第5話 ミレーユのドレス代
ミレーユ・コレット名義の衣装費は、三千八百四十リールだった。
王都職人三十二人分の平均月収にあたる。
リディアは支払一覧の合計をもう一度確かめ、封筒へ戻した。
「返送しましょう」
クロードが意外そうに眉を上げる。
「控え番号が重複しています」
「だからこそです。わたくしたちには王宮衣装局の帳簿を監査する権限がありません。勝手に調べれば、正しい指摘まで越権行為になります」
「誰が、なぜ私の事務所へ送ったのかは?」
「質問状にします」
リディアは新しい紙を三つに区切った。
送付者の役職と氏名。
フェルゼン公爵商務事務所を送付先にした根拠。
確認を求める範囲と、回答期限。
数字が怪しいからといって、他人の机を勝手に開けてよいわけではない。
調べる権限と、調べる価値は別のものだ。
「封筒は開いていますが」
「届いた時点で封が切られていました。受領した時刻と状態も書き添えます」
クロードは呼び鈴へ手を伸ばし、途中で止めた。
「誰へ頼むべきですか」
先に相手を決めず、リディアへ尋ねた。
昨日、十七通の書類を一人で整理した男にとっては、小さくない変化だった。
「王宮へ出入りできる護衛のダミアンに。衣装局長本人か、受領権限のある書記へ手渡し、受領証を持ち帰ってもらってください」
「ダミアン」
クロードは扉の外にいた護衛を呼んだ。
指示は一度で済んだ。
返事が来たのは、その日の夕方だった。
ただし、質問状への回答ではない。
薄紫色の外套を頭から被った若い女性が、フェルゼン公爵事務所の裏口へ現れた。
淡い栗色の髪が、外套の隙間から覗いている。
建国祭の夜、王太子エドガーの隣に立っていた女性。
ミレーユ本人だった。
「突然押しかけて、ごめんなさい」
応接室へ通されるなり、ミレーユは立ったまま頭を下げた。
侍女を一人連れているが、王家の紋章を付けた護衛はいない。
「衣装局から、わたくしの名の支払一覧がこちらへ届いたと聞きました」
「誰から聞いたのですか」
リディアが尋ねると、ミレーユは唇を噛んだ。
「衣装係の見習いです。返送された質問状を見て、私へ知らせてくれました。衣装局長には内緒です」
クロードが扉の前に立つダミアンを見る。
護衛は首を横へ振った。尾行はなかったという合図らしい。
「わたくしたちは、王宮から調査を依頼されていません」
「分かっています。でも、あれが私の使ったお金だと言われるのは困ります」
ミレーユの声が僅かに高くなる。
「三千八百四十リールなんて、見たこともありません。建国祭のドレスは一着です。靴も一足。首飾りは王宮の貸し出し品でした」
「一覧の内容を見ましたか」
「見せてもらえませんでした。王太子妃候補の衣装は衣装局が管理するから、私が心配することではないと」
数字に弱い。
けれど、自分へ向けられた敵意には敏感な女性だ。
建国祭の翌朝も、ミレーユは厨房の使用人たちが自分を見ないことに気づいていた。
「お願いです。私が何を買ったことになっているのか、教えてください」
リディアはすぐには封筒を出さなかった。
「この一覧は、わたくしたちの所有物ではありません。あなたへ原本を渡すこともできません」
ミレーユの顔が曇る。
「ですが、ご本人に記憶を確認することはできます。正式な依頼として受けるなら、範囲と記録方法を決めましょう」
「お金が要るのですね」
責める口調ではなかった。
ただ、財布の中身を思い出した顔だった。
「初回の聞き取り一時間で二十リールです。調査へ進む場合は別に見積もります。ただし今必要なのは、あなたの記憶を書面にすることです」
ミレーユは侍女を見た。
侍女が小さな革袋を取り出す。数えられたのは銀貨十二リール分だった。
「足りません」
ミレーユは俯いた。
王太子の隣に立つ女性が、自分の名で使われた三千八百四十リールを調べるための二十リールを持っていない。
その落差を、リディアは笑えなかった。
豪華な衣装は与えられても、自由に使える金は与えられていないのだ。
「八リールは後払いにできます。ただし期限を決めます」
「いつまでですか」
「王太子府から次の個人費を受け取った翌営業日。それが七日を超える場合は、七日目に一度状況を報告してください」
「利息は?」
「取りません。聞き取りの結果、正式な調査を依頼しない選択もできます」
ミレーユは十二リールを机へ置いた。
「お願いします」
リディアは受領証と、八リールの支払約束を書いた。
署名するミレーユの指が震えている。
建国祭の夜、エドガーの腕へ添えられていた手だった。
あのとき胸を刺した痛みが、消えたわけではない。
それでも、その痛みと目の前の依頼を混ぜれば、数字を使って人を傷つけることになる。
リディアは扇の親骨を二度なぞり、封筒から支払一覧を出した。
「読み上げます。記憶にあるもの、ないもの、分からないものの三つで答えてください」
最初は、建国祭用の正装ドレス一着。六百四十リール。
「あります。青いドレスです。仮縫いを二回しました」
「納品された場所は?」
「王宮の東衣装室。祭の三日前です」
二つ目は、同じ正装ドレス一着。六百四十リール。
控え番号は一つ目と同じだった。
ミレーユが目を見開く。
「二着もありません」
「知らない、で記録します。存在しないとは、まだ決めません」
三つ目は、真珠を縫い込んだ夜会用ヴェール。七百八十リール。
「見たことがありません。建国祭ではヴェールを着けていません」
四つ目は、金糸の外套。五百二十リール。
「それも知りません」
五つ目は、舞踏靴一足。九十リール。
「あります。銀色です」
六つ目は、舞踏靴三足。二百七十リール。
「三足もないわ」
「同じ工房ですか」
「分かりません。靴職人の名前も聞いていません」
装身具の洗浄七十リール。これは王宮貸与品の手入れとして記憶にある。
ドレスの仕立て直し百二十リール。建国祭当日の朝、裾を短くしたため、これも合っている。
胸元へ加えた銀糸の刺繍二百リールも、仮縫いのときにミレーユ自身が選んでいた。
残りは、別の刺繍、緊急運送、夜間仕立て、保管料。
ミレーユが覚えている費用は、合計千百二十リール。
知らない費用は二千七百二十リール。
足すと三千八百四十リールになる。
「私が覚えていないだけでしょうか」
「その可能性はあります。あなたが直接見ない場所で準備され、結局使われなかった品もあるでしょう」
「では、やはり私の浪費なの?」
「まだ違います」
リディアは一覧の名義欄を指した。
「あなたの名があることと、あなたが注文したことは同じではありません。受け取った物、注文を決めた人、価格を認めた人、支払う人を分けます」
クロードが別の紙へ四つの欄を作った。
頼まれる前に全部を抱えるのではなく、必要な作業を見て補助している。
「私は、何をすればいいですか」
ミレーユが尋ねた。
「着た物と受け取った物を、侍女の記憶と照合してください。知らない品については、知らないと署名する。誰かを犯人だと書く必要はありません」
「知らないと言ったら、衣装局の人が罰せられませんか」
「事実を隠せば、正しく働いた職人まで支払いを止められます」
ミレーユは黙り込んだ。
侍女が先に口を開く。
「青いドレス、銀の靴、貸し出しの首飾りは、わたくしも確認しました。裾を直した仕立屋も覚えています。ほかは、お部屋へ届いておりません」
「名前を記録してよいですか」
「はい。アンナ・ベルと申します」
二人の証言を別々の紙へ書き、最後に読み上げた。
同じ内容でも、一枚へまとめない。
片方が後で言葉を変えても、最初の証言が分かるようにするためだ。
「次は、品物を作った職人と、王宮で受け取った人の記録が必要です」
ミレーユが身を乗り出す。
「私も行きます」
「王宮衣装局へ行けば、あなたが調査を始めたと知られます」
「知られて困ることを、私がしたのですか」
声は震えていた。
それでも視線は逸らさない。
リディアは、建国祭の夜の彼女とは違うと思った。
あの夜は、エドガーに手を引かれるまま立っていた。
今は、自分の名で書かれた数字を、自分で確かめようとしている。
「困るのは、あなたではなく、記録を作った側かもしれません。だから一人では行かないこと。質問する順番を変えないこと。答えを聞く前に、こちらから金額を教えないこと。この三つを守れますか」
「守ります」
「では明朝、衣装局が開く時刻に」
クロードが口を挟んだ。
「私の護衛を二人付けます」
「一人で十分です」
「王宮内で相手が二手に分かれた場合、一人では証人が途切れる」
リディアは少し考えた。
心配だから全員で行く、ではない。証人を途切れさせないという役割がある。
「では二人お願いします。一人はわたくしたちに同行し、もう一人は入口で入退室を記録してください」
クロードは頷いた。
その夜のうちに、衣装局から質問状への正式回答も届いた。
送付者は、衣装局の支払書記オスカー・ベイル。
フェルゼン公爵事務所を選んだ理由は、封筒の表に貼られた〈監査確認先〉の紙片だった。
紙片には公爵事務所の住所と、リディアの名が書かれていた。
だが、衣装局はその紙片を作っていないという。
「誰かが、あなたへ見せたかったのですね」
クロードが言った。
「あるいは、わたくしが勝手に調査することを期待した」
「越権行為をさせるために?」
「それもまだ、決められません」
翌朝、リディア、ミレーユ、アンナ、護衛のダミアンは王宮東棟の衣装局へ入った。
もう一人の護衛は入口に残り、時刻と出入りした者を記録する。
衣装局長は不在だった。
支払書記のオスカーが、青ざめた顔で四冊の台帳を机へ並べる。
「私が封筒を送りました。しかし、一覧を作ったのは私ではありません」
「順番に確認します」
リディアはまず、正しい青いドレスの注文書を求めた。
注文主は王宮衣装局。採寸対象にミレーユの名。価格六百四十リール。受領欄にはアンナの署名がある。
アンナが自分の筆跡だと認めた。
次に、同じ控え番号の二着目。
注文書はなかった。
代わりに、支払台帳へ一行だけ追加されている。
〈緊急追加分。財務官確認不要〉
ヴェールも、外套も、三足分の靴も同じだった。
職人の注文控えはない。
納品時刻も、受領者の署名もない。
あるのはミレーユの名と金額、それから〈財務官確認不要〉という赤い印だけ。
「この印は、誰のものですか」
オスカーは答えなかった。
代わりに、机の鍵付きの引き出しを開ける。
中には同じ赤い印章が入っていた。
持ち手には、ベルナール・ドリエ財務官の名が刻まれている。
ミレーユの顔から血の気が引いた。
「財務官が、私の名で買ったのですか」
「まだ分かりません」
リディアは印章に触れず、引き出しの中を見た。
「印章がここにあることと、ベルナール様が押したことは同じではありません」
オスカーがようやく声を出した。
「その印は、三年前から衣装局へ預けられています。王族の式典準備が遅れないよう、一定額以下なら財務官室へ回さず支払えるようにするためです」
「一定額とは?」
「一件八百リール未満です」
リディアは架空の可能性がある行を見た。
六百四十。七百八十。五百二十。二百七十。
すべて八百リール未満だった。
合計では二千二百十リールを超えるのに、一件ずつなら確認を通らない。
残る夜間仕立てや運送費も、別々の小さな行へ分けられていた。
盗んだ人間の名前は、まだない。
けれど、責任を確認しない仕組みの形は見え始めた。
リディアは四冊の台帳を閉じなかった。
「ベルナール財務官を、横領したと決めることはできません」
ミレーユが息を吐く。
「では、何も悪くないのですか」
「いいえ。三年間、誰が押しても同じ効力を持つ印を預け、合計額を確認する人も決めなかった。その責任はあります」
リディアは新しい紙へ、最初の一行を書いた。
〈ミレーユ・コレット名義、未確認衣装費二千七百二十リール。本人および侍女は受領を否認。注文書・納品記録なし〉
ミレーユがその下へ、自分の名を署名した。
「私の衣装費を、全部調べてください」
昨日までなら、誰かに決めてもらう声だったかもしれない。
今日は違った。
「使った分は隠しません。使っていない分も、私のせいにはさせません」
リディアは依頼範囲を一行増やした。
これは、ドレス一着の値段を確かめるだけの仕事ではなくなった。
財務官が盗んだ証拠はない。
だが、財務官が責任を手放した印章は、三年間も王宮の引き出しに眠っていた。




