1話 婚約破棄と、三本の鍵
「リディア・アーヴェル。今夜をもって、君との婚約を破棄する。私はミレーユ・コレットとの真実の愛を選ぶ」
建国祭の舞踏会で、王太子エドガーはよく通る声でそう告げた。
四重奏団の演奏が途切れ、弦を離れた弓が小さく震える。
王宮の大広間には、蜜で磨かれた林檎と焼きたての肉料理の香りが満ちていた。千本の蜜蝋燭が金色の光を落とし、磨かれた床へ貴族たちの姿を映している。
今夜のために用意された料理、楽団、花、警備、招待状。そのすべての請求書を確認したのはリディアだった。
広間の壁際には、隣国フェルゼン公国の使節も並んでいる。その先頭に立つ濃紺の髪の男だけが、王太子ではなくリディアの手元を見ていた。
だから婚約破棄を告げられた瞬間にも、彼女の頭には楽団への残金が浮かんだ。
支払期限は三日後。金額は二千四百リール。
王太子の婚約者として、あまりに情緒に欠けた考えだろうか。
そう自問して、リディアは扇の親骨を右手の指で二度なぞった。
母から譲られた癖だった。
王太子の腕には、淡い桃色のドレスを着たミレーユ・コレット子爵令嬢が寄り添っている。胸元には真珠が縫い込まれ、彼女がわずかに震えるたび、蝋燭の光が水面のように揺れた。
ミレーユは勝ち誇っていなかった。
むしろ、広間にいる百人あまりの貴族から向けられる視線に怯え、今にも泣きそうな顔をしている。
リディアは手にしていた扇を閉じた。
「婚約破棄は承りました。では、王太子府の赤字も、今後は殿下がお引き受けくださいませ」
広間がざわめく。
エドガーも驚いたらしい。用意していた言葉を忘れたように、形のよい唇を半分開けていた。
「……赤字?」
「引き継ぎに必要な話でございます」
エドガーは眉をひそめた。
「君は何を見ても数字の話ばかりだ。私が求めていたのは、心を分かち合える伴侶だった。その点、ミレーユは私を理解してくれる」
王太子の腕に縋るミレーユの指が、わずかに強張った。
「……それだけか」
「殿下のお気持ちがすでに決まっているのでしたら、議論に費やす時間は双方にとって損失です」
「私を責めないのか」
「責めればご決断が変わりますか」
「変わらない」
「でしたら、必要な引き継ぎを進めましょう」
リディアは、自分の声が不思議なほど平らであることに気づいた。
悲しくないわけではない。
八年間、いつかエドガーと同じ方向を見て国を支えられると信じていた。彼が好む料理を覚え、苦手な人物との面会を調整し、演説の裏付けになる数字を集めた。
誕生日に贈られた青い石の首飾りは、今も胸元にある。
けれど、その悲しみは薄い布を幾重にも重ねた向こう側にあった。
今は先に片づけるべき仕事がある。
感情は、今夜自室へ戻ってから一人で確かめればよい。
リディアがドレスの腰に下げていた小さな革袋を外すと、周囲のざわめきが少し弱まった。
袋の中から三本の鍵を取り出し、近くの給仕が持つ銀盆へ順番に置く。
一本目は、王宮東棟にある会計室の鍵。
真鍮製で、持ち手に天秤の印が刻まれている。夜会のあと、皆が眠った時間にも何度この鍵を回したか分からない。
二本目は、国庫証券を保管する耐火書庫の鍵。
鉄と魔封銀を重ねた重い鍵で、財務官と王太子妃予定者だけが持つことを許されていた。
三本目は、王太子府の未処理請求書を入れた箱の鍵。
最も小さく、最も厄介な鍵だった。
「こちらを返却いたします」
エドガーは銀盆を見下ろした。
「待て。なぜ君が今、そのような物を持っている」
リディアは答えに迷った。
婚約してから八年間、彼はリディアが夜会の席順と衣装選びだけを学んでいると思っていたのだろうか。
王太子妃予定者として会計を監督する権限と鍵の所持だけは認められていた。だが、実際の会計業務を担う役職も、その仕事に対する給金も与えられていない。
「王太子府の支払いを管理するためです」
「支払いはベルナール財務官の仕事だ」
その財務官が三年前から、一冊の帳簿も期日どおり完成させていない。
最初は、婚約者として少し手伝うだけのつもりだった。
未分類の請求書を分け、日付順に並べ、間違った合計を直した。翌月には予算表を作り、その次の月には取引先と支払日の交渉をしていた。
気づけば王太子府の金は、リディアが動かなければ一日も流れなくなっていた。
会計実務の担当者として、正式に任命されたわけでもない。
給金を受け取ったこともない。
「おっしゃるとおりです。以後はベルナール財務官へお尋ねください」
列席者の中で、灰色の礼服を着た男が肩を震わせた。
ベルナール・ドリエ財務官本人である。
目が合うと、彼は慌ててシャンパンの杯で顔を隠した。
「リディア」
エドガーが声を落とす。
「これは私と君の問題だ。ミレーユを責める者がいるなら、私が許さない。決断したのは私だ」
その点だけは、リディアも否定しなかった。
エドガーには、自分が選んだ相手を公衆の前で守ろうとする強さがある。八年前、リディアが彼を信じようと決めたのも、似た場面を見たからだった。
「承知しております。ミレーユ様を非難する意図はございません」
ミレーユがわずかに顔を上げる。
その青ざめた顔を見て、リディアは彼女もまた、今夜何が起こるのかすべて理解していたわけではないと悟った。
「それから、こちらを」
リディアは銀盆の端へ、折り畳んだ紙を一枚置いた。
「今月末までに支払いが必要なものの一覧です」
エドガーは紙を開いた。視線が一番下の数字に止まる。
「五十八万リール? 何だ、この金額は」
「建国祭、離宮改装、近衛騎士団の冬季装備、外国使節団の滞在費です」
「国庫から払えばいい」
「国庫の今月の支出可能額は、十二万リールです」
広間が静かになった。
今度の沈黙は、婚約破棄を告げられたときより深い。
「ベルナール」
エドガーが財務官を振り返る。
「この十二万リールという数字は正しいのか。差額は、いつまでにどう用意する」
ベルナールは杯を持ったまま口を開き、閉じた。額に汗が浮かぶ。
「その、詳細は会計室の者に確認しませんと……」
「会計室を動かしていたのは誰だ」
誰も答えなかった。答えは、三本の鍵を返した女の前に並んでいる。
王都で働く職人の平均月収は、およそ百二十リール。
五十八万リールあれば、四百人の職人とその家族を一年支えられる。対して、今すぐ動かせる十二万リールでは三か月にも満たない。
数字だけを見れば桁の違いだ。
だがリディアには、その差額四十六万リールが、冬を越せない兵士の外套や、代金を受け取れないパン職人の小麦袋として見えていた。
リディアは生まれた日、神殿で世界最高峰の数理能力【数学者】を授かった。
数を記憶し、計算し、記録の規則や異常を見つける力。けれど剣も振れず、傷も癒やせず、作物も実らせない。親類や家庭教師は外れスキルと呼び、数字ばかり見る不気味な娘だと笑った。
自分だけには美しく見える数字を、リディアも次第に隠した。
それが変わったのは十一歳の洪水だった。彼女が備蓄、避難民、堤防の修復日数を一晩で計算すると、母エレノアは館の修繕を後回しにし、使用人と堤防職人の賃金を先に払った。
『帳簿の数字の向こうには、誰かの夕食があるのよ』
母はそう言い、幼いリディアへ支払簿を見せた。
初めて母に認められたあの日から、リディアにとって数字は冷たい記号ではない。
人が約束を守った証だった。
「これまではどうしていた」
エドガーの問いで、意識が広間へ戻る。
「支払日を交渉し、不要な発注を止め、王家所有地の収益を前倒ししていました。それでも足りない分は、アーヴェル伯爵家が短期で立て替えております」
「君の実家が?」
「はい」
列席していた父、オーウェン・アーヴェル伯爵が静かに進み出た。
五十五歳。白いものが混じり始めた髪を丁寧に撫でつけ、今夜も穏やかな表情を崩していない。
「殿下。立替金は、娘と王家が家族になる予定であることを信用の根拠としておりました」
「伯爵、まさか今すぐ返せと言うのか」
「いいえ。契約どおり、支払期限まではお待ちします。ただし、新たな立て替えには応じられません」
父はリディアを一度見た。
戻ってきてよい、と声にせず告げる目だった。
胸の奥に張りつめていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ。
エドガーは支払一覧へ目を戻す。
「建国祭の費用を止めればいい」
「すでに納品された料理、演奏中の楽団、今夜働いている給仕や警備の賃金です。今から祝祭を止めても、支払い義務は消えません」
「離宮改装は延期する」
「一部は着工済みです。中止には違約金が発生します。ただし、未発注部分を止めれば七万リールは削減できます」
「騎士団の装備は」
「国境の降雪まで二か月です。延期すれば支出ではなく、兵士の負傷が増えます」
一つ尋ねられるたび、リディアは数字を返した。
エドガーの顔から、婚約破棄を宣言したときの勢いが消えていく。
代わりに浮かんだのは、初めて自分の名で積み上がった支払いを見る人間の困惑だった。
「脅しているのか」
「いいえ。引き継ぎです」
リディアは銀盆の三本の鍵を示す。
「明日の朝、会計室に未処理一覧の写しが届きます。取引先の連絡先、優先順位、延期可能な契約には印を付けました。わたくしが担当した範囲については、必要な情報をすべて残しております」
「君がいなくても、処理できると?」
「できるように記録を残すことまでが、仕事だと考えております」
ベルナール財務官がますます小さくなった。
視界の端で、ミレーユがエドガーの袖を引く。
「殿下。あの……わたくしのドレス代も、その一覧に?」
声はかすかだったが、静まり返った広間にはよく響いた。
リディアは答えを知っている。
桃色のドレスは八百リール。真珠と仕立て代を含めると千二百リール。発注者は王太子府で、支払いはまだ済んでいない。
しかし、もう答える立場ではない。
「明日以降は、財務官へお問い合わせください」
ミレーユは何かを言いかけ、やめた。
リディアは深く一礼する。
「殿下とミレーユ様の末永いお幸せを、お祈り申し上げます」
背を向ける。
扇を握る右手が、一度だけ震えた。
八年間が三本の鍵ほど軽かったとは思いたくない。振り返れば、今だけは仕事で覆い隠した痛みが顔に出てしまいそうだった。
広間の入口までが、ひどく遠く感じられた。
一歩ごとに視線が追ってくる。憐れみ、好奇心、計算。明日の朝には「捨てられた伯爵令嬢」の噂が王都中を巡るだろう。
扉の手前で、一人の男が進路を譲らず立っていた。
隣国フェルゼン公国の公爵、クロード・フェルゼン。
三十歳。濃紺の髪と琥珀色の瞳。祝いの席だというのに、銀糸一本ない濃灰色の礼服を着ている。華美を嫌い、必要なものへだけ金を使う人物だと聞いていた。
舞踏会でもほとんど笑わないことで有名な男が、今夜は口元へごく薄い笑みを浮かべている。
「アーヴェル嬢」
クロードは一礼した。
「明日の午前九時、あなたの一時間を買いたい」
リディアは思わず彼を見つめた。
「婚約者を失った翌日の予定を尋ねる方は、閣下が初めてです」
「求婚ではない。仕事の依頼だ」
「なおさら初めてです」
クロードは内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
厚い生成りの紙に、フェルゼン公国の紋章と、王都に設立予定の商務事務所の住所が印刷されている。
「我が公国の商人が、アルヴェリア王国の支払い慣行に困っている。契約書はある。品物も納めた。だが、金が期日に届かない」
「耳の痛いお話です」
「あなたが財務報告書の余白へ書いた改善案を読んだ」
リディアの指が止まる。
外国使節へ提出された報告書。公式本文はベルナール財務官の名で作られたが、数字の誤りを直し、支払い制度の改善案を余白へ書いたのはリディアだった。
「あれを読んだ方がいたのですね」
「読んだ。だから依頼する」
クロードの声には、慰めも同情もなかった。
ただ、仕事を必要とする者の真剣さがある。
「報酬は一時間につき二十リール。継続契約となる場合は、事務所の収益に応じた追加報酬を支払う。業務範囲は契約書へ明記する。無償の『少しだけ手伝ってほしい』は頼まない」
二十リール。
王都職人の平均月収の、六分の一にあたる。
王太子府で八年間働き、一度も受け取らなかったものが、具体的な数字となって差し出された。
「高すぎませんか」
「あなたは先ほど、五十八万リールの支払いを頭の中だけで分類していた。安いくらいだ」
褒め言葉に慣れていないわけではない。
礼儀作法、刺繍、ダンス、王太子妃としての振る舞い。評価されたことはいくらでもある。
だが、自分が最も時間を費やし、誰にも見えないと思っていた仕事へ値段を付けられたのは初めてだった。
リディアは名刺を受け取る。
紙の重さは、返却した三本の鍵よりずっと軽い。
それなのに、手の中には新しい扉を開く鍵のように感じられた。
「一時間だけでしたら」
「十分だ。続きはその一時間で交渉しよう」
クロードが道を開ける。
父オーウェンが何も言わず、リディアの隣に並んだ。
二人で大広間を出ると、扉の向こうから途切れていた四重奏が再開した。
選ばれた曲は祝祭のための明るい舞曲だった。
けれどリディアには、八年間続いた役目を終えるための曲ではなく、これから始める仕事の合図に聞こえた。




