第3話 貪――香師は二度来る
潔白は、証明するほど不気味になった。
「午前零時四十三分、あなたはどこにいましたか」
「冨永宗一郎の死亡現場です」
「証明できる人間は」
「捜査員が十二名。私のボディカメラ映像も残っています」
警視庁内部監察室。窓のない部屋で、灯里は同じ質問へ三度答えた。
机の向こうの監察官が、端末を回す。
灯里のIDカードは昨夜から一度も首元を離れていない。カード内部の固有鍵も一致し、単純な複製ではない。誰かが管理サーバーへ偽の認証結果を書き込んだ可能性が高かった。
つまり、相手は妹の筆跡を再現できるだけではない。警察が何を証拠と呼び、どの記録を信じるかまで知っている。
証拠保管庫の入退室記録。
早乙女灯里の職員ID。正しい暗証番号。扉の内側にある指紋認証まで、一度で通過している。
だが廊下の防犯映像に映る侵入者は、帽子とマスクで顔を隠していた。身長も体格も厚手のコートで分からない。
「カードの貸与は」
「していません」
「暗証番号を誰かへ」
「教えていません」
「指紋は?」
「切り取られた覚えはありません」
監察官は冗談を無視した。
「では、あなたになれる人間がいる」
「違います」
灯里は記録へ指を置いた。
「私の権限を使える人間です。指紋認証はゼラチン転写で破れる。必要なのは私が触れた物と、庁内システムの知識。それに、八年前の証拠がどこへ移管されたかを知る立場」
「警察内部の関与を疑うと?」
「疑わない理由がありますか」
言い切った直後、胸の奥がざらついた。
八年前も、自分はこうして一本の線を引いた。
香りがあった。
証言があった。
だから涌井悠人が犯人だ、と。
「現時点では、可能性の一つです」
灯里は言い直した。
監察官の眉が、わずかに上がった。
*
冨永の葬儀は、再開発地区を見下ろすホテルで行われた。
祭壇には慈善活動中の写真が並び、棺のそばでは遺族が報道陣のフラッシュに耐えている。生前に追い詰められた債務者の名は、一つも読み上げられない。
灯里と東は焼香の列から外れ、関係者の動きを見ていた。
「警察へ喧嘩を売った翌日に、財界人の葬儀へ来るとはな」
「監察へ答えただけです」
「お前の答え方は、だいたい喧嘩だ」
人垣が割れた。
青いネクタイを締めた長身の男が、冨永の妻の両手を包み込む。鷹宮都市開発会長、鷹宮廉司。犯罪被害者支援財団の理事長でもある。
五十八歳。白髪を整え、革手袋には雨粒一つついていない。
「宗一郎さんの無念は、必ず社会が晴らします」
低く、よく通る声だった。
カメラが向くと、鷹宮は遺族の前へ半歩出る。
「被害者が置き去りにされる事件を、これ以上許してはなりません。社会は疑いだけでは前へ進めない。遺族には、結論が必要です」
その言葉に、記者たちが一斉にペンを走らせた。
「早乙女警部補」
鷹宮がこちらへ顔を向ける。
「八年前は大変でしたね」
「どちらの八年前でしょう」
「あなたが事件を解決した八年前か、解決が誤りだとされた三年前か。どちらもです」
穏やかな笑みだった。
「財団として、捜査へ必要な施設や専門家を提供します。冨永さんは友人でした。必ず犯人を」
「まだ、犯人が一人とは決まっていません」
「なるほど」
鷹宮は感心したように頷いた。
「疑うことは大切です。しかし、疑いを長引かせれば、無関係な人間まで傷つく。最後には誰かが結論の責任を引き受けなければなりません」
「間違った結論は、事件をもう一つ作ります」
「結論を出さないことも、時に同じです」
鷹宮は一礼し、報道陣の中央へ戻っていった。
残ったのは、上質な革と乾いた杉の香り。
汗の匂いが、まるでない。
「苦手な手合いか」と東。
「正しいことしか言わない人は、だいたい苦手です」
「お互いさまだな」
灯里が睨んだ、その時だった。
携帯が震えた。
非通知。
「早乙女です」
『声は、変わっていないな』
静かな男の声。
耳へ届くより先に、八年前の取調室が蘇った。
『私がやりました』
録音に残る悠人の自白は、今も灯里の記憶へ焼きついている。抑揚のない声。諦めきった目。当時の灯里は、感情が消えていることさえ「覚悟した犯人の態度」だと解釈した。
頬を腫らし、唇を切り、それでも泣かなかった青年。
「涌井悠人」
東の表情が変わった。
『覚えていてくれたのか』
「冨永宗一郎を殺したの」
『部屋へ入れた。棺へ入るよう求めた。八年前、金を受け取って証言したと、本人の口で話させた』
「それを世間では誘拐と監禁と脅迫と言う」
『否定はしない。だが、殺してはいない』
「遺体は紙幣の中から出た」
『棺には安全弁をつけた。酸素濃度が下がれば自動で開く。右側面、展示パネルの三枚目。その裏を見ろ』
「自分で塞いで、無実を演出した可能性もある」
短い沈黙のあと、悠人が息を吐いた。
『その言葉で、あなたは一度、俺を殺した』
灯里の指が携帯を強く握る。
『香りがあった。証言があった。だから俺しかいない。今回も、そう結論づけたいのか』
「居場所を言って」
『まだだ。あなたは、真実より先に俺を捕まえる』
「当然でしょう」
『八年前、あなたは俺の言葉を証拠に合わせた。今度は、俺の言葉を疑ってくれ』
「都合のいい頼みね」
『疑えと言っている。信じろとは言っていない』
その違いが、灯里の胸へ細い針のように刺さった。
『だから、香師は二度来る』
「何?」
『一度目は、罪を語らせるため。二度目は――罪人を黙らせるためだ』
通話が切れた。
*
ショールームの展示パネルを外すと、棺へつながる細い管が見つかった。
安全弁は存在した。
さらにパネルの裏から、小型の記録端末が出た。音声データには、棺へ入れられる前の冨永の声が残っている。
『金は受け取った。だが、あの証言だけで有罪になったわけじゃない』
『誰から受け取った』
『知らない。鷹宮の会社の人間だ。寺の土地が要ると言われた。涌井を見たと言えば、誰も困らないと――』
そこで録音は途切れていた。次に記録されたのは、冨永が密閉された棺を内側から叩く音だけだ。
告白させる仕組みと、殺す仕組み。その間に、明らかな時間の断絶がある。
安全弁は存在した。
そして、透明な硬化樹脂で完全に塞がれていた。
「設計時には開く構造だった」
機械担当の鑑識員が言う。
「樹脂は後付けです。弁の内側にまで流し込まれている。棺を組んだ人間とは別の工程ですね」
澄香が樹脂片を温め、揮発した成分を採る。
「工業用の速硬化樹脂です。香りを吸着する添加剤が入っています。塗った人の体臭も、衣服の匂いも残りにくい」
澄香は樹脂片を証拠袋へ収めた。
「最初の人は、逃げ道を作った。次の人は、それを塞いだ」
「善人と殺人者、とは限りません」
「ええ。人を棺へ入れた時点で、最初の人も被害者ではない」
澄香の声は優しかった。だからこそ、断定の冷たさが残った。
「二人目の侵入者」
灯里は、棺の裏で匂いが途切れた場所を見た。
最初の人物が舞台を作った。
あとから来た人物が、安全装置を殺した。
「涌井の話が本当だと思うか」と東。
「安全弁を知っていた。装置を作った可能性は高いです」
「殺していないという部分は」
灯里は答えかけ、止まった。
信じるか、信じないかではない。
「裏づけます」
樹脂の流通記録は、一時間後に出た。
製造元は鷹宮都市開発の関連化学会社。ただし全国の建設現場で使われる一般品で、購入者までは追えない。
捜査本部の白板には、涌井悠人の写真が貼られた。
灯里はその下に「誘拐・監禁・装置製作」と書き、「殺人」の二文字だけを書かなかった。
書きたくて仕方がない自分に、吐き気がした。
「一文字空けたな」と東が言った。
「証拠がありません」
「昔のお前なら書いた」
「昔の私を褒めたいんですか」
「怖がってるだけだ。今度も間違えるんじゃないかって」
「怖がって何が悪いんです」
灯里はペンを置いた。
「怖がらずに一人を犯人にした結果が、八年前です」
東は答えなかった。古い革手帳の表紙を、親指で一度だけ撫でた。
その時、全員の携帯が一斉に鳴った。
動画配信アプリからの通知。
送信者名は〈六道香師〉。
画面には、狭い取調室が映っていた。
中央の椅子へ、白髪の男が拘束されている。
元警視、剛田一馬。
八年前、涌井悠人の取調べを指揮した男だ。
画面上部で、赤い数字が減っていく。
59:59。
58。
57。
スピーカーから、悠人の静かな声が流れた。
『次は瞋だ』
剛田が猿轡の奥で叫ぶ。
『今度は、間に合ってみろ。早乙女灯里』




