↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は承りました。では、王家の赤字もそちらでお引き受けください  作者: ハッピーミラクルエンジョイ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/6

第5話 ミレーユのドレス代

ミレーユ・コレット名義の衣装費は、三千八百四十リールだった。


王都職人三十二人分の平均月収にあたる。


リディアは支払一覧の合計をもう一度確かめ、封筒へ戻した。


「返送しましょう」


クロードが意外そうに眉を上げる。


「控え番号が重複しています」


「だからこそです。わたくしたちには王宮衣装局の帳簿を監査する権限がありません。勝手に調べれば、正しい指摘まで越権行為になります」


「誰が、なぜ私の事務所へ送ったのかは?」


「質問状にします」


リディアは新しい紙を三つに区切った。


送付者の役職と氏名。


フェルゼン公爵商務事務所を送付先にした根拠。


確認を求める範囲と、回答期限。


数字が怪しいからといって、他人の机を勝手に開けてよいわけではない。


調べる権限と、調べる価値は別のものだ。


「封筒は開いていますが」


「届いた時点で封が切られていました。受領した時刻と状態も書き添えます」


クロードは呼び鈴へ手を伸ばし、途中で止めた。


「誰へ頼むべきですか」


先に相手を決めず、リディアへ尋ねた。


昨日、十七通の書類を一人で整理した男にとっては、小さくない変化だった。


「王宮へ出入りできる護衛のダミアンに。衣装局長本人か、受領権限のある書記へ手渡し、受領証を持ち帰ってもらってください」


「ダミアン」


クロードは扉の外にいた護衛を呼んだ。


指示は一度で済んだ。


返事が来たのは、その日の夕方だった。


ただし、質問状への回答ではない。


薄紫色の外套を頭から被った若い女性が、フェルゼン公爵事務所の裏口へ現れた。


淡い栗色の髪が、外套の隙間から覗いている。


建国祭の夜、王太子エドガーの隣に立っていた女性。


ミレーユ本人だった。


「突然押しかけて、ごめんなさい」


応接室へ通されるなり、ミレーユは立ったまま頭を下げた。


侍女を一人連れているが、王家の紋章を付けた護衛はいない。


「衣装局から、わたくしの名の支払一覧がこちらへ届いたと聞きました」


「誰から聞いたのですか」


リディアが尋ねると、ミレーユは唇を噛んだ。


「衣装係の見習いです。返送された質問状を見て、私へ知らせてくれました。衣装局長には内緒です」


クロードが扉の前に立つダミアンを見る。


護衛は首を横へ振った。尾行はなかったという合図らしい。


「わたくしたちは、王宮から調査を依頼されていません」


「分かっています。でも、あれが私の使ったお金だと言われるのは困ります」


ミレーユの声が僅かに高くなる。


「三千八百四十リールなんて、見たこともありません。建国祭のドレスは一着です。靴も一足。首飾りは王宮の貸し出し品でした」


「一覧の内容を見ましたか」


「見せてもらえませんでした。王太子妃候補の衣装は衣装局が管理するから、私が心配することではないと」


数字に弱い。


けれど、自分へ向けられた敵意には敏感な女性だ。


建国祭の翌朝も、ミレーユは厨房の使用人たちが自分を見ないことに気づいていた。


「お願いです。私が何を買ったことになっているのか、教えてください」


リディアはすぐには封筒を出さなかった。


「この一覧は、わたくしたちの所有物ではありません。あなたへ原本を渡すこともできません」


ミレーユの顔が曇る。


「ですが、ご本人に記憶を確認することはできます。正式な依頼として受けるなら、範囲と記録方法を決めましょう」


「お金が要るのですね」


責める口調ではなかった。


ただ、財布の中身を思い出した顔だった。


「初回の聞き取り一時間で二十リールです。調査へ進む場合は別に見積もります。ただし今必要なのは、あなたの記憶を書面にすることです」


ミレーユは侍女を見た。


侍女が小さな革袋を取り出す。数えられたのは銀貨十二リール分だった。


「足りません」


ミレーユは俯いた。


王太子の隣に立つ女性が、自分の名で使われた三千八百四十リールを調べるための二十リールを持っていない。


その落差を、リディアは笑えなかった。


豪華な衣装は与えられても、自由に使える金は与えられていないのだ。


「八リールは後払いにできます。ただし期限を決めます」


「いつまでですか」


「王太子府から次の個人費を受け取った翌営業日。それが七日を超える場合は、七日目に一度状況を報告してください」


「利息は?」


「取りません。聞き取りの結果、正式な調査を依頼しない選択もできます」


ミレーユは十二リールを机へ置いた。


「お願いします」


リディアは受領証と、八リールの支払約束を書いた。


署名するミレーユの指が震えている。


建国祭の夜、エドガーの腕へ添えられていた手だった。


あのとき胸を刺した痛みが、消えたわけではない。


それでも、その痛みと目の前の依頼を混ぜれば、数字を使って人を傷つけることになる。


リディアは扇の親骨を二度なぞり、封筒から支払一覧を出した。


「読み上げます。記憶にあるもの、ないもの、分からないものの三つで答えてください」


最初は、建国祭用の正装ドレス一着。六百四十リール。


「あります。青いドレスです。仮縫いを二回しました」


「納品された場所は?」


「王宮の東衣装室。祭の三日前です」


二つ目は、同じ正装ドレス一着。六百四十リール。


控え番号は一つ目と同じだった。


ミレーユが目を見開く。


「二着もありません」


「知らない、で記録します。存在しないとは、まだ決めません」


三つ目は、真珠を縫い込んだ夜会用ヴェール。七百八十リール。


「見たことがありません。建国祭ではヴェールを着けていません」


四つ目は、金糸の外套。五百二十リール。


「それも知りません」


五つ目は、舞踏靴一足。九十リール。


「あります。銀色です」


六つ目は、舞踏靴三足。二百七十リール。


「三足もないわ」


「同じ工房ですか」


「分かりません。靴職人の名前も聞いていません」


装身具の洗浄七十リール。これは王宮貸与品の手入れとして記憶にある。


ドレスの仕立て直し百二十リール。建国祭当日の朝、裾を短くしたため、これも合っている。


胸元へ加えた銀糸の刺繍二百リールも、仮縫いのときにミレーユ自身が選んでいた。


残りは、別の刺繍、緊急運送、夜間仕立て、保管料。


ミレーユが覚えている費用は、合計千百二十リール。


知らない費用は二千七百二十リール。


足すと三千八百四十リールになる。


「私が覚えていないだけでしょうか」


「その可能性はあります。あなたが直接見ない場所で準備され、結局使われなかった品もあるでしょう」


「では、やはり私の浪費なの?」


「まだ違います」


リディアは一覧の名義欄を指した。


「あなたの名があることと、あなたが注文したことは同じではありません。受け取った物、注文を決めた人、価格を認めた人、支払う人を分けます」


クロードが別の紙へ四つの欄を作った。


頼まれる前に全部を抱えるのではなく、必要な作業を見て補助している。


「私は、何をすればいいですか」


ミレーユが尋ねた。


「着た物と受け取った物を、侍女の記憶と照合してください。知らない品については、知らないと署名する。誰かを犯人だと書く必要はありません」


「知らないと言ったら、衣装局の人が罰せられませんか」


「事実を隠せば、正しく働いた職人まで支払いを止められます」


ミレーユは黙り込んだ。


侍女が先に口を開く。


「青いドレス、銀の靴、貸し出しの首飾りは、わたくしも確認しました。裾を直した仕立屋も覚えています。ほかは、お部屋へ届いておりません」


「名前を記録してよいですか」


「はい。アンナ・ベルと申します」


二人の証言を別々の紙へ書き、最後に読み上げた。


同じ内容でも、一枚へまとめない。


片方が後で言葉を変えても、最初の証言が分かるようにするためだ。


「次は、品物を作った職人と、王宮で受け取った人の記録が必要です」


ミレーユが身を乗り出す。


「私も行きます」


「王宮衣装局へ行けば、あなたが調査を始めたと知られます」


「知られて困ることを、私がしたのですか」


声は震えていた。


それでも視線は逸らさない。


リディアは、建国祭の夜の彼女とは違うと思った。


あの夜は、エドガーに手を引かれるまま立っていた。


今は、自分の名で書かれた数字を、自分で確かめようとしている。


「困るのは、あなたではなく、記録を作った側かもしれません。だから一人では行かないこと。質問する順番を変えないこと。答えを聞く前に、こちらから金額を教えないこと。この三つを守れますか」


「守ります」


「では明朝、衣装局が開く時刻に」


クロードが口を挟んだ。


「私の護衛を二人付けます」


「一人で十分です」


「王宮内で相手が二手に分かれた場合、一人では証人が途切れる」


リディアは少し考えた。


心配だから全員で行く、ではない。証人を途切れさせないという役割がある。


「では二人お願いします。一人はわたくしたちに同行し、もう一人は入口で入退室を記録してください」


クロードは頷いた。


その夜のうちに、衣装局から質問状への正式回答も届いた。


送付者は、衣装局の支払書記オスカー・ベイル。


フェルゼン公爵事務所を選んだ理由は、封筒の表に貼られた〈監査確認先〉の紙片だった。


紙片には公爵事務所の住所と、リディアの名が書かれていた。


だが、衣装局はその紙片を作っていないという。


「誰かが、あなたへ見せたかったのですね」


クロードが言った。


「あるいは、わたくしが勝手に調査することを期待した」


「越権行為をさせるために?」


「それもまだ、決められません」


翌朝、リディア、ミレーユ、アンナ、護衛のダミアンは王宮東棟の衣装局へ入った。


もう一人の護衛は入口に残り、時刻と出入りした者を記録する。


衣装局長は不在だった。


支払書記のオスカーが、青ざめた顔で四冊の台帳を机へ並べる。


「私が封筒を送りました。しかし、一覧を作ったのは私ではありません」


「順番に確認します」


リディアはまず、正しい青いドレスの注文書を求めた。


注文主は王宮衣装局。採寸対象にミレーユの名。価格六百四十リール。受領欄にはアンナの署名がある。


アンナが自分の筆跡だと認めた。


次に、同じ控え番号の二着目。


注文書はなかった。


代わりに、支払台帳へ一行だけ追加されている。


〈緊急追加分。財務官確認不要〉


ヴェールも、外套も、三足分の靴も同じだった。


職人の注文控えはない。


納品時刻も、受領者の署名もない。


あるのはミレーユの名と金額、それから〈財務官確認不要〉という赤い印だけ。


「この印は、誰のものですか」


オスカーは答えなかった。


代わりに、机の鍵付きの引き出しを開ける。


中には同じ赤い印章が入っていた。


持ち手には、ベルナール・ドリエ財務官の名が刻まれている。


ミレーユの顔から血の気が引いた。


「財務官が、私の名で買ったのですか」


「まだ分かりません」


リディアは印章に触れず、引き出しの中を見た。


「印章がここにあることと、ベルナール様が押したことは同じではありません」


オスカーがようやく声を出した。


「その印は、三年前から衣装局へ預けられています。王族の式典準備が遅れないよう、一定額以下なら財務官室へ回さず支払えるようにするためです」


「一定額とは?」


「一件八百リール未満です」


リディアは架空の可能性がある行を見た。


六百四十。七百八十。五百二十。二百七十。


すべて八百リール未満だった。


合計では二千二百十リールを超えるのに、一件ずつなら確認を通らない。


残る夜間仕立てや運送費も、別々の小さな行へ分けられていた。


盗んだ人間の名前は、まだない。


けれど、責任を確認しない仕組みの形は見え始めた。


リディアは四冊の台帳を閉じなかった。


「ベルナール財務官を、横領したと決めることはできません」


ミレーユが息を吐く。


「では、何も悪くないのですか」


「いいえ。三年間、誰が押しても同じ効力を持つ印を預け、合計額を確認する人も決めなかった。その責任はあります」


リディアは新しい紙へ、最初の一行を書いた。


〈ミレーユ・コレット名義、未確認衣装費二千七百二十リール。本人および侍女は受領を否認。注文書・納品記録なし〉


ミレーユがその下へ、自分の名を署名した。


「私の衣装費を、全部調べてください」


昨日までなら、誰かに決めてもらう声だったかもしれない。


今日は違った。


「使った分は隠しません。使っていない分も、私のせいにはさせません」


リディアは依頼範囲を一行増やした。


これは、ドレス一着の値段を確かめるだけの仕事ではなくなった。


財務官が盗んだ証拠はない。


だが、財務官が責任を手放した印章は、三年間も王宮の引き出しに眠っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。