4話 一枚目の請求書
ロアン工房のエステルが差し出した二枚の請求書は、同じ顔をしていた。
耐熱硝子四箱。合計百リール。
運送日は婚約破棄の前日。荷受け先はフェルゼン公爵商務事務所。工房の印章も、運送組合の受付印もある。
違うのは伝票番号と、金額の末尾に書かれた加算記号の筆順だけだった。
「一枚目を受け取ったのは、いつですか」
リディアは二枚を重ねず、机の左右へ離して置いた。
「荷を出した朝です。こちらが控えです」
エステルが左の請求書を指す。
「二枚目は今日の昼、運送組合から届きました。未払いの保管料を明日までに納めなければ、うちの荷は今後扱わないと」
「保管料はいくらですか」
「一回につき十二リール。二回分で二十四リールです」
「実際に運んだのは一回だけ」
「間違いありません。四箱を一台の荷馬車へ載せました」
リディアは依頼書へ数字を書いた。
請求書本体は百リールが二枚。保管料は十二リールが二回。
二重処理がそのまま通れば、ロアン工房は納めていない二回目の運送費と保管料を負担し、公爵事務所側は存在しない硝子四箱分まで支払う可能性がある。
「工房にとっては十二リールの取消しだけでも、成功報酬の対象になりますか」
エステルが不安そうに尋ねた。
「はい。初期調査料四十リールとは別に、取り消された請求額の一割です。もし百十二リールすべてが二重請求なら十一・二リール。保管料十二リールだけなら一・二リールです」
「小数の硬貨はありませんが」
「最終的な支払い時に四捨五入する条件を書き足します。成功報酬は、回収額が十リール未満なら頂きません」
リディアは条件を依頼書の余白へ追記し、エステルにも読める向きへ回した。
「調査しても、二重請求ではない可能性があります。その場合、成功報酬はありません。ただし初期調査料は、調査結果を書面にしてお渡しすることへの報酬です」
「分かりました」
エステルが署名する。
困っている相手へ金額を告げることへのためらいは、まだ消えていない。
それでも曖昧に引き受ければ、どこまで調べるのか、何をもって解決とするのかが分からなくなる。
王太子府で八年働いたリディアは、その危うさを知っていた。
誰かの親切だけに依存する仕組みは、親切な人から先に倒していく。
「まず、どちらが一枚目かを確定させます」
「筆跡で分かるのですか」
クロードが尋ねた。
「筆跡だけでは証拠として弱いでしょう。請求書が作られる前後の記録をたどります」
リディアは必要なものを五つに分けた。
工房の注文控え。荷馬車の出発記録。運送組合の受付簿。西倉庫の入庫簿。商務事務所の荷受け記録。
事務所の帳簿に載っていた二十箱は、フェルゼン公国から運んだ別口の在庫だった。現物だけが四箱多かったのは、ロアン工房の試験納品分が入庫後も帳簿へ転記されていなかったためだと考えれば数が合う。
ただし、それを確定するには四箱がどの経路を通り、誰が受け取ったのかを一つずつ結ばなければならない。
「五つを時刻順に並べれば、二枚目が生まれた場所を絞れます」
「今日中に全部見るつもりですか」
クロードの問いに、リディアは時計を見た。
商務事務所の契約時間は終わっている。今はロアン工房との別契約だ。
「運送組合と倉庫が閉まるまで、あと一時間半です。今日確認するのは、日付が変わると書き足せる帳簿だけにします。工房の控えは明朝でも変わりません」
「では馬車を出します」
「閣下は、残った書類を三つの箱へ分ける作業があります」
「依頼人を一人で行かせるつもりはありません」
「護衛を一人お借りできれば十分です」
クロードの眉がわずかに寄った。
任せることが苦手な顔だった。
「これは、わたくしが受けた依頼です。閣下がご自分の仕事を放置して同行すれば、事務所の仕事がまた一人へ集まります」
「しかし、この街の運送組合はあなたより私を警戒する」
「それは、調査に有利なのでしょうか」
クロードは答えず、数秒考えた。
「護衛のダミアンを同行させます。私はここで書類を分ける。判断が必要なら、使いを一度だけ寄越してください」
「承知しました。一度で済むよう、判断事項をまとめます」
一人で行けと言われたわけでも、無理に同行されたわけでもない。
必要な部分だけを互いに任せる。
それは契約書の文章より小さく、けれど確かな変化だった。
◇
王都東区運送組合は、運河の荷揚げ場に面した石造りの建物だった。
閉門前の窓口には、雨に濡れた伝票を抱えた商人が列を作っている。
リディアは貴族用の応接室を求めなかった。
エステルと同じ列へ並び、順番を待った。
かつてなら、王太子の婚約者が一般窓口へ立つだけで職員が飛んできた。
今日は誰も彼女を見て道を空けない。
不便なはずなのに、胸の内は少し軽かった。
「次の方」
窓口の男性は、二枚の請求書を見るなり顔をしかめた。
「保管料の相談でしたら、支払期限の延長はできません」
「延長ではなく、請求根拠の確認です。運送番号七四一二と七四九一の受付時刻、荷馬車番号、御者名を見せてください」
「組合員以外には見せられません」
「ロアン工房の代表本人が申請しています」
エステルが組合証を出す。
「それでも他の荷主の情報が含まれます」
リディアは声を荒らげなかった。
「では、他の荷主名を隠してください。必要なのは二件が同じ荷を示すかどうかです。閲覧できない規程があるなら、規程番号と異議申立て先を書面でお願いします」
男性の目がリディアの服と護衛を行き来した。
「あなたは、どなたですか」
一昨日までなら、王太子エドガー殿下の婚約者と答えた。
その肩書きはもうない。
「ロアン工房から依頼を受けた会計調査人、リディア・アーヴェルです」
初めて口にした肩書きだった。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
男性は奥へ引っ込み、年配の女性を連れて戻った。
「記録係長のサビーヌです。帳簿の原本はお渡しできませんが、該当行の閲覧には立ち会います」
分厚い受付簿が窓口へ運ばれた。
七四一二は朝八時十分。荷馬車三十二号。御者はヨーゼフ。耐熱硝子四箱。
七四九一は午後二時四十分。荷馬車三十二号。御者はヨーゼフ。耐熱硝子四箱。
同じ日に同じ馬車、同じ御者が二度運んだ形になっている。
「あり得ないわ」
エステルが言った。
「ヨーゼフさんは朝、うちから西倉庫へ向かったあと、北区へ長机を運ぶ仕事があったはずです」
「その仕事の記録はありますか」
リディアが尋ねると、サビーヌは別の頁を開いた。
荷馬車三十二号は午前九時二十分に西倉庫へ到着し、十時五分に北区行きとして再受付されている。午後三時まで、北区の家具組合が貸切契約を結んでいた。
午後二時四十分に東区で硝子を積むことはできない。
「二件目は、馬車の記録と矛盾します」
リディアは七四九一の行を指した。
サビーヌの顔が険しくなる。
「転記の誤りかもしれません」
「誤りなら訂正できます。誰が、何を根拠にこの行を書いたのですか」
受付簿の担当印は、雨で半分にじんでいた。
ただし、インクの色がほかの行と違う。
七四九一だけ、青ではなく黒だった。
「この日の午後、受付担当が交代していますね」
リディアが言うと、サビーヌは勤務表を確認した。
午後の担当は新人書記のパウル。だが彼は黒いインクを支給されていない。
黒を使うのは、雨で傷んだ伝票を清書する記録補修係だけだった。
「雨損伝票の箱を見せてください」
サビーヌは一瞬ためらい、組合長へ確認するため席を外した。
待つ間、エステルが小声で言う。
「誰かが盗んだのでしょうか」
「まだ分かりません」
「偽の請求書まであるのに?」
「不正な書類と、金を盗む意思は別です。結論を急げば、本当に直すべき場所を間違えます」
やがて、紐で束ねた濡れた伝票が運ばれてきた。
その中に、運送番号七四一二の原票があった。
右上が雨で破れ、末尾の二という数字が欠けている。
隣には補修用の薄紙が挟まれていた。
〈番号不鮮明。七四九一として再登録〉
担当者は、朝の原票がすでに登録済みだと確認せず、新しい番号を与えていた。
二枚目は、存在しない運送を作るための偽造ではない。
一枚目を見失った組合が、同じ一件を二度登録した結果だった。
「原因は分かりました」
リディアは二冊の帳簿を並べた。
「雨損伝票を再登録する際、荷馬車番号と御者名で既存記録を照合する手順がありません。受付簿は一件増え、保管料の請求台帳も自動的に一件増えた」
サビーヌが唇を結ぶ。
「ですが、請求書へ工房の印章があります」
エステルが二枚目を裏返した。
印章は本物に見える。
リディアは一枚目の原票と二枚目を窓の光へ透かした。
印影の欠け方が、完全に同じだった。
同じ印章を二度押しても、紙の繊維や力のかかり方で、かすれは少しずつ変わる。
二枚目の印は押されたものではない。
濡れた原票へ薄紙を重ね、写し取ったものだった。
「記録を復元するために、印影まで写したのでしょう。しかし写しである表示がないため、原本と同じ請求力を持つ書類に見えます」
不正というより、善意で欠けた部分を埋めすぎたのだ。
存在しない記録を作る悪意がなくても、結果として工房へ二重の支払いを求めている。
「担当者一人を処分して終わらせないでください」
リディアはサビーヌへ言った。
「同じ手順なら、誰が補修しても同じことが起こります。雨損伝票には元番号、荷馬車番号、御者、積荷、時刻のうち三項目以上を照合する。再登録ではなく補修記録として元の行へ紐づける。写した印章には複製と明記する。それが必要です」
「今日中に規程を変えることはできません」
「今日中にできるのは、二件目の請求停止と、ほかの雨損伝票の支払い保留です」
サビーヌは受付簿を見下ろした。
「組合長へ上げます」
「その回答を、書面で頂けますか」
◇
閉門の鐘が鳴る直前、組合長名の確認書が出た。
運送番号七四九一を重複記録として無効化する。
二回目の保管料十二リールを取り消す。
二枚目の百リールの請求書を無効化し、ロアン工房の取引停止措置も撤回する。
過去三か月の雨損伝票を再点検する。
リディアは口約束だけで終わらせず、確認書へ受付印と時刻を入れてもらった。
「百十二リールの取消しです」
建物を出てから、リディアはエステルへ告げた。
「成功報酬は十一リール。端数の〇・二リールは四捨五入します。初期調査料と合わせて五十一リールです」
エステルは確認書を胸へ抱いた。
「高いとは思いません。でも、うちには今日すぐ払える現金が三十リールしかありません」
リディアは驚かなかった。
十二リールの誤請求だけで明日からの運送を止められかけた工房だ。百リールの売掛金もまだ入っていない。
「では三十リールを本日、残り二十一リールは、公爵事務所から正しい百リールが支払われた翌営業日までに。分割手数料は取りません」
「そんなに待っていただけるのですか」
「支払える日を決めることと、無償にすることは違います」
エステルは深く頭を下げた。
「次に帳簿で困ったら、またお願いしても?」
その言葉は、五十一リールより重かった。
一度だけ助けを求められたのではない。
次も仕事を任せたいと言われた。
「もちろんです。次回も、先に範囲と報酬を決めましょう」
商務事務所へ戻ると、三つの書類箱が机の上に並んでいた。
クロードは約束どおり、残っていた十七通をすべて分けていた。
「一度も使いは来ませんでしたね」
「判断を求める必要がありませんでした」
リディアは組合の確認書と調査報告を渡した。
クロードは一枚ずつ読み、最後に二枚の請求書を見比べた。
「一枚目だけが正しかった」
「正確には、一件の運送に一枚だけ請求権があります。二枚目にも元となった事実はありましたが、二度請求する根拠にはなりません」
「犯人はいなかった、と」
「悪意ある犯人は見つかりませんでした。ただし責任がないわけではありません。確認しない手順を放置した組合には、請求を止めて再点検する責任があります」
クロードは確認書を置いた。
「あなたは、人ではなく仕組みを疑うのですね」
「人も疑います。ですが、人を替えれば直るのかまで計算します」
そのとき、一階から書記官候補の青年が上がってきた。
「閣下。王宮衣装局から、至急確認してほしい支払一覧が届いております」
差し出された封筒には、ミレーユ・コレット子爵令嬢の名が書かれていた。
建国祭のために発注されたドレス、装身具、靴、刺繍、仕立て直し。
合計額は、王都職人の平均月収を何十人分も集めた数字だった。
クロードは封を切らず、リディアへ尋ねた。
「これは私が決める書類でしょうか」
「王宮の支払いなら、閣下の事務所の権限外です」
「では返送します」
リディアは封筒の端に付いた控え番号を見た。
同じ番号が、二つ並んでいた。
今日見たばかりの重複に似ている。
けれど、今度は雨に濡れた形跡がなかった。
「お待ちください」
右手が扇の親骨を二度なぞる。
「返送する前に、誰が、なぜフェルゼン公爵事務所へ送ったのかだけ確認しましょう」
一枚目の請求書は、偶然から二枚になった。
だが、すべての二枚目が偶然とは限らなかった。




