要な金が止まっている。
その責任は、まだ一リールも清算されていなかった。
リディアは別の紙を置いた。
三年間の簡易承認件数を、月ごとに並べた表だ。
最初の一年は十二件。
二年目は三十七件。
三年目は百四十九件。
「一件八百リール未満という上限だけがあり、一か月の合計上限がありません。使った者の氏名欄も、印章を返す時刻も、事後確認の期限もない」
「私が作った一覧ではない」
「はい」
リディアは即座に認めた。
ベルナールが拍子抜けした顔をする。
「あなたがミレーユ様の名で架空のドレスを注文した証拠はありません。代金を受け取った証拠もありません」
「ならば、なぜ私を呼んだ」
「盗んでいないことと、責任がないことは別だからです」
部屋の空気が固まった。
ベルナールは椅子の背へ体を預ける。
「私が一件ずつ衣装を確かめろと?」
「いいえ。確かめる担当者と期限を決め、誰が印を使ったか記録し、一定期間ごとに合計を確認する。それが財務官の仕事です」
「それでは仕事が増える」
「増やしたのではありません。三年間、見えない場所へ置いていた仕事を数えただけです」
クロードが追加の表をベルナールへ向けた。
簡易承認百九十八件のうち、注文書と受領記録が揃うものは九十六件。
どちらかが欠けるものは六十一件。
両方がないものは四十一件。
未確認額は合計七万四千六百リール。
五十八万リールの不足すべてではない。
けれど、ドレス一着の問題でもなかった。
「この数字を、どこで出した」
「衣装局長が開示を認めた台帳からです。昨夜、オスカー様と監査書記二人が集計しました。わたくしは計算方法を提示し、四人で照合しました」
リディア一人だけが作った数字ではない。
誰が同じ手順で数えても、同じ合計になるようにした。
「四十一件すべてが架空とは限らない」
「そのとおりです。控えを失っただけかもしれない。口頭発注で実際に納めた職人もいるでしょう。ですから、横領額ではなく未確認額と呼びます」
「では犯罪の証拠ではない」
「犯罪者を決めるために来たのではありません」
ミレーユが身を乗り出した。
「では、私の名前は?」
声が震えている。
「調査が終わるまで、三千八百四十リールを私が使ったことになるのですか」
ベルナールは初めてミレーユを見た。
「王太子妃候補の衣装費は王家の支出だ。あなた個人へ請求されるものではない」
「お金を払うかどうかだけではありません」
ミレーユは膝の上で手を握った。
「厨房の人も、侍女も、私を浪費家だと思っています。私は使った物まで、使っていないとは言いません。でも、受け取っていない物のために嫌われるのは嫌です」
ベルナールの視線が一覧へ戻る。
数字の向こうに人がいる。
十一歳の洪水で、母がリディアへ教えたことだった。
ベルナールは、その人を見なくても仕事が回る場所にいた。
「財務官様。今日決めるのは犯人ではありません。これ以上、同じ方法で金が動かないための手順です」
リディアは提案書を置いた。
預け印章を即日回収し、複数人の立会いで封印する。
簡易承認を一時停止する。
緊急支出には注文者、使用者、受領者の三欄を作る。
一件の上限だけでなく、同一名義と同一行事の合計額を確認する。
過去三年分は職人へ処罰を匂わせず、控えと納品記録の提出を依頼する。
「停止すれば、来週の使節団歓迎式に間に合わない」
「正規承認は止めません」
「財務官室には未処理が山ほどある」
「順番を決めましょう。歓迎式に不可欠なもの、納品済みのもの、生活に関わるもの。それ以外は待ってもらいます」
「簡単に言う」
「簡単ではありません。だから、誰が何をするか決めるのです」
ベルナールは窓の外を見た。
東庭では、歓迎式に使う幕が運ばれている。
「私が認めれば、三年間の管理不備を認めることになる」
「認めなくても、印章と台帳は残ります」
クロードの声は静かだった。
「今、自分で止めるか。後で誰かに止められるか。その違いです」
ベルナールは苦い顔をした。
それでも、提案書を払いのけなかった。
「印章を持ってこい」
オスカーが鍵付きの箱を机の中央へ動かした。
白布の上に、ベルナールの名を刻んだ赤い印章がある。
「封印する。立会人は私と衣装局長。それから……」
言葉が止まった。
他人へ頼る名前を、すぐに選べないのだ。
「オスカー様を記録担当にしてはいかがでしょう」
リディアが提案した。
「今回、質問状へ回答し、台帳を提出した方です。印章を使う権限は持たせず、箱の出入りだけを記録していただきます」
ベルナールは若い書記を見た。
「できるか」
「はい。ただし、財務官様にも返却時刻へ署名していただきます」
オスカーの声は震えていた。
それでも目を逸らさない。
ベルナールは眉を寄せたが、頷いた。
監査書記の一人が、封印前の印章を布越しに調べる。
欠けはない。持ち手の番号は財務官室の登録と一致。最後に使われた日時は、管理簿がないため不明。
不明と書くことも、記録だった。
三人が封印記録へ署名する。
赤い蝋が箱の鍵穴を覆い、衣装局と財務官室の印が左右へ押された。
これで、ベルナール名義の印を一人では使えない。
「過去分の確認には、何人必要だ」
ベルナールが尋ねた。
リディアは用意していた工程表を開く。
「台帳の転記に二人。職人への照会に三人。受領先の確認に二人。判断をする監査官が一人。合計八人です」
「八人も空いていない」
「一度に揃える必要はありません。転記が終わる前に全職人へ尋ねれば、回答を整理できなくなります」
第一週は四十一件を日付と名義で並べる。
第二週は注文先の職人へ控えの有無だけを照会する。
第三週から、回答のないものと食い違うものを優先して確認する。
「全件を同じ深さで調べないのか」
「限られた人手を、危険の大きい順に使います。ただし、後回しにした記録を消してはいけません」
ベルナールは工程表を読み、監査書記へ渡した。
「明朝までに、担当者名を入れろ」
それは彼がこの場で初めて出した、責任の所在が分かる指示だった。
ミレーユ名義の一覧は、確認済み千百二十リールと未確認二千七百二十リールへ分けて公的記録に載せることになった。
調査中の費用を、本人の浪費と呼ばないという注記も付く。
ベルナールが署名欄へ羽根ペンを置いた。
「これで満足か」
「いいえ」
リディアは答えた。
「これは始めるための署名です。調査が終わるまでは、誰も満足してはいけません」
ベルナールは初めて、僅かに苦笑した。
「相変わらず、容赦がない」
「以前のわたくしをご存じなのですね」
「未処理の紙を持っていけば、翌朝には数字が揃って戻ってきた」
「揃える過程をご覧になったことは?」
苦笑は消えた。
ベルナールは答えなかった。




