第8話 痴――無香の殺意
何も匂わない遺体ほど、灯里には恐ろしかった。
解剖室には、消毒剤も、金属も、切開された皮膚もある。
それなのに神楽坂実を殺したものだけが、どこにもいない。
「死因は、遅効性の神経毒による呼吸不全」
法医学医がモニターへ分析結果を出した。
「既知の農薬や医薬品とは組成が違います。毒そのものはほぼ無臭。さらに、極小の樹脂粒子で包まれていた」
「樹脂?」
「搬送時に回収した衣服から、灰に似た微粒子が出ました。紙の迷宮で首元に押しつけられた香包みの中身でしょう。粒子は体内へ入ったあと、湿気と体温で徐々に崩れた。発症まで時間差があったのは、そのためです」
神楽坂は、助け出された時には殺されていた。
病院の警備も、面会制限も、意味がなかった。
灯里は証拠写真を拡大した。
灰色の粒。
見た目は香灰と変わらない。
鼻へ届く成分もない。
「この樹脂は、何に使われるものですか」
「同系統の材料なら、建築補修、精密機器、文化財修復。用途は広い。ただし、ここまで微細な被膜を均一に作るには、専門設備が要ります」
文化財修復。
一つの顔が浮かぶ。
浮かんだこと自体を、灯里は記録した。
浮かんだから正しいのではない。
知っている職業へ、証拠を押し込もうとしているだけかもしれない。
「柊澄香の施設を調べます」
東が灯里を見る。
「本人へ先に言うな」
「言いません」
「顔に出すな」
「出していません」
「妹に似てる人間を疑う顔は、初めて見る」
灯里は答えなかった。
*
だが、澄香の方から資料を持ってきた。
午前十一時。捜査本部の机へ、修復施設の薬品台帳、入退室記録、監視映像の複製が積まれる。
「神楽坂さんの件で使われた樹脂と、同じ系列の材料です」
澄香は淡い手袋のまま、一冊目を開いた。
「私の職場でも、剥落した顔料を固定するために使います。疑われると思ったので、過去一年分を持ってきました」
「こちらから連絡する前に?」
「私が警察なら、最初に私を調べます」
声は落ち着いている。
柔軟剤も、化粧品も、汗も匂わない。
神楽坂の最期の言葉が、耳の奥で重なった。
香りがない女。
「紙の迷宮へは、入口まで同行しましたね」
「はい。館内へ入ったのは、早乙女さんたちのあとです。私は外で、印刷物の溶剤について無線を」
「神楽坂さんへ触れた?」
「救急隊が運び出した時、脈を確認しました。ただし首元には触れていません。手首だけです」
記録映像とも一致する。
「八年前、灯へ蜂蜜の入れ方を教わった。何度会ったかは覚えていない。それでも、妹の字を真似る材料は持っていた可能性がある」
東が横から言った。
澄香は目を逸らさなかった。
「あります」
否定しない答えに、灯里の呼吸が止まる。
「灯さんから、手紙を二通もらいました。活動の予定と、お礼だけの短い物です。今も保管しています。提出します」
「なぜ最初に言わなかったんです」
「早乙女さんに、妹さんとの距離を測られるのが怖かったからです」
「今は?」
「人が死にました。私の怖さより、調べる方が先です」
澄香は両手を机の上へ置いた。
「手袋も、衣服も、施設も調べてください。私は香りを残さない仕事をしています。だから疑われるのは当然です」
「疑われて、平気なんですか」
「平気ではありません」
初めて、澄香の指先がわずかに震えた。
「でも、信じてくださいと言えば、早乙女さんをまた苦しめる」
灯里は、すぐに返せなかった。
優しい言葉は、無罪の証拠にならない。
疑われる覚悟も、無罪の証拠にはならない。
施設の台帳上、該当樹脂はすべて在庫量と一致した。持ち出しも、紛失もない。
ただし、全国三十七か所の修復施設が同じ材料を使っている。
澄香へ絞ることも、澄香を外すこともできなかった。
*
午後二時、鷹宮廉司が記者会見を開いた。
会見場の背景には、犯罪被害者支援財団の青いロゴと、再開発都市の模型。
鷹宮は傷一つない革手袋を組み、カメラへ正面から頭を下げた。
『神楽坂実氏が、警察の保護下で亡くなりました。心より哀悼の意を表します』
続いて、顔を上げる。
『しかし私は、哀悼だけで済ませるつもりはありません。現在の捜査を指揮する早乙女灯里警部補は、八年前の冤罪事件を作った当事者です』
記者たちがざわめく。
『その妹君も事件へ関与していた疑いがある。ご本人の苦しみは理解します。だからこそ、彼女を捜査へ置き続けることは、被害者にも、彼女自身にも残酷です』
画面脇に、灯里の過去写真が表示された。
若き名刑事。
冤罪刑事。
同じ顔へ、見出しだけが逆の意味を与える。
『社会は疑いだけでは前へ進みません。誰かが結論の責任を引き受けなければならない』
鷹宮の言葉が終わる前に、灯里の携帯へ通知が殺到した。
人殺し。
また冤罪を作るのか。
妹も共犯だったのでは。
灯の古い写真まで貼られている。
八年前と同じだ。
一人の人間を理解しやすい役へ押し込み、見知らぬ指が結論を足していく。
「見るな」
東が携帯を伏せた。
「見なかったことにはできません」
「全部見る必要もない」
捜査本部長が二人の前へ立つ。
手には命令書があった。
「早乙女警部補。本日付で六道香事件の捜査から外す。服務上の処分ではない。公平性確保のための一時措置だ」
「神楽坂を殺した方法が分かりかけています」
「引き継げ」
「私の嗅覚が必要です」
「今回は、その嗅覚で何も分からなかった」
言葉が、正確に刺さった。
東が前へ出る。
「外すなら俺もだ。八年前の担当者は俺も同じです」
「東警部には、引き継ぎを命じる」
「拒否したら」
「二人とも、捜査情報へ一切触れられなくなる」
灯里は東の袖を掴んだ。
今ここで怒れば、鷹宮が望む画になる。
「従います」
口にした瞬間、八年前と同じ味がした。
何かを守るために、一枚の紙へ従う味。
*
庁舎地下の駐車場で、東が古い段ボール箱を押しつけてきた。
蓋には、赤い印で〈未整理〉。
「何です」
「八年前の浄円寺事件。正式記録へ綴じられなかった物だ」
「なぜ、あなたが持っているんです」
「俺が隠した」
蛍光灯が一度、明滅した。
「今さら私へ渡す理由は」
「お前が外されたからだ。警察官としては渡せない。相棒としても、渡していい物じゃない」
「なら」
「共犯者として渡す」
東は箱から手を離した。
「読むなら、お前は今までのお前ではいられない」
「八年前の私なんて、もう残っていません」
「残ってる。自分は騙された側だと思ってる部分が」
灯里は箱を抱えた。
「あなたは、私が何をしたか知っている」
「ああ」
「それでも今まで黙った」
「ああ」
「最低ですね」
「知ってる」
東は古い腕時計へ目を落とした。
「だから、読め。俺を軽蔑するのは、そのあとでいい」
*
箱の底から、二枚の書類が出た。
一枚目。
〈浄円寺住職殺害事件における香灰資料の再鑑定進言〉
作成者、早乙女灯里。
現場採取灰と涌井悠人の作務衣から採取した灰は、配合こそ近似するが、繊維への付着順が異なる可能性がある。第三者による移植を排除できない。
八年前の自分は、一度、正しく疑っていた。
二枚目。
三日後の日付。
〈再鑑定進言撤回書〉
署名も、指紋も、灯里自身のものだった。
忘れてはいない。
撤回したことは覚えていた。
ただ、「資料不足で正式提出を諦めた」と、自分へ説明し続けてきた。
紙から、古い煙草と革の匂いが立つ。
記憶の扉が開いた。
*
『このまま再鑑定を求めれば、事件は長引く』
八年前の会議室。
上司が机へ、週刊誌の校了紙を置いた。
灯の大学名。
通学経路。
悠人と親しかったという、根拠のない見出し。
『捜査が終われば、広報から各社へ家族取材の自粛を強く申し入れられる。だが、担当刑事自身が事件を疑っているとなれば止められない』
『妹は関係ありません』
『世間が決める』
当時の東が、部屋の隅に立っていた。
何も言わなかった。
『撤回すれば、妹を守れるんですか』
『事件を終わらせればな』
ペンを握る。
灯の泣き声を、前夜に電話で聞いていた。
『お姉ちゃんのせいじゃないよ』
その言葉が、許しではなく助けを求める声だったと、灯里は分かっていた。
それでも署名した。
悠人を見捨てれば、妹を守れると思った。
*
現在へ戻る。
撤回書の末尾に、印刷ではない一行があった。
黒いペン。
強い筆圧。
灯里の字。
誰かに書かされた形ではない。
迷いを押し潰すように、自分で付け足している。
〈涌井悠人以外を、これ以上疑う必要はない〉




