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六道香殺人事件   作者: 宿院
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第6話 瞋――妹を疑う夜

 妹の遺品箱は、八年間、開けないままでも血の匂いがした。


 午前二時四十六分。


 灯里は自宅の床へ、薄い段ボール箱を置いた。


 神楽坂実を病院へ搬送してから、まっすぐ実家の保管庫へ向かった。浄円寺が閉じられたあと、家族の物はすべて郊外の貸倉庫へ移している。


 箱の側面には、父の字で〈灯〉。


 封をした布テープは黄ばみ、角へ薄く埃が積もっていた。


 カッターの刃を入れる。


 古い紙。防虫剤。洗い落としきれなかった柔軟剤。


 その奥に、鉄。


 蓋を開けると、白いスカーフが一番上に畳まれていた。


 端へ、茶褐色の染みがある。


 血だ。


 八年前、灯が死んだ時に身につけていた物ではない。遺体の所持品一覧に、このスカーフはなかった。


 灯里は黒い手袋をはめ、透明袋へ移した。


 その下から、スケッチ帳が出てきた。


 一頁目。


 浄円寺の鐘楼。


 二頁目も、鐘楼。


 三頁目も同じだった。


 鉛筆の線は進むほど乱れ、鐘を吊るす太い梁だけが、毎回、黒く塗り潰されている。


 ただの黒ではない。


 六つの辺を持つ空白。


 六角形の穴のように、そこだけ何度も塗り重ねられていた。


 最後の頁に、短い文字がある。


〈お姉ちゃんは、匂いを信じすぎる〉


 灯里は指を止めた。


 その下に、消しゴムで消した跡があった。斜めから光を当てると、筆圧だけが浮かぶ。


〈だから、私が――〉


 続きは削られていた。


 八年前の夏、灯は同じ白いスカーフを巻き、鐘楼の下で上を見ていた。


『お姉ちゃん。鐘を吊ってる梁って、切ると六角なんだよ』


『木によるでしょ』


『寂惠さまが、この鐘の梁は中が空洞だって。昔は大事な物を隠したんだって』


 灯里の携帯が鳴り、話はそこで終わった。あとで聞くと言って、聞かなかった。


 スケッチの黒い六角形は、空白ではない。


 灯が誰かへ残そうとした、場所かもしれない。


 携帯が震えた。


 病院に残した捜査員からだった。


『神楽坂が、正式に話すと言っています。ただし、早乙女警部補にだけ』


 灯里は箱を閉じなかった。


     *


 神楽坂は、酸素チューブを鼻へ入れたまま、個室のベッドへ横たわっていた。


 廊下には制服警官が二人。窓は開かず、持ち込み品はすべて検査されている。


「八年前の電話を、録音したんですね」


 灯里が聞くと、神楽坂は乾いた舌で唇を濡らした。


「記者だからな。電話は全部、自動で残してた。灯ちゃんからは二本あった」


「二本?」


「最初は十二秒で切れた。向こうの物音と声だけだ。二本目で名乗って、話した」


「なぜ記事に使わなかった」


「使えなかったんじゃない。使わなかった」


 神楽坂は天井を見た。


「灯ちゃんは言った。『悠人さんはやってない。私が寺にいた』って。泣いてたよ。何かを見たのか、何かをしたのか、そこまでは話さなかった」


「折り返しは」


「した。出なかった。翌日には、君の妹だと分かった」


「それでも黙った」


「記事の筋が壊れるからだ」


 弱った声なのに、言葉だけは逃げなかった。


「若い女刑事が、香りで犯人を暴いた。寺の弟子が師を殺した。読者が一度理解した話を、妹の電話一本で崩したくなかった」


「その理解で、何人が壊れたと思っているんです」


「数えたら、記事を書けなくなる」


「だから数えなかった」


 神楽坂は目を閉じた。


「痴ってのは、馬鹿って意味じゃないんだろ」


「知らないことではありません。知ろうとしないことです」


「なら、俺にちょうどいい」


 枕元の封筒を顎で示す。


「昔の録音サーバーの識別番号だ。会社が潰れたあと、外部倉庫へ移された。消されてなければ、灯ちゃんの声も残ってる」


 灯里は封筒を受け取った。


「電話があった時刻は」


「住職が殺されたとされる、少し前だ」


 胸の奥で、箱に入っていた血の匂いが濃くなった。


「灯は、寂惠さまを殺したんですか」


 神楽坂は首を振った。


「俺は知らない」


「見当は」


「見当を記事にして、人を犯人にした。もう二度とやらない」


 死にかけた男の方が、今の灯里より慎重だった。


 病室を出ると、東が自動販売機の前で待っていた。二本の缶コーヒーは、どちらも開いていない。


「妹が犯人なら、少し楽になるか」


 灯里は足を止めた。


「何がです」


「お前の確信に、理由ができる。悠人を疑った自分も、灯を守れなかった自分も、全部『仕方なかった』と言える」


「最低ですね」


「ああ。だから、そう思う自分がいないか先に疑え」


 灯里は缶を受け取らず、廊下を歩いた。


 否定できない言葉ほど、背中へ長く残った。


     *


 スカーフの予備鑑定は、その日の夕方に始まった。


 科捜研の作業台で、澄香が染みの周辺へ斜光を当てる。


「血液で間違いないと思います。ただ、かなり古い。洗剤で一度洗われています」


「誰の血か分かるまで、どれくらい」


「照合先があれば数時間。寂惠さまの保存資料が残っているんですよね」


 灯里は顔を上げた。


「なぜ、寂惠さまだと思ったんです」


 澄香の手が止まる。


「浄円寺にあった物だからです。ほかの可能性もあります」


「妹を知っていましたか」


 質問を変えると、澄香はしばらく灯里を見た。


「少しだけ」


「初めて聞きました」


「言えば、私を事件から外しましたか」


「判断したのは私です」


「だから、言うのが怖かった」


 澄香は淡い手袋を外した。


「灯さんとは、若者向けの被害者支援活動で会いました。私は香文化財の講座を手伝っていて、彼女は受付のボランティアをしていた。何度か話しただけです」


「何度」


「正確には覚えていません」


 恐怖の汗はない。


 それは嘘をついていない証明ではない。澄香は、そもそも匂いを残さない訓練をしている。


 灯里が黙ると、澄香は給湯器へ向かった。


 白湯を紙コップへ注ぎ、蜂蜜を一匙だけ落とす。


 底へ沈めず、表面で三回、円を描く。


 灯がしていたのと同じだった。


「どうして、その入れ方を」


 澄香は匙を止めた。


「灯さんが教えてくれました。眠れない夜は、こうすると香りが立つからって」


 紙コップが差し出される。


「早乙女さん。今夜は、一人で決めないでください」


「何をです」


「灯さんが、何をした人なのか」


 灯里は白湯を受け取れなかった。


 優しさが深すぎる。


 それだけで人を疑うなら、八年前と何も変わらない。


     *


 夜、デジタル鑑識が録音サーバーから十二秒の音声を復元した。


 雑音。


 木が擦れる音。


 短く鳴る金属音。


 そして、灯の荒い呼吸。


『私が言わなきゃ。お姉ちゃんが、また――』


 続いて、寂惠の声が入る。


『灯、何もしていない。刃物を置きなさい』


 何かが床へ落ちた。


 録音はそこで切れていた。


「時刻情報は?」


 灯里の声が、自分のものではないように聞こえた。


「改変痕なし。午後十時十一分四十秒。寂惠住職の推定死亡時刻は、十時十八分前後です」


 七分前。


 東が壁へ寄りかかり、腕を組んでいた。


「十二秒だ」


「分かっています」


「刃物が凶器とは限らない」


「分かっています」


「死者は反論できない」


「分かってる!」


 灯里の声が室内へ響いた。


 東は黙った。


 怒りが、遅れて灯里自身へ戻ってくる。


 妹を守れなかった怒り。


 妹が何かを隠していたかもしれない怒り。


 そして、答えを一つにすれば苦しみが終わると考えた、自分への怒り。


「証拠だけを見ます」


 灯里は言った。


「なら、結論を急ぐな」


「急いでいません」


「写真に謝らせる顔をしてる」


 灯里は東を睨んだ。


 だが、反論できなかった。


     *


 深夜。


 遺品箱は、開いたまま床にあった。


 灯里は妹の写真を取り出す。


 十九歳の灯が、浄円寺の石段で笑っている。首には、あの白いスカーフ。


 その端に、まだ血の染みはない。


 十二秒の声を、もう一度再生した。


『灯、何もしていない。刃物を置きなさい』


 何もしていない。


 寂惠は、何から妹を庇ったのか。


 灯里は写真の中の笑顔へ尋ねた。


「あなたが、殺したの?」


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