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六道香殺人事件   作者: 宿院
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第5話 瞋――相棒の沈黙

「何を隠したんです」


 灯里は、剛田の血文字を撮影した写真を東の机へ置いた。


 白い袖に、赤黒い二文字。


 ――東へ。


 東は写真を見たあと、開いていた革手帳を静かに閉じた。


 八年前から使い続けている手帳だった。角は潰れ、留め具の革は指の形に黒ずんでいる。


 閉じられる直前、灯里は挟まれた紙の端を見た。警察文書に使う薄い青罫。左上には、古い受理印の一部。


 東は、八年前の何かを今も持ち歩いている。


「剛田が書いたのは、方角かもしれない」


「死ぬ直前に、東へ行けと?」


「旧研修施設の東側に共犯者がいた可能性もある」


「なら、なぜ手帳を閉じたんです」


 東の指が止まった。


 捜査本部のテレビでは、昨夜の配信映像が繰り返されている。


『他の誰かを疑う必要はありません。涌井悠人が犯人です』


 二十四歳の灯里の声。


 画面下には〈冤罪刑事、再び捜査へ〉という見出し。庁舎前には報道陣が集まり、灯里の処分を求める声まで上がっていた。


「八年前の取調映像を、誰が持ち出せたんです」


「剛田だろう」


「剛田は自分の暴力が映った記録を、わざわざ残した?」


「編集版なら捜査幹部も持っていた」


「その中に、あなたもいた」


 東は否定しなかった。


「私のIDを使える。証拠の移管先を知っている。八年前の映像を持っている。そして剛田は、死ぬ前にあなたの名前を書いた」


 灯里は手帳へ視線を落とす。


「相棒として聞いています。答えなければ、次は捜査対象として聞く」


 長い沈黙のあと、東が椅子へ深く座った。


「お前は八年前、香灰の再鑑定を求めた」


 灯里の呼吸が止まる。


「……正式提出前に、撤回したはずです」


「最初の鑑定から三週間後だ。現場の香灰と、涌井の衣服から出た灰は、付着の仕方が違うかもしれない。そう報告書に書いた」


「なぜ、その紙をあなたが持っているんです」


「提出はされていた。俺が上へ上げなかった」


「誰が止めたんです」


 東は答えない。


「あなたですか」


「今は言えない」


「剛田が死にました。次は誰です。言える時まで、あと何人死ねばいいんですか」


「口にすれば、戻せない」


「黙って失った八年は戻るんですか」


 灯里の中で、何かが切れた。


「また、それですか」


「証拠が足りない」


「私には、疑うことすら許さなかったくせに」


「だから今、言えないんだ」


「意味が分かりません」


「分からないままでいろ。今のお前が知れば、証拠より先に誰かを撃つ」


 灯里は東の胸倉を掴みかけ、手を止めた。


 怒りが、剛田の取調室の熱気と重なる。


「今日から、あなたの端末と行動記録を照会します」


「好きにしろ」


「捜査情報へのアクセス制限も申請します」


「俺はお前の上司だ」


「なら命令してください。『私を疑うな』と」


 東は言わなかった。


 その沈黙が、命令より重かった。


 灯里の携帯が震える。


 非通知ではない。


 差出人のないメッセージに、動画ファイルと地図が添付されていた。


 再生すると、紙で作られた細い通路が映る。床から天井まで、新聞記事が積み上げられている。


 その中央で、男が椅子へ縛られていた。


 元東都新報記者、神楽坂実。


 八年前、悠人を「香に狂った僧侶」と書き立てた人物だ。


 画面に文字が浮かぶ。


〈痴――知らなかったのではない。知ろうとしなかった〉


 続いて、悠人の声。


『四十五分後、紙の迷宮は空気を失う』


 東が立ち上がる。


「罠だ」


「位置情報は閉鎖された東都新報資料館」


「分かりやすすぎる。お前を呼んでいる」


「涌井を信じるわけではありません」


「なら行くな」


「情報を検証します」


 灯里は写真を回収し、東の机へ背を向けた。


「疑うことは、何もしない理由じゃない」


     *


 閉鎖新聞資料館の自動扉は、半分だけ開いていた。


 内部は暗い。


 非常灯の緑だけが、無数の紙面を照らしている。


 〈僧侶見習い、住職を惨殺〉


 〈香りが暴いた歪んだ信仰〉


 〈若手女性刑事の執念〉


 さらに奥には、事件と無関係な家族を追った記事まであった。


 〈冤罪刑事の妹、大学を欠席〉


 帽子で顔を隠す灯の写真。その横に、読者提供と書かれている。


 灯里は足を止めかけた。


「見るな」と東。


「見ます。見なかったから、ここまで来た」


 八年前の記事が壁となり、細い迷路を作っていた。


 灯里自身の顔写真もある。


 当時の彼女は笑っていない。それでも見出しは、若き名刑事の誕生を祝っていた。


「酸素濃度、十八・九。低下中!」


 後方の隊員が測定器を確認する。


 天井では、二酸化炭素消火設備の配管が震えている。紙資料を火災から守るための装置を、今は人間から呼吸を奪うために使っていた。


 入口で待機していた澄香から、無線が入る。


『動画に映っていた紙面の一部は、古紙に見せた新しい印刷です。インク溶剤が強いはずです。吸い込みすぎないでください』


「分かりました」


『早乙女さん』


 澄香は一拍置いた。


『戻ってきてください。答えより先に』


 その言い方が、また灯に似ていた。


「制御室は?」


「館内図では北棟。ただし通路が紙で塞がれています」


 酸素濃度は十八・二へ落ちる。頭痛が始まる数値ではない。だが、装置が本格作動すれば一気に下がる。


「全員、簡易マスク装着。十五パーセントを切ったら撤退だ」と東。


「神楽坂さんは撤退できません」


「救助側が倒れれば、誰も助からない」


 正論だった。正論はいつも、切り捨てる順番を決めたあとで口にされる。


 正面と右手に、緑の避難誘導灯が見えた。


 東が右へ進もうとする。


「待って」


「時間がない」


「だから止まって」


 灯里は目を閉じた。


 古い新聞紙の酸っぱい匂い。黴。インク。配管から漏れる金属臭。


 正面の誘導灯の下だけ、印刷インクが新しい。


 積まれた記事は、八年前の原紙ではない。昨夜印刷された複製だ。速乾溶剤の匂いが強く、通路の奥へ続いている。


「正面は、犯人が歩かせたい道です」


「右は?」


 右手には白檀の香りが濃い。


 あまりにも濃すぎる。


 誘導するために置かれた香だ。


「どちらも罠」


「じゃあ、どこを通る」


 灯里は天井近くを見た。


 迷路の各角に、小さな香炉が置かれている。煙はほとんど上がらず、左側の紙壁へ吸い寄せられていた。


 空気は嘘をつかない。


 だが、目の前に示された二択を信じれば、空気の流れを見落とす。


「道を選ばない」


 灯里は紙壁へ手をかけた。


「壊します」


 東と隊員が一斉に新聞の束を引き倒す。


 紙の壁の向こうに、金属製の保守扉が現れた。隙間から空気が吸い込まれている。


 本物の排気路だ。


 扉を破り、狭い保守通路を進む。


 酸素濃度、十七・三。


 奥から、誰かが机を蹴る音がした。


「神楽坂さん!」


 資料閲覧室の中央で、神楽坂が椅子へ縛られていた。口元は青く、目は半ば閉じている。


 床には二つの矢印。


 一つは〈真実〉。


 もう一つは〈記事〉。


 どちらも密閉された行き止まりへ続いていた。


 神楽坂の胸元には、小型録音機が吊られていた。スピーカーから同じ問いが繰り返されている。


『あなたは、知らなかったのですか』


 朦朧とした神楽坂が首を振る。


「知っていた……でも、書かなかった……」


 警告音が鳴り、消火配管がさらに震えた。


「最初から、正解の道なんて用意していない」


 灯里は拘束具を切った。


 東が神楽坂を背負い、保守通路へ戻る。灯里は最後尾で、酸素の薄い空気を吸い込んだ。


 視界が狭くなる。


 それでも、前を行く神楽坂の靴が動いている。


 死体ではない。


 生きている。


 神楽坂の体重が東の背中へかかり、東の足が一度よろめく。灯里は後ろから肩を押した。相棒を疑っている。それでも今、この人間と一緒でなければ救えない。


 信じることと、疑わないことは、同じではない。


 生きている。


 建物の外へ出た瞬間、救急隊が神楽坂へ酸素マスクを当てた。


「脈あり! 搬送します!」


 灯里は膝へ手をつき、何度も空気を吸った。


 間に合った。


 冨永にも、剛田にも届かなかった手が、初めて届いた。


 疑ったから遅れたのではない。


 用意された答えを疑ったから、人を救えた。


「早乙女」


 東が缶コーヒーを一本差し出した。


「今はいりません」


「知ってる。持ってろ」


 灯里は受け取ったが、目は合わせなかった。


 二人の間にあるものは、まだ壊れたままだ。


     *


 搬送直前、神楽坂が酸素マスクをずらした。


「早乙女……灯里」


 灯里は担架へ寄る。


「話は病院で」


「今、言わないと……また記事にされる」


 乾いた唇が、皮肉に歪んだ。


「八年前、電話があった。涌井はやってないって……事件の筋が違うって、泣いてた」


「誰からです」


「若い女だ。俺は切った。売れる記事に、邪魔だったから」


 神楽坂の指が、灯里の袖を掴む。


「名前を言ったよ。早乙女灯です、って」


 周囲の音が消えた。


「妹が……あなたに?」


「灯ちゃんは、あの夜――」


 神楽坂は灯里の耳元へ、残った息を押し込んだ。


「寂惠が殺された夜、浄円寺にいた」


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