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六道香殺人事件   作者: 宿院
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第4話 瞋――六十分の取調室

『涌井悠人を殴りましたか』


 ライブ配信の質問に、剛田一馬は首を横へ振った。


「やっていない!」


 直後、赤い警告灯が点いた。


 狭い取調室の天井から、低い作動音が響く。


 画面の隅に表示された数値が上がった。


 室温、三十二・一度。


 二酸化炭素濃度、一・八パーセント。


 残り時間、五十七分十二秒。


『嘘を一つ』


 涌井悠人の静かな声が告げる。


『あなたは怒りで人を殴った。今、その怒りがあなたの呼吸を奪う』


「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」


『八年前も、同じことを言った』


 剛田が机を蹴る。手首を固定する金具が鳴り、また室温が上がった。


 捜査本部では、数十台の端末が同じ映像を映していた。配信元は複数の中継サーバーを経由し、位置情報は潰されている。


「削除要請は?」


「運営へ出しています。ただ、消しても別アカウントから再送信されます」


「コメント数、二十万を超えました」


 配信画面の下には、〈有罪〉と〈無罪〉の投票ボタンまで設けられていた。数字は一秒ごとに増え、〈有罪〉が九十二パーセントを占めている。


 裁判ではない。証拠も反論もない。


 それでも二十万人が、指先一つで一人の人間へ結論を与えていた。


 画面の横を文字が流れる。


 自業自得。


 もっと苦しめろ。


 本当にやったのか。


 八年前、世論が悠人を犯人へ押し込んだ時と同じ速度で、今度は剛田を有罪へ運んでいく。


「音を上げて」


 灯里は画面へ顔を寄せた。


「声なら加工されています」と技術員。


「声じゃない。部屋の音」


 悠人の質問が途切れるたび、微かな振動が入る。


 ごうん。


 少し遅れて、金属が三回触れ合う音。


 四分二十秒後、また同じ振動。


「列車か」と東。


「近い。でも旅客線なら間隔が揃いすぎている。貨物か、構内運搬車両」


 灯里は映像を停止させた。


 剛田の背後。黄土色の吸音パネルに、盾形の色褪せがある。かつて何かの紋章が取り外された跡だ。


 映像の右端に、削り取られたプレートが映る。二本のボルト穴と、その間に残った青い塗料。警察施設で旧徽章板を留めていた規格と一致した。


 全国の閉鎖施設一覧が端末へ並ぶ。十九件。隣接地に車両基地を持ち、地下取調棟が残る施設は二件。振動間隔と夜間の運行記録を重ねると、一件だけが残った。


「このパネル、警察の旧式取調研修室で使われていたものです」


 東の顔が強張った。


「まさか」


「知っているんですか」


「八年前、剛田が教官をしていた研修施設がある。五年前に閉鎖された。裏が警察車両の整備基地だ」


 灯里はコートを掴んだ。


「住所」


「都外だ。飛ばしても三十分」


 画面上の数字は、五十二分を切っていた。


「間に合います」


「根拠は」


「間に合わせるからです」


     *


 覆面車の中でも、配信は続いた。


『涌井悠人を眠らせましたか』


「取調べに必要な範囲だ!」


 警告灯。


 室温、三十四・七度。


『何時間』


「覚えていない」


 警告灯。


『眠らせなかったのは、何時間』


 剛田の呼吸が荒くなる。額から落ちた汗が、机に染みを作った。


「……四十六時間」


 警告灯は点かなかった。


『なぜ眠らせなかった』


「落とすためだ。否認を続ける奴は、考える力を奪えば認める。そう教わった」


『無実でも?』


「無実の人間は、取調室まで来ない」


 東が低く舌打ちした。


 悠人は怒鳴らなかった。


『その確信で、五年を奪った』


 静かな声の方が、剛田の言葉を逃がさなかった。


『殴った回数は』


「数えていない」


『では、なぜ右手だけ腫れた』


 剛田が黙る。


 灯里は窓の外へ目を向けた。街灯が高速で後ろへ流れていく。


 八年前、取調室から出てきた悠人の匂いを覚えている。


 強い酸臭。冷えた汗。乾いた血。眠れない人間の皮膚から出る、焦げたような脂。


 当時の灯里は、それを「罪を隠す恐怖」だと報告した。


 恐怖には、被害者の恐怖もある。


 そんな当たり前の可能性を、自分は切り捨てた。


『早乙女灯里は、あなたの暴力を知っていましたか』


 悠人の質問に、灯里の心臓が強く打った。


 剛田がカメラを見る。


「知らなかった」


 警告灯は――点かなかった。


 灯里は息を止めた。


「私は、知らなかった……?」


 東の手がハンドルを強く握る。


「直接は見ていない」


「直接?」


「今は配信を見ろ」


 逃げるような声だった。


『では、彼女が嗅いだ恐怖を、あなたは何と説明した』


「犯人だから怯えていると」


『香灰は』


「知らない」


 警告灯。


 二酸化炭素濃度、三・六パーセント。


 剛田が激しく咳き込んだ。


『香灰をどうした』


「……涌井の作務衣から取った」


 車内の空気が凍った。


「何に使った!」


 灯里は端末へ叫んだ。届かないと分かっていても、止められなかった。


 剛田は顔を歪めた。


「住職の部屋へ置いた。あの女が……早乙女が、匂いを見つけるように」


『誰の指示だ』


「言えない」


 警告灯。


『誰を守っている』


「家族がいる!」


『涌井悠人にもいた』


 剛田が口を閉ざした。


 その沈黙だけで、室温がまた上がった。


 八年前の証拠が、音を立てて崩れた。


 現場にあった香りは、悠人がそこにいた証明ではなかった。


 灯里が見つけることまで計算された、罠だった。


 東が無線を取る。


「突入班、先行しろ! 対象は旧東央警察研修センター、地下取調棟!」


 残り時間、二十九分。


     *


 閉鎖施設の門は内側から鎖で固定されていた。


 車を乗り捨て、灯里と東はフェンス脇の通用口を破って走る。地下へ続く廊下には、古い消毒剤と黴の匂いが満ちていた。


 ごうん。


 床が揺れる。


 整備基地の運搬車両。


 場所は合っている。


 残り、十二分。


 廊下の奥から、白檀と沈香が流れてきた。


「右!」


 灯里は香りを追った。


 二つ目の角。鉄扉。電子錠の横に、香の煤で「瞋」と書かれている。


 突入班が破城具を打ち込む。


 一撃。


 二撃。


 扉が開いた。


 熱気が噴き出す。


 剛田は椅子へ固定され、肩で息をしていた。モニターの数字は赤い。


 残り、七分四秒。


「換気を!」


「制御盤が外から切れません!」


 灯里は室内へ入った。


 壁際に青銅の香炉。灰の上には、細い香木が一本立っている。煙は天井へ上がらず、机の下へ引かれていた。


 空気の流れ。


 机の下を覗くと、床板に小さな取っ手がある。


「非常停止装置!」


 板を開く。中には配線と、赤いレバー。


 銅線は丁寧に束ねられ、端子には番号が振られている。暴走させるためではない。必ず止められるように作られた回路だ。


「罠かもしれない!」と東。


「このままでも死にます」


 灯里はレバーを下げた。


 送風機が止まる。


 警告灯が消える。


 壁の換気口が開き、冷たい空気が流れ込んだ。


 室温の数字が下がり始める。


 剛田が泣いた。


「た、助かった……」


「終わっていません」


 灯里は剛田の拘束具へ手をかけた。


「香灰を置いたことも、暴力も、全部、法廷で証言してください。あなたをここで死なせない。死ねば、また誰かが好きな意味をつける」


 剛田は荒い息の合間に、かすかに頷いた。


 初めて、八年前の証拠が生きた人間の言葉として戻る。


 灯里も、そう思った。


 次の瞬間。


 壁の内側で、別の何かが弾けた。


 乾いた爆発音。


 剛田の椅子が、床のレールを猛烈な勢いで後退する。


「伏せろ!」


 灯里が手を伸ばす。


 届かない。


 椅子の背が壁へ激突した。


 鈍い音。


 剛田の頭が前へ落ちた。


「救急!」


 灯里は拘束具を外し、床へ崩れた剛田の首を支えた。後頭部から流れた血が、黒い手袋を濡らす。


 脈は弱い。剛田の血には、鉄の匂いと、極度の恐怖で濃くなった酸臭が混じっていた。八年前の悠人と同じ匂いだった。


 あの時、自分はこの匂いを罪と呼んだ。


 今はただ、死にたくない人間の匂いだと分かる。


「剛田さん、聞こえますか。誰が追加したんです。この装置を、誰が――」


 剛田の瞼が震えた。


 右手が上がり、灯里の袖を掴む。


 血に濡れた指で、白い布地へ二文字を書いた。


 東。


 その下に、震える線を一本。


 へ。


「東へ……?」


 剛田の指から力が抜けた。


 救命士が灯里を押しのける。胸骨圧迫が始まる。


 灯里は立てなかった。


 机の下では、二種類の配線が絡んでいた。


 非常停止回路は、番号を振った銅線と銀色のはんだ。


 椅子を射出した回路は、被膜を乱暴に剥いだ黒線と、透明な速硬化樹脂。


 射出回路の樹脂には、冨永の棺で見つかったものと同じ、匂いを吸着する添加剤が使われていた。灯里の鼻が拾ったのは、香りではない。香りを消そうとした跡だった。


 作った手が違う。


 悠人の装置は止まった。


 そのあと、人を殺すための装置だけが動いた。


「二人いる」


 灯里が呟いた時、正面の配信用モニターが暗転した。


 映像が切り替わる。


 八年前の取調室。


 二十四歳の灯里が映っていた。


 画面の中の彼女は、迷いのない目でカメラの外へ言う。


『他の誰かを疑う必要はありません』


 現在の灯里の顔と、過去の灯里の顔が、黒い画面に重なる。


『涌井悠人が犯人です』


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