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六道香殺人事件   作者: 宿院
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第7話 痴――死者を犯人にするな

『八年前は俺。今度は妹か』


 非通知の声は、灯里が写真へ問いかけた直後に届いた。


 窓の外では、夜明け前の雨がベランダの手すりを細かく叩いている。


「どこで聞いているの」


『どこにもいない。だが、あの十二秒を聞けば、あなたが何をするかは分かる』


 涌井悠人。


 穏やかな声。怒鳴らないからこそ、言葉が逃げ場を塞ぐ。


『香り。血。刃物。死亡時刻の七分前。八年前のあなたなら、十分だった』


「今の私は違う」


『写真へ、何と聞いた』


 灯里は答えなかった。


『反論できない人間は便利だ。俺を犯人にした時も、取調室の外に俺の言葉は届かなかった。今度は死者か』


「妹を庇いたいんですか」


『灯を知っていたからではない。あなたを知っているから言っている』


 灯里の指が強くなる。


「なら、知っていることを全部話して」


『あなたが結論を決める前に、自分で十二秒を疑え』


 通話が切れた。


 灯里は携帯を投げなかった。


 投げれば少しだけ楽になる。


 その楽さが、今は怖かった。


     *


「内容を消して、音だけにしてください」


 午前七時。音響解析室。


 灯里は灯の声と寂惠の言葉を文字起こしから外させた。


 残ったのは、呼吸、床の軋み、金属音、遠くで鳴る鈴のような響き。


 十二秒を、速度を変えずに繰り返す。


 かすかな高音が三度。


 四秒。


 四秒。


 次は三秒半。


「鐘楼の風鐸ではありません」と解析官が言った。「風なら間隔が揃わない。機械式の何かです」


 灯里は目を閉じた。


 音ではなく、記憶の匂いを探る。


 浄円寺の本堂。乾いた畳。蝋燭。雨の日だけ膨らむ杉板。


 その下に、子どもの頃、一度だけ入った暗い部屋がある。


 寂惠が香材を湿度から守っていた地下の調香道場。


 棚の端には、四秒ごとに弁を動かす古い除湿器があった。弁が切り替わるたび、真鍮の小鈴に似た音を立てる。


「本堂じゃない」


 灯里は立ち上がった。


「録音された場所は地下です」


「根拠は」


 東の問いに、灯里は音声の波形を指した。


「床音の反射が短い。畳の下に空間がある本堂なら、もっと低く響く。ここは厚い板の下が土です。それに四秒ごとの金属音。地下道場の除湿器と同じ」


「八年前の機械が、今も残っているとは限らない」


「だから照合します」


 今度は、そう言えた。


 浄円寺の保険調査資料には、火災前の施設点検映像が残っていた。地下道場で稼働する除湿器の音を抽出し、録音へ重ねる。


 一致率は九十六パーセント。


 灯がいたのは、寂惠が殺された本堂ではない。


 同じ寺の地下。


 近い。だが、同じ場所ではない。


 消防の焼損調査記録には、地下へ下りる石段が鐘楼側の倒壊で塞がれたとある。回収品一覧には、真鍮製の除湿弁も残っていた。


 保管庫から取り寄せ、空気を通す。


 四秒ごとに、三度。


 録音と同じ、鈴に似た音が鳴った。


 地下道場は存在した。入口は今も、焼け落ちた梁と土砂の下にある。


 灯のスケッチで黒く塗られた六角形が、灯里の脳裏へ浮かんだ。


「次は落下音です」


 寂惠の言葉の直後、何かが床へ当たる。


 凶器とされた短刀の同型品を板へ落とすと、重い二重音がした。


 録音の音は軽い。


 澄香が持ち込んだ道具箱から、細身の刃物を取り出す。


「香刀です。香木の節を割るためのもの」


 刃渡りは短く、峰が厚い。殺傷用ではないが、灯が握っていれば、寂惠が「刃物を置きなさい」と呼ぶことはある。


 杉板へ落とす。


 十二秒の音と重なった。


「灯さんは、香木を割ろうとしていたのかもしれません」


 澄香は断定しなかった。


「動揺して、香刀を落とした。寂惠さまは、何もしていないと宥めた」


 灯里は録音を止めた。


 妹を無罪にする証拠ではない。


 ただし、犯人にする証拠でもない。


 その違いを、八年前の自分は踏み越えた。


 一瞬、安堵した自分にも気づく。


 灯が犯人でなければ、妹はただの被害者へ戻る。自分も、妹を疑った姉で終わらずに済む。


 だが、その安堵を結論に変えれば、今度は妹を無実という役へ閉じ込める。


 死者を守るためにも、死者を都合よく使ってはいけない。


     *


 白いスカーフの血液は、寂惠のものと一致した。


 それでも、殺害時の血ではなかった。


「血球の崩れ方と洗浄痕から、スカーフへ付着したのは事件の少なくとも五日前です」


 鑑定官が画像を切り替える。


 寺の修繕業者が残した作業写真。事件の六日前、寂惠の左手には包帯が巻かれていた。割れた障子ガラスで掌を切ったと、日報にもある。


 別の写真では、灯がその手へ白い布を押し当てていた。


 首から外したスカーフだった。


 灯里は椅子へ背を預けた。


「私は、また同じことをした」


「まだ何もしていない」と東。


「した。十二秒で、妹に聞いた」


「聞いただけだ」


「答えられない相手へ、犯人かって」


 東はしばらく黙った。


「なら、次から先に反証を探せ」


「簡単に言わないで」


「簡単なら、俺は八年も黙ってない」


 灯里が顔を上げる。


 東はそれ以上、何も言わなかった。


     *


 神楽坂の事情聴取は、午後に再開された。


 灯里は十二秒の再検証結果を伝えた。


「灯は、殺害現場にいたとは限りません」


「そうか」


 神楽坂は目を閉じた。


「俺は、電話を聞いた時にそれを考えなかった」


「考えたくなかった」


「同じことだろ」


「違います。知らなかったなら、知ったあとで直せる。知ろうとしなかった人は、直す機会まで自分で捨てる」


 神楽坂は苦く笑った。


「記事の訂正欄より、よく刺さるな」


 灯里は八年前の記事データを開いた。


「あなたは事件当夜の写真を、匿名の送信者から受け取っています。悠人が裏門付近にいるように見える写真です」


「ああ」


「元データの撮影時刻が改変されていました。実際は事件の三日前」


「知ってた」


 病室の空気が冷えた。


「画像担当が言ったよ。メタデータが不自然だって。でも紙面はもう組んでた。俺は、見たままでいいと押し切った」


「送信者は」


「フリーメール。表示名は一文字だけだった」


 神楽坂は指で、シーツへ書いた。


 H。


「男か女かも分からない。ただ、昨日、紙の迷宮で一度だけ見た」


「誰を」


「悠人じゃない。あいつの声はスピーカーからしてた。拘束を直しに来たのは、細い女だ」


 灯里の背筋が固くなる。


「顔は」


「防塵マスク。髪も覆ってた」


「特徴は」


「何もなかった」


「何も?」


「香水も、洗剤も、汗も。近くに顔が来たのに、人間の匂いがしなかった」


 灯里の脳裏に、淡い手袋が浮かんだ。


 澄香。


 すぐに打ち消す。


 無香料の人間は一人ではない。防護服でも、吸着材でも匂いは消せる。


 事実へ、知っている顔を貼りつけてはいけない。


「その女は、あなたへ何をしたんです」


「首元の香包みを押しつけた。灰が舞った。咳き込んだら――」


 神楽坂の言葉が途切れた。


 右手が硬直する。


 指が、不自然な角度へ曲がった。


「神楽坂さん?」


 全身が跳ねた。


 モニターの警告音が鳴る。


「先生!」


 灯里がナースコールを押す。


 神楽坂の背が弓なりになり、酸素チューブが外れた。口元から泡が溢れる。


 東が廊下の警官へ叫ぶ。


「病棟を封鎖しろ! 直近の面会者を全員――」


「面会者はいません!」


 看護師が答える。


「搬送後は、警察と医療者しか入っていない!」


 医師たちが駆け込み、灯里を押し退ける。


 痙攣の合間に、神楽坂の目が灯里を捉えた。


「か……おりが」


「何です」


「な、い……」


 唇が震える。


「女……」


 心電図の波が大きく乱れた。


 注射。胸骨圧迫。指示の声。


 そのすべての間を縫うように、線が一本へ近づいていく。


 灯里は何度、空気を吸っても、何も嗅げなかった。


 香りがない。


 だから、灯里の鼻の中では、殺した人間が存在しなかった。


 その空白の中で、神楽坂実の心臓が止まった。


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