第9話 痴――選んだ嘘
「私が、撤回した」
灯里は〈六道香師〉の公開アカウントへ、その一文だけを送った。
言い訳も、質問もつけなかった。
三十秒後、非通知で電話が鳴る。
『知っている』
悠人の声は、いつもと同じ温度だった。
「再鑑定進言を書いた。香灰が移された可能性に気づいていた。それでも私は、撤回書へ署名した」
『知っている』
「妹を守るためだった」
『それも知っている』
「でも、あなたを犠牲にした事実は変わらない」
通話の向こうで、呼吸が一度だけ深くなった。
『あなたは騙されたんじゃない』
怒鳴らない声が、灯里の逃げ道を消した。
『俺を捨てると選んだ』
「はい」
灯里は目を閉じなかった。
「私が選びました」
長い沈黙。
罵倒されると思った。
赦さないと言われると思った。
悠人は、どちらも口にしなかった。
『八年前、俺が何を言っても、あなたは理由へ変えた。否認すれば反省がない。黙れば計画的。泣かなければ冷酷。今の言葉も、自分を楽にする告白へ変えるつもりか』
「変えません」
『証明できるのか』
「できません。だから、あなたに信じてほしいとも言いません」
灯里は撤回書を机へ置いた。
「ただ、私は自分が選んだことを、もう誰かの命令にはしない」
悠人はしばらく黙った。
『その紙の裏を見ろ』
「何?」
『灯が残した携帯電話を返す。今夜、二十二時。旧北汐貨物駅』
「あなたも来るの」
『来なければ、受け取れない』
「会えば逮捕します」
『それでいい』
通話が切れる。
灯里はすぐに東へ連絡した。
疑うことは、一人で罠へ入ることではない。
*
旧北汐貨物駅は、湾岸再開発から取り残されたまま閉鎖されていた。
錆びた屋根。割れた時計。草に埋もれた二本の線路。
午後十時ちょうど、ホーム反対側の照明が一本だけ点いた。
灰色の作務衣。
火傷の残る右手。
八年ぶりに、涌井悠人が同じ空気の中へ立った。
取調映像より痩せ、髪は短く、頬の骨が鋭い。それでも目だけは変わらない。
何を言っても、相手が先に結論を出すと知っている人間の目だった。
灯里は拳銃を抜いた。
「涌井悠人。誘拐、監禁、脅迫の容疑で――」
「その前に」
悠人が透明な証拠袋を掲げる。
古い携帯電話。
白い端末の裏へ、灯が描いた小さな兎がある。
「妹の物です」
「分かってる」
「どこで見つけた」
「再審無罪のあと、寂惠さまの遺品を引き取った。香箪笥の二重底にあった」
「なぜ警察へ出さなかった」
「警察が真実を守ると、誰が証明した」
「あなたが持ち続けていい理由にはならない」
「その通りだ」
悠人は否定しなかった。
「俺は自分の無実を証明するために、灯の言葉を使おうとした。だが暗号を解けなかった。澄香に一部を復元してもらった」
灯里の指が引き金の外で止まる。
「柊さんと、いつから」
「再審無罪のあとだ。寂惠さまの遺品を調べるには、修復の専門家が必要だった」
「彼女は、六道香を聞いたことがあるだけだと言った」
「彼女が何を知っているかは、本人へ聞け」
回答を避けたのではない。
悠人は、それ以上を今ここで灯里へ与えないと選んだ。
「端末を足元へ置いて。両手を見える位置に」
悠人は従い、袋をレール間の小型保守台車へ載せた。
古いモーターが動き、台車が灯里側へゆっくり進む。
東と捜査員は、駅の両側で待機している。
合図一つで挟める。
灯里は証拠袋を拾った。
「確保」
無線へ告げた瞬間、貨物線の警報が鳴った。
廃線のはずのレールへ、保守用車両が滑り込んでくる。
白い作業灯が視界を焼く。
「動くな!」
東の声。
車両が二つのホームの間を塞いだ。
数秒後、通り過ぎる。
反対側に、悠人はいなかった。
残っているのは、火のついていない香木片だけ。
「最初から逃走経路を」
東が駆け寄る。
「逮捕されていいと言った人間の準備じゃないな」
灯里は香木片を見た。
「『それでいい』とは言いました。『逃げない』とは言っていない」
「感心してる場合か」
「していません」
証拠袋の携帯が震えた。
電源は落ちているはずだった。
画面へ、短い文字が浮かぶ。
〈まず、死んだ時刻を疑え〉
*
携帯電話は、外部記憶領域の一部だけが復元されていた。
写真十七枚。
未送信の音声三件。
位置情報は欠損。
最後に起動したのは、寂惠が殺された夜、午後十時五十六分。
推定死亡時刻より三十八分後だった。
「誰かが灯の携帯を使った」と東。
「灯本人かもしれません」
「死体は見つかってない。その時は生きてた」
「だからこそ、決めません」
写真の一枚には、本堂の畳が映っていた。
血に濡れた寂惠の袖。
画面の端に、青銅の香炉。
悠人の香が見つかったとされた、あの香炉だ。
携帯が再び震える。
今度は音声通話。
『写真を拡大しろ』
「あなたは今どこ」
『俺を探す時間と、写真を見る時間。どちらを選ぶ』
「二択にしないで。捜索班は動いています。私は写真を見る」
通話の向こうで、悠人が短く息を吐いた。
『少しは学んだ』
「上から言わないで」
灯里は画像を最大まで拡大した。
香炉の周囲に灰が散っている。
白く細かな灰の下には、寂惠の血がある。
「灰が、血の上に載っている」
『八年前、あなたは香りしか見なかった』
灯里は当時の高解像度現場写真を並べた。
血痕の縁はすでに暗く乾き始めている。その上へ、白い灰が粒の形を保ったまま落ちていた。
血が流れた時に灰があったなら、粒は沈み、赤く染まる。
だが、灰は乾いた表面へ後から置かれている。
「寂惠さまが倒れたあと、少なくとも二十分以上経ってから」
『俺の香は、殺害時にはなかった』
「写真だけでは、誰が置いたかは分からない」
『俺が置いていない証拠にもならない』
悠人自身が、灯里の推論へ反証を入れる。
「どうして否定しないの」
『否定だけで無実になるなら、五年も要らなかった』
灯里は別の写真を開いた。
悠人の作務衣から採取された香灰。繊維の奥ではなく、表面へ塊で付いている。
自然に煙を浴びた付着ではない。
乾いた灰を、あとから押し当てた痕だ。
剛田が告白したとおり、衣服から採った灰を現場へ移したのではない。
現場へ置くための灰を作務衣へ押しつけ、同じ由来だと見せかけた可能性さえある。
「順番が逆だった」
灯里の喉が震える。
「あなたの衣服から現場へ移したんじゃない。現場に置く灰と同じものを、あなたの服へ付けた」
『俺を香りの出所にするために』
「殺人の匂いではなかった」
灯里は八年前の報告書を見た。
〈現場と被疑者衣服から、近似する香成分を検出〉
事実は、間違っていない。
意味だけが、逆だった。
「犯人を作るための匂いだった」
悠人は何も言わなかった。
灯里は受話口へ向かい、続けた。
「私の鼻は、香りがあると伝えた。私は、それをあなたが殺したという意味にした」
『今さら、鼻を庇うのか』
「責任の場所を間違えないためです。能力のせいにすれば、また同じことをする」
東が黙って灯里を見ている。
「あなたを信じません」と灯里は言った。
『それでいい』
「あなたが殺していないとも、まだ決めない。誘拐と監禁は追及する」
『当然だ』
「でも、あなたの言葉を、私の結論に合わないから捨てることもしない」
わずかな沈黙。
『俺も、あなたの証拠を捨てない』
赦しではない。
信頼でもない。
互いが出した反証だけを、互いの手から奪わない。
それが、二人に作れる最初の同盟だった。
*
警報は、その直後に入った。
東の携帯へ、緊急通報の転送。
元東京地検特捜部検事・九条玲。
八年前、悠人の控訴審で再鑑定請求を退けた人物。
画面が自動でライブ映像へ切り替わる。
壁一面の事件箱。
天井から吊られた無数のトロフィー。
中央の机へ、銀髪の女が片手を手錠で固定されている。
九条の前には、金色と黒、二つのボタン。
画面上部に表示された文字。
〈慢――あなたは、真実より無敗を愛した〉
天井が、軋みながら下がっていく。
残り時間。
十四分五十九秒。
通話中の悠人が、低く言った。
『それは俺の装置だ』
「止め方を言って」
『待て』
初めて、悠人の声に明確な動揺が混じった。
『作動が早すぎる。俺が設定した時刻じゃない』
数字が減る。
十四分五十二秒。
『また、二人目が来ている』




