2話 王宮の朝食が出ない朝
「パン屋が、王宮の門前で荷車を引き返しました」
婚約破棄から一夜明けた午前六時。
アルヴェリア王宮の小食堂には、磨かれた銀食器と空の皿だけが並んでいた。
王太子エドガーは、報告に来た侍従長を見返した。
「引き返した?」
「はい。先月分の納入代金が支払われるまで、パンも牛乳も卵も納められないと」
「そのような約束違反が許されるか。契約があるだろう」
「先に契約を違えたのは王太子府だと申しております」
侍従長の声は平らだった。
長年宮廷へ仕える者は、主君へ不都合な事実を伝えるときほど表情を消す。
昨夜までなら、ここで温かい白パン、半熟卵、果物、香草入りの腸詰めが運ばれてきた。エドガーはそれを朝食としか思っていなかった。
小麦を買う者がいる。夜明け前に窯へ火を入れる者がいる。荷馬車を走らせる者がいる。そして全員が、期日に代金を受け取る前提で働いている。
空の皿は、その当たり前が誰かの仕事で成り立っていたことを、妙に雄弁に示していた。
「財務官を呼べ」
「すでに控えております」
扉の外から入ってきたベルナール・ドリエ財務官は、昨夜と同じ礼服を着ていた。襟は曲がり、目の下には濃い影がある。
「殿下。誠に申し上げにくいのですが、食材商への支払い承認が完了しておりません」
「承認すればよい」
「そのための帳票を作成する必要がございます」
「なら作れ」
「元帳の照合が終わっておらず、支払順位を確定できません」
「照合しろ」
「耐火書庫の鍵が封印されたままでして」
「昨夜、リディアが返しただろう」
「返却された鍵は、財務局、王室監査院、王太子殿下の三者立ち会いで再登録しなければ使用できません。アーヴェル伯爵令嬢が毎月、日程を調整していた手続きでございます」
同じ場所を回り続ける会話に、エドガーは額を押さえた。
「では、今朝だけ宮内費から現金で払え」
「宮内費の小口現金庫も、昨夜返却された鍵の管轄です」
「三本目か」
「一番目、会計室。二番目、耐火書庫。三番目は未処理請求箱でございます。小口金庫は会計室の中に」
「では一本目だ」
「はい」
ベルナールは、叱責を待つ犬のように首をすくめた。
エドガーは怒鳴りかけて、やめた。
昨夜、リディアはすべて説明した。三本の鍵を銀盆へ置き、支払予定五十八万リールに対して、国庫から動かせる金は十二万リールしかないと告げた。
彼はその数字を、大げさな別れの演出だと思った。
だが今、パンがない。
数字が、初めて空腹という形を取って目の前に現れていた。
「今日支払われる予定だった者を挙げろ」
「食材商、厨房使用人、厩務員、洗濯女、王都警備隊の一部、冬季国境警備に向かう騎士団への装備前金、それから建国祭の楽団と花商です」
「朝食だけの問題ではないではないか」
「昨夜、リディア様が申し上げたとおりでございます」
ベルナールの言葉には責める響きがなかった。それがかえって重かった。
扉が小さく開く。
淡い栗色の髪を結い直したミレーユが、遠慮がちに顔を見せた。建国祭の豪奢なドレスではなく、薄青い朝のワンピースを着ている。
「殿下、お話し中でしたら、わたしは」
「入っておいで。朝食はないそうだ」
冗談めかして言ったつもりだった。
しかしミレーユは笑わず、空の皿を見た。
「厨房のマルタが泣いていました」
「料理長か?」
「いえ、皿洗いの女の子です。今日が給金日で、弟の薬を買うつもりだったそうです」
ベルナールが帳面をめくる。
「厨房補助マルタ。月給十八リール。確かに本日支払予定です」
「十八リールなら、私が払う」
エドガーは上着の内側を探ったが、財布は従者が管理している。昨夜の祝宴で金貨を直接扱うことなどなかった。
ミレーユが小さな布袋を卓上へ置いた。
「わたしの手持ちは七リールと銅貨です」
「君が出す必要はない」
「でも、薬は今日必要です」
その一言で、部屋の誰も何も言えなくなった。
◇
同じころ、アーヴェル伯爵邸では、リディアが温かい黒パンを一口ずつ食べていた。
王宮の白パンより固く、麦の皮が舌へ残る。幼いころ領地で食べていた味だった。
「眠れたか」
向かいに座る父オーウェンが尋ねる。
「三時間ほど」
「十分とは言えんな」
「八年間で最も長く眠れた建国祭の夜です」
父は笑いかけ、やめた。
リディアも笑えなかった。
自由になった実感はまだない。目を閉じるたび、会計室の机が浮かぶ。青い紐の束は支払い済み、赤い紐は要確認。未処理箱の右奥には、厨房使用人の給金簿があった。
今朝、支払い印を押す者はいない。
パン屋三百六十、酪農家二百十、養鶏場百四十、青果商二百八十。厨房と運搬の給金を合わせれば、今日止まる金は一千九百三十四リール。
数字は頼まなくても頭の中で整列した。だが、その先に浮かぶのは合計額ではない。薬を待つ者、窯の薪代を払う者、家族へ食事を持ち帰る者の顔だった。
そう考えた瞬間、右手がテーブルの端を探していた。扇は寝室へ置いてきた。それでも指が、存在しない親骨を二度なぞる。
「戻りたいか」
父は見逃さなかった。
「いいえ」
返事はすぐに出た。
「ただ、仕事が止まれば困る方々がいます。わたくしを軽んじた方だけが空腹になるわけではありません」
「それがお前の弱いところであり、強いところだ」
「褒め言葉でしょうか」
「父親としてはな。経営者としては、無償で働きに戻るなら叱る」
母エレノアが亡くなってから、父は領地の帳簿を自分で見るようになった。数字は得意ではない。それでも、賃金の支払い日だけは一度も遅らせなかった。
「お母様なら、どうなさるでしょう」
「困っている者の夕食を守る。そして、その仕事の請求書を忘れない」
リディアは黒パンを置いた。
そのとき、玄関の呼び鈴が激しく鳴った。
王宮の紋章をつけた若い従僕が、息を切らして手紙を届けに来た。封蝋は王太子の青。文字はベルナールのものだった。
至急、会計室へ戻り、支払い手続きを再開してほしい。
報酬も期間も権限も書かれていない。
八年間、何度も受け取った依頼と同じだった。
リディアは便箋を裏返し、余白へ五行だけ記した。
一、返却済みの鍵は正規手続きにより再登録すること。
二、食材商および使用人への未払額を確定すること。
三、王太子個人の支出と国家支出を混同しないこと。
四、緊急支払いに私財を用いる場合も、受領証を作成すること。
五、業務依頼には期間、権限、報酬、責任者を明記すること。
最後に署名し、従僕へ返す。
「これだけ、ですか」
若者が不安そうに尋ねた。
「ええ。わたくしは昨夜、職を離れました」
「ですが、厨房の者たちが」
胸の奥が痛んだ。
母の言葉が聞こえる。数字の向こうには、誰かの夕食がある。
だからこそ、戻ってすべてを無償で片づけてはいけない。
リディア一人が倒れれば、次はもっと多くの夕食が失われる。誰が担当しても支払いが動く仕組みを作らなければ、同じ朝が何度でも来る。
「その五項目を行えば、少なくとも今日の支払いは始められます。ベルナール財務官には手順が分かるはずです」
「分からないと仰せになったら」
「帳簿の青い紐と赤い紐の意味を尋ねてください。答えられないなら、財務官を名乗るべきではありません」
扉が閉まったあと、リディアは冷めた茶を飲んだ。
手は震えていなかった。
戻らないと決めることは、見捨てることではない。
相手が自分の足で立つ余地を残すことでもある。
◇
手紙は午前八時二十分に王宮へ戻った。
ベルナールは裏面の五項目を三度読み、椅子へ座り込んだ。
「青い紐は、納品確認済みです。赤い紐は、金額または契約条件の再確認が必要なもの」
「知っているではないか」
エドガーが言う。
「存じてはおります。しかし、実際の照合はいつもリディア様が」
「今日はあなたがする。私も見る」
「殿下が?」
「私の名で使われる金だ。知らなかったでは済まないらしい」
エドガーは王室監査院と財務局へ使いを走らせ、鍵の再登録に必要な立会人を集めた。三者が揃うまで一時間。会計室が開いたとき、机の上には書類が整然と積まれていた。
リディアが昨夜、混乱を見越して並べたのだろう。
一番上は、食材商への未払一覧。
パン屋三百六十リール。酪農家二百十リール。養鶏場百四十リール。青果商二百八十リール。厨房使用人と運搬人の給金、計九百四十四リール。
「朝食に、これほどかかるのか」
「一日分ではございません。先月一か月分です」
ベルナールが答える。
「宮廷には常時八百人近くが働いております。食べるのは王族だけではありません」
エドガーは書類の最後にある受領印の欄を見た。
空白だった。
商品は届き、料理は食べられ、働いた者だけが代金を受け取っていない。
「すぐ払える金はいくらある」
「小口金庫に三千二百リール。ただし、これは本来、医薬品と緊急修繕のための」
「使うな」
エドガーは即座に言った。
「医薬品を買う金で、薬を買えない者の給金を払うのは順序が逆だ。すでに私個人へ支給された、今月の遊興費は」
「殿下の私用金庫に四千リールを支給済みです。うち、二千七百リールが未使用です」
「そこから出す。食材商と厨房使用人へ全額払え」
「しかし、王太子殿下の体面が」
「空の皿を並べたまま、体面だけ食べるわけにはいかない」
ミレーユが息をのみ、次に、ほんの少し笑った。
エドガーはその笑みを見て、自分がようやく一つだけ正しいことを言えた気がした。
だが署名しようとして、手が止まる。
「私用金庫の金から公的な未払いを立て替える。これは許されるのか」
ベルナールは答えられなかった。
リディアの手紙の四項目目には、受領証を作れとある。
「立替金として記録し、返済期限を定めるべきかと」
遠慮がちな声を出したのはミレーユだった。
二人の視線が集まると、彼女は頬を赤らめる。
「わたしの父が領地の橋を直したとき、先に私財を出して、あとで領民会から返してもらいました。そのとき、紙を二枚作っていました」
「借用証と受領証です」
ベルナールがようやく財務官らしい顔をした。
「金庫から公金を出すのではなく、殿下個人から王太子府へ短期貸付を行う。各商人と使用人の受領証を添えれば記録できます」
「貸付額は二千七百リール。今回の支払い一千九百三十四リールを差し引いた残額七百六十六リールは、短期貸付金の残額として別勘定で保管します」
「その形で処理しろ」
「はい。今度は、私が」
ベルナールは机へ向かった。
正午前、パン屋の荷車が再び王宮の門をくぐった。
焼きたてではない。朝に焼いたパンは少し冷え、表面も固くなっていた。それでも厨房の者たちは、一つずつ数えて受領証へ署名した。
皿洗いのマルタは十八リールを受け取ると、そのうち三リールを握って薬屋へ走った。
エドガーは小食堂の窓から、その背中を見送った。
朝食は午後一時になった。
白パンと薄いスープだけだったが、空の皿よりはましだった。
「リディア様を連れ戻しますか」
ミレーユが尋ねた。
「戻ってほしい」
エドガーは正直に答えた。
「だが、昨夜までと同じ戻し方をすれば、また何も見えなくなる」
彼はリディアの手紙を折らずに机へ置いた。
「期間、権限、報酬、責任者。次に頼むなら、すべて書く」
それが婚約破棄を後悔した言葉なのか、失った実務家を惜しんだだけなのか、エドガー自身にもまだ分からなかった。
ただ、見えなかったものが一つ見えた。
王宮の朝食は、命令すれば出てくるものではない。
◇
王宮で支払い手続きが始まったころ――午前九時。
アーヴェル伯爵邸の応接室では、クロード・フェルゼンが一枚の書類をテーブルへ置いていた。
昨夜の名刺と同じ、飾りのない紙。上部には『業務委託契約書案』と記されている。
「先ほど、王宮から使者が来たと伺いました」
「ええ。戻るよう依頼されました」
「戻りますか」
「いいえ」
「安心しました、と言えば無礼でしょうか」
「公爵閣下にとっては、仕事相手を得る機会ですもの。正直で結構です」
クロードは琥珀色の目を細めた。
「では、昨日の続きを。一時間二十リール。最初の依頼は、私の商務事務所を王都に開設するための収支設計です」
リディアは契約書へ手を伸ばした。
報酬額。業務時間。成果物。秘密保持。解除条件。
必要な項目は揃っている。
ただし、一か所だけ空欄があった。
「契約期間が書かれておりません」
「あなたに決めていただこうと思いました」
「依頼主が仕事量を見積もっていない、という意味にも読めます」
「事務所の人員構成も書かれておりません」
「当面は私一人で処理する予定だ」
「公爵閣下は、他人へ仕事を任せることがお嫌いですか」
クロードの表情が止まった。
「……嫌いなのではない。頼み方が分からないだけだ」
「でしたら、それも最初の改善項目に加えましょう」
リディアは久しぶりに、仕事の始まりを感じていた。
誰かの婚約者として差し出された机ではない。
自分の時間に、自分で値段をつけるための机だった。
「まずは、閣下のお考えになる業務範囲をすべて伺います。そのあとで期間と総額を見積もりましょう」
「一時間二十リールでは不足ですか」
「それを決めるための一時間にも、二十リールを頂戴します」
一拍置いて、クロードが笑った。
「承知しました。最初の請求書を楽しみにしています」
リディアは扇の親骨へ指を伸ばしかけ、途中で止めた。
今度の鼓動は、不安だけではなかった。




