第2話 貪――死人の筆跡
「本人の字です」
筆跡鑑定官は、八年前に死んだ人間についてそう断言した。
警視庁科学捜査研究所。拡大モニターには、二つの「お姉ちゃんへ」が並んでいる。
一つは、昨夜、灯里の郵便受けに入っていた香包み。
もう一つは、妹の灯が高校時代に書いた誕生日カードだ。
「丸字を真似ただけではありません。筆順、筆圧の抜き方、文字間隔の揺れ。特に『姉』の三画目で一度止まり、右へ逃がす癖が一致しています。書き手本人と見るのが自然です」
「自然ではありません」
灯里はモニターを見たまま答えた。
「妹は八年前に死んでいます」
「ですから、問題はそこです」
鑑定官が別の結果を表示する。
「和紙も顔料インクも、製造から一年以内。古い手紙の流用ではない。昨日か、一週間前かは絞れませんが、最近書かれたものです」
死者の癖を持つ手が、現在の紙へ文字を書いた。
灯の字には、いつも感情が出た。嬉しいと文字の間が広がり、怒ると最後の線が紙を傷つけた。昨夜の「最初の業は、貪」は、静かだった。静かすぎて、遺書を書いた日の文字に似ている。
灯里はその類似を、誰にも告げなかった。
それは幽霊よりも、ずっと悪質だった。
「機械による筆跡再現は?」と東が聞く。
「可能です。ただし、ここまで筆圧の迷いを再現するには相当量の原本が要る。数文字の署名サンプルでは無理です」
灯里の家に残っている灯の手紙。
実家の廃寺に置き去りにしたノート。
あるいは、灯が生前に誰かへ送った文章。
知らない誰かが、妹の字を自分より長く見つめたかもしれない。その想像に、胃の底が冷えた。
「香の分析担当を呼んであります」
鑑定官の言葉と同時に、扉が開いた。
「失礼します」
淡い灰色のコートを着た若い女性が、一礼して入ってくる。二十八歳前後。肩で切り揃えた黒髪、薄い色の手袋。化粧品も柔軟剤も、ほとんど匂わない。
香りを扱う人間ほど、自分の匂いを消す。
「柊澄香です。寺院文化財の香木と薫物の修復をしています。警察の外部協力鑑定人として、何度かお手伝いを」
差し出された名刺には、香文化財修復士と記されていた。
「早乙女灯里です」
「存じています。香りから現場の時間を読む刑事さん」
「香りが読めるのは、時間の可能性だけです」
言いながら、灯里は自分が誰へ訂正しているのか分からなくなった。
澄香は気を悪くした様子もなく、証拠袋の香包みへ目を落とした。
兎の耳のような赤い水引。
彼女の指が、一瞬だけ止まった。
「この結びを知っていますか」
「古い寺院で、香を贈るときに見られる変わり結びです」
「名前は?」
「土地ごとに違います。兎結び、双葉結び、結願結び……。形だけで出所は決められません」
澄香はピンセットで包みを開いた。中から現れたのは、米粒ほどに刻まれた六種類の香材だった。
顔を近づけず、温めたガラス板の上で香りを立たせる。
「白檀、沈香、丁子、龍脳。それから甘松。最後の一種は劣化していて断定できません。配合は二つの試料で少し違います」
「二つ?」
「冨永さんの現場で採取された下層灰と上層灰です。下層には蜂蜜で練った痕跡がある。上層にはありません」
灯里の脳裏に、現場で感じたわずかな甘さが蘇った。
「湿度と燃焼温度で飛んだ可能性は」
「あります」
澄香は即座に認めた。
「逆に、別の人が似せて作った可能性もあります。今は、どちらにも決めない方がよいと思います」
東が灯里を横目で見た。
灯里は無視した。
澄香はふと、灯里の右手へ目を向けた。
「手袋の中で、爪を立てていますよ」
指摘されて初めて、掌に痛みがあると気づいた。
「癖です」
「痛みで考えを止める癖は、長く続けると自分の手を傷めます」
澄香は余った吸香紙を一枚折り、灯里の前へ置いた。
「こちらを折ってください。紙なら、傷ついても証拠にはなりません」
妹も、灯里が苛立つと紙ナプキンを渡した。破っていいよ、と笑いながら。
偶然だ。
灯里は吸香紙へ触れなかった。
「六道香という名を知っていますか」
澄香はわずかに微笑んだ。
「聞いたことだけ。人を裁くためではなく、香を聞く側が自分の偏りを知るためのものだ、と」
その説明は、寂惠の言葉と同じだった。
「誰から聞いたんです」
「修復の仕事では、亡くなった方の記録にも触れますから」
答えは柔らかく、どこにも引っかからない。
けれど灯里は、澄香の手袋の指先がまだ水引へ触れていることを見ていた。
*
冨永の金の流れを洗うと、八年前に一件だけ不自然な入金が見つかった。
五千万円。
送金元は、すでに清算された不動産管理会社。法人登記を三つ遡ると、鷹宮都市開発の休眠子会社へ行き着いた。
「証言の二週間前だ」
東が資料を机へ広げる。
「講演料でも顧問料でもない。名目は土地調査協力金」
「調査対象は?」
「浄円寺一帯」
事件後、住職を失った寺は閉じられ、土地は相場の三分の一で鷹宮都市開発へ売却された。現在、冨永が殺されたショールームを含む大規模再開発が進んでいる。
八年前の調書では、冨永は「暗くて顔は見えなかったが、香りで悠人だと分かった」と証言していた。
その香りを、当時の灯里が裏づけた。
『涌井悠人が日常的に使用していた香と、現場採取資料は極めて近似する』
自分の報告書が、金で買われたかもしれない証言へ科学らしい輪郭を与えたのだ。
「金で証言を買った」
若い捜査員が吐き捨てた。
「まだそうとは決めないで」
灯里が言うと、東が乾いた笑いを漏らした。
「お前がそれを言うようになったか」
「確認しているだけです」
「その確認を八年前にしてくれればな」
空気が止まった。
東は視線を資料へ落とした。
「悪い」
「謝る場所が違います」
誰に謝るべきなのか。二人とも口にはしなかった。
*
午後、灯里たちは澄香を伴ってショールームへ戻った。
紙幣の棺は撤去され、床には白い鑑識番号札だけが残っている。空調は停止されていたが、壁や布地には昨夜の匂いが薄く貼りついていた。
灯里はサービス入口から目を閉じて歩いた。
天然の白檀は繊維へ残りやすい。最初の侵入者は、香を焚いた部屋に長くいた服のまま入っている。入口、制御盤、展示台、棺。匂いは連続していた。
その人物は三度、制御盤と棺を往復している。途中で膝をついたらしく、床の低い位置にだけ沈香が濃い。機械を組み、動作を確かめ、冨永を中へ入れた。
一方、棺の裏側には、アルコールで拭われた細い帯がある。埃だけが不自然に消え、壁紙の接着剤が露出していた。何者かがあとからここへ立ち、自分の痕跡を消している。
「ここで一度、途切れる」
棺の背面で、灯里は足を止めた。
「二人目は?」と東。
「痕跡がほとんどない。汗も、洗剤も、皮脂も薄い」
「幽霊か」
「防護服、着替え、吸着剤。方法はいくらでもあります」
澄香が床へしゃがみ、壁際の埃を細い刷毛で集めた。
「香りがないことも、加工の結果かもしれません」
「加工?」
「匂いを残さない努力をした人がいた、という意味です。無香料と無臭は違います。人は、生きているだけで何かを残しますから」
澄香は採取袋を閉じ、資料を束ねた。白い紐を指へかけ、左右に小さな輪を作る。
兎の耳。
ちょうどその瞬間、灯里の携帯が鳴った。
「早乙女です」
『証拠管理室です。至急、確認していただきたい件が』
声が強張っている。
『八年前の浄円寺住職殺害事件。その保管証拠に欠品が見つかりました』
「何がないんです」
『凶器です。寂惠住職の胸部から発見された短刀が、ケースごと持ち出されています』
灯里は東を見た。
「入退室記録は」
数秒の沈黙。
『昨夜、午前零時四十三分。使用された職員IDは――』
相手が告げる前に、灯里の首筋が冷えた。
『早乙女警部補。あなたのIDです』
午前零時四十三分。
その時、灯里は冨永の棺の前にいた。
胸元のIDカードは、確かに自分の首から下がっていた。
誰かが妹の筆跡だけでなく、灯里の現在の身分まで使っている。
八年前の凶器を、もう一度この世へ連れ出すために。




