3話 元婚約者の値段
「三週間で、一千二百リールを頂戴します」
リディアが提示した金額に、応接室の時計だけが音を立てた。
アーヴェル伯爵邸へクロード・フェルゼンを迎えてから、まもなく一時間が過ぎようとしている。
テーブルの上には、彼が王都で開く商務事務所の資料が広がっていた。借り上げた建物の平面図、雇用予定者の名簿、公国から運ぶ商品、王都で仕入れる商品、二国間の関税、倉庫料、護衛費、馬車の修繕費。
最初に出された契約書案には、一時間二十リールとだけ書かれていた。
リディアは仕事内容を分解し、必要時間を積み上げた。
現状調査に十二時間。収支計画に十八時間。雇用と権限の整理に十時間。帳票の設計、試用、修正に二十時間。
合計六十時間。
一時間二十リールなら、一千二百リールになる。
王都職人の平均月収、およそ百二十リール。その十か月分だ。
口にしてから、リディアの右手が扇の親骨を二度なぞった。
自分の値段を自分で告げるのは、五十八万リールの支払一覧を王太子へ突きつけるより緊張した。
「高すぎるとお考えでしたら、業務範囲を狭めます」
「いいえ」
クロードは資料から顔を上げた。
「安すぎるのではないかと考えていました」
「一時間二十リールは、閣下が最初に提示なさった額です。今日の相談料二十リールは、この契約とは別に頂戴します」
「あなたが王太子府で担っていた仕事の量を知った今も、同じ額でよいのか疑問です」
「王太子府の立て直しを請け負うのではありません。今回は、商務事務所を動かすための初期設計です。仕事の責任が違います」
「肩書きではなく責任で値段を決める、と」
「成果物と責任範囲で決めます」
そう答えながら、リディアは胸の内で、昨日までの自分へ言い聞かせていた。
王太子の婚約者という肩書きがあったから、仕事を任されたのではない。支払いを止めず、数字の誤りを見つけ、困る人間の順番を考えてきたから任されていた。
肩書きを失っても、その八年間まで消えるわけではない。
理屈では分かっている。それでも一千二百という数字を口にした瞬間、エドガーに婚約破棄を告げられたときより、拒まれることが怖かった。
婚約は家同士が決めたものだった。だが、この金額は自分で決めた。否定されれば、仕事だけでなく、自分の価値まで否定されたように感じてしまう。
その考えが誤りだと、数字を扱う彼女自身が一番よく知っているはずなのに。
リディアは自分の計算書を、クロードの側へ向けた。
頭の中だけなら、六十時間という答えは資料を読み終えた時点で出ていた。【数学者】は、数量と規則がそろえば、複数の計算を一度に並べて比較できる。
だが、答えだけを示しても契約にはならない。
調査十二時間の内訳。帳簿確認六時間、現物確認四時間、関係者への聞き取り二時間。収支計画十八時間のうち、輸送費の季節変動に四時間、関税の変更条件に三時間。
相手が確かめられる形へ書き直して、初めて見積もりになる。
「この二時間は何ですか」
クロードが最後の行を指した。
「説明と引き渡しです。仕組みを作って置いていくだけでは、使う方が迷います」
「私が理解するための時間にも報酬を払うのか」
「わたくしが説明する労働への報酬です。閣下が理解なさらなければ、成果物を受領したことにはなりません」
クロードは一つずつ内訳を追った。
かつて家庭教師は、リディアが答えを早く出すほど不機嫌になった。途中を説明しても、外れスキルで人を見下していると言われた。
目の前の公爵は違った。
速さではなく、計算の根拠を読んでいる。
「六十時間を超えた場合は?」
「わたくしの見積もり違いなら追加請求しません。資料の欠落や、ご依頼内容の追加が原因なら、作業前に再見積もりを出します」
「よく分かりました」
その返事だけで、胸の奥に長く残っていた小さな棘が一本抜けた気がした。
クロードはしばらく黙り、契約書案の報酬欄へ自ら一千二百と書き込んだ。続いて、初回相談料二十リールを本日中に支払うと追記する。
「前金は半額。残りは成果物の受領後。追加業務は別契約。これでどうでしょう」
「秘密保持の対象を、帳簿だけでなく取引先名簿にも広げてください」
「承知しました」
「途中解除の場合、完了した工程分の報酬は支払うこと」
「当然です」
「当然のことほど、文字にしておくべきです」
クロードの琥珀色の目に、わずかな笑みが浮かんだ。
「あなたを雇うには、私も学ぶことが多い」
「雇用ではありません。業務委託です」
「もう一つ学びました」
リディアは笑いそうになり、扇で口元を隠した。
婚約者だったころ、金銭の話をすると眉をひそめる貴族は多かった。愛情、忠誠、名誉。美しい言葉を並べ、誰が何時間働くのかだけを曖昧にする。
クロードは金額を聞いても、彼女の品位を疑わなかった。
交渉相手として扱った。
そのことが、前金六百リールよりもうれしいと感じた自分に、リディアは少し戸惑った。
◇
契約を結んだ午後、二人は王都東区の商務事務所へ向かった。
建物は運河沿いにある三階建ての旧織物商館だった。一階が受付と商品見本室、二階が執務室、三階がクロードの滞在用住居。裏手には馬車二台分の荷下ろし場がある。
外壁は掃除されていたが、看板はまだ白紙だった。
「雇用予定者は六人と伺いました」
「書記官二人、通訳一人、倉庫番一人、使い走り一人、護衛一人です」
「責任者は?」
「私です」
「閣下が外交使節として王宮へ出ている間は」
「急ぎのものは宿舎へ届けさせます」
「夜会の最中でも?」
「必要ならば」
リディアは入口で足を止めた。
「それでは事務所ではなく、公爵閣下へ仕事を運ぶための建物です」
クロードも止まった。
「最初に、人員構成を改善項目へ入れると申し上げました」
「覚えています」
「覚えていて、責任者を置かなかったのですか」
「任せられる者を選ぶ前に、事務所を動かす必要があった」
「任せられるかどうかを確かめる仕事まで、ご自分で抱え込んでいます」
鍵を開けるクロードの手が、わずかに止まった。
「私の公国では、任せた者が数字を都合よく書き換え、領民の冬麦を不足させたことがある」
「それは、頼ったことが間違いだったのではありません。確認の仕組みがなかったことが問題です」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません。ですから、わたくしに一千二百リールを払うのでしょう」
クロードは鍵を開け、扉を押した。
「反論の余地がない」
「反論は歓迎します。責任の所在を曖昧にすることだけは歓迎しません」
一階には、まだ木箱が積まれていた。
フェルゼン公国産の精密工具、染料、耐熱硝子。王国からは蜂蜜酒、羊毛、薬草を仕入れる予定だという。
リディアは木箱の札を一枚ずつ見た。
耐熱硝子、二十四箱。帳簿には二十箱。
染料、九樽。帳簿には十二樽。
「納品途中ですか」
「すべて昨日届いたと報告を受けています」
「では、報告か帳簿か現物のどれかが違います」
リディアは持参した罫紙へ、帳簿数、現物数、差を三列で記した。
耐熱硝子、二十、二十四、プラス四。
染料、十二、九、マイナス三。
数字だけを見れば、余った硝子を売って不足した染料を買えばよいように思える。だが耐熱硝子を作った工房には代金が必要で、染料を待つ職人は明日の仕事を始められない。
母の言葉どおり、差の向こうには別々の夕食がある。
「硝子四箱の仕入れ値は?」
「一箱二十五リールです」
「染料一樽は三十二リール。差額だけなら四リールですが、同じ取引として相殺してはいけません。硝子の納入者と染料の納入者は別です」
「帳簿上の合計が近ければ、見落とすところでした」
「合計が合うことと、正しい人へ正しい金額を払うことは別です」
リディアは木箱へ直接印をつけず、取り外せる番号札を結んだ。現物を証拠として残しながら数えるためだ。
クロードも反対側から札を読み上げた。
一人で抱え込む癖は、言葉一つで消えない。それでも今は、確認を他人へ渡している。
クロードは眉を寄せ、木箱を数え直した。
「硝子は多く、染料は少ない」
「数量だけではありません」
リディアは木箱の側面にある運送札を指した。
硝子四箱だけ、荷受けの印が薄い。昨日の雨でにじんだのではない。印章の縁が欠けており、ほかの二十箱とは違う印が使われている。
「別の荷と入れ替わった可能性があります。紛失や盗難と決めつける前に、運送番号を照合しましょう」
二階の執務室へ上がる。
新しい机が七台並び、そのうち一番奥だけが書類で埋まっていた。
クロードの机だった。
未開封の手紙が三十二通。支払待ちの請求書が十四枚。雇用契約書の草案が六人分。王宮へ提出する通商許可申請は署名欄だけが空いている。
「これをすべて、お一人で?」
「昨日までは」
「食事は」
「取っています」
「今日は」
「朝に茶を」
「茶は食事に数えません」
リディアは机の右と左へ空の書類箱を置いた。
「右へ、今日中に決めなければ人の仕事が止まるもの。左へ、期日まで三日以上あるもの。そのほかは中央です」
「あなたが分けるのでは?」
「最初は閣下に分けていただきます。判断基準を確認します」
クロードは素直に手紙を取り上げた。
一通目は王宮の夜会への招待状。左。
二通目は倉庫番の雇用契約。右。
三通目は公国からの機密報告。中央。
四通目は運河使用料の請求。右。
五通目で手が止まった。
「これは、私が返事を書くべきものです」
「内容は」
「採用予定の書記官から、勤務時間と決裁権限を確認する手紙です」
「右です。そして返事には、閣下が不在の場合に何を決めてよいかを書いてください」
「まだ能力を見ていない」
「ならば金額の上限を設けます。たとえば十リール以下の定例支出は書記官が承認し、週ごとに一覧を閣下が確認する。十リールを超えるもの、初めての取引、契約条件の変更だけを閣下へ回す」
「書記官が十件に分ければ?」
「同じ取引先、同じ目的、同じ週の支出は合算する、と規程へ書きます。違反があれば権限を止める。疑うだけで仕事を抱えるより、記録を残して確認できる形にするのです」
クロードはしばらく考え、書記官の手紙を右の箱へ入れた。
「任せることと、放置することは違う」
「ええ。王太子府は、その違いを誰も決めていませんでした」
言ってから、リディアの胸に鈍い痛みが走った。
エドガーは会計を彼女へ任せたつもりだったのだろう。だが権限も報酬も明文化せず、問題が起きれば彼女が埋めるものとしていた。
八年間、自分もそれを受け入れた。
彼女の値段を最も安く扱ったのは、王宮だけではない。自分自身でもあった。
「どうしました」
「いいえ。契約書に一項、追加したいと思いまして」
「追加業務ですか」
「わたくし自身への規則です。契約範囲を超える依頼を受けたときは、その場で追加報酬を提示すること」
「依頼人としては恐ろしい規則だ」
「働く者としては必要な規則です」
クロードは笑い、右の箱へ次の請求書を入れた。
◇
二時間後、机の書類は三つに分かれていた。
人の給金、荷物の保管、許可の期限に関わるものを優先する。夜会や内装の希望は後回し。判断をクロードだけに集めず、金額と種類で書記官へ権限を渡す。
リディアは壁へ大きな紙を貼り、仕事の流れを線で結んだ。
依頼を受ける。記録する。担当を決める。実行する。別の者が確認する。支払う。受領証を保管する。
王太子府では、ほとんどの線がリディア一人へ集まっていた。
この事務所では、最初からそうしない。
「今日はここまでにしましょう」
リディアが言うと、クロードは未開封の手紙へ手を伸ばした。
「まだ十七通あります」
「契約上、本日の作業は六時間です」
「私が残るのは自由でしょう」
「明日の判断力を削ることを、自由とは申しません」
「あなたは依頼人の睡眠まで管理するのですか」
「収支設計を一人で抱え込まないという改善に、依頼人が倒れないことも含まれます」
クロードは不満そうに手を引いた。
そのとき、一階の扉を激しく叩く音がした。
護衛が開けると、作業着姿の女性が、濡れた請求書を握って立っていた。三十代半ばほど。袖には細かな硝子の粉がついている。
「フェルゼン公爵閣下はいらっしゃいますか。耐熱硝子を注文されたロアン工房のエステルです」
クロードが階段を下りる。
「代金の件ですか」
「代金もですが、その前に数が合いません」
エステルは二枚の請求書をテーブルへ置いた。
どちらにも耐熱硝子四箱と書かれている。日付も金額も同じ。違うのは伝票番号だけだった。
「うちは四箱しか納めていません。それなのに運送組合から、二回分の保管料を請求されました。払わなければ、明日から荷を受けないと言われています」
リディアは二枚を並べた。
紙質、筆跡、印章。見た目はよく似ている。
だが金額の末尾にある加算記号だけ、片方は書く順序が逆だった。
誰かが一枚目を見ながら、もう一枚を作った。
一階で数えた、帳簿より多い硝子四箱。
そして帳簿より少ない染料三樽。
単なる書き間違いではなく、荷札と請求書の二重処理が起きている可能性がある。
クロードがリディアを見た。
「本日の六時間は終わりました」
「ええ」
リディアは新しい紙を一枚取り出した。
「ですから、これは追加業務です。ロアン工房から正式に依頼を受けます」
エステルが戸惑う。
「おいくらでしょう」
以前のリディアなら、困っている人を前に金額を言うことをためらっただろう。
今は違う。
働いた対価を受け取ることは、相手を見捨てることではない。次の困りごとにも責任を持つために必要な約束だ。
「初期調査に四十リール。二重請求が確認でき、返金または請求の取消しまで成立した場合は、成功報酬として回収額の一割を頂戴します」
エステルは請求書を見て、深くうなずいた。
「お願いします」
リディアは依頼書へ自分の名を書いた。
婚約を失った翌日。
元婚約者ではない自分の値段で、最初の仕事が始まった。




