第1話 貪――紙幣の棺
一万円札が、死体の上に降っていた。
一枚。
また、一枚。
夜明け前の再開発ショールーム。壁一面の窓の向こうで、建設中の高層棟が黒い骨のように立っている。床には「誰もが豊かに暮らす未来都市」と銘打たれた模型。その中央に、本来なら最新住宅設備を展示するはずの円形ステージがあった。
そこへ、透明な棺が置かれている。
中で、男は旧一万円札に埋もれていた。見えるのは、見開かれた右目と、助けを求めたまま硬直した指先だけだった。
午前四時十二分。巡回警備員が、無人のはずの展示機器が稼働していることに気づいた。通報から三十分。入口の電子錠には破壊痕がなく、監視カメラは午前零時ちょうどから白い砂嵐を映している。
天井の投入口が乾いた音を立てる。
ひらり。
新たな札が男の顔を覆った。
「機械を止めろ!」
若い捜査員が叫んだ。
「触らないで」
早乙女灯里の声が、室内を切った。
黒い捜査手袋をはめ、長い髪を白い紐で束ねる。棺へ三歩近づいたところで止まり、目を閉じた。
一度だけ、吸う。
樹脂。機械油。古紙。人間の脂。微量の血。
その奥に、場違いな甘さがあった。
白檀を軸にした柔らかな立ち上がり。遅れて沈香の苦み。丁子と龍脳が細い刃のように鼻腔を撫で、最後に土を思わせる暗い余韻が残る。
ただし、完全に同じではない。
最初に届いた香りには、ごく薄い蜜の甘さがあった。次に鼻へ触れたものには、それがない。燃焼温度の違いか、湿度のせいか。灯里はそう処理した。
忘れるはずがない。
幼い頃、実家の浄円寺で聞いた香りだ。
「六道香……」
口にした瞬間、八年前の夜が喉元までせり上がった。
雨に濡れた石畳。
血の匂い。
畳に倒れた寂惠。
そして、灯里が犯人だと決めた男の横顔。
「早乙女」
背後から低い声がした。
振り返ると、東尚吾が缶コーヒーを二本持って立っていた。四十五歳。灯里の上司で、八年前から変わらない相棒だ。
「戻れ」
「戻っていません」
「顔が戻ってる」
灯里は答えず、棺の右手側へ回った。
壁には黒い煤がこびりついている。偶然できた汚れではない。香を押し当て、何度も線を重ねて書かれた一文字だった。
――貪。
むさぼり。
寂惠の声が記憶の底で蘇る。
『欲しがることが罪なのではありません。欲しいもののために、他人が見えなくなる。それが貪です』
「死因は?」と東が検視官へ尋ねた。
「現場判断なら窒息。ただし紙幣で気道を塞がれたというより、棺そのものが密閉されています。内部の酸素が落ちた可能性が高い。胸元の皮下出血を見る限り、相当暴れていますね」
棺の内側には、息で曇った痕跡が幾重にも残っていた。冨永は札に埋もれる前から、ここが墓になると知っていた。
「被害者、身元が出ました」
捜査員が端末を差し出した。
「冨永宗一郎、六十三歳。冨永金融ホールディングス会長。このショールームの土地も、元は冨永名義です」
画面には、慈善パーティーで笑う男の写真が表示されていた。低所得者支援を掲げる一方、系列の融資会社では過剰な取り立てが問題になっている。
灯里は写真ではなく、棺の中の口元を見た。
「口を開けてください」
「まだ検視官が――」
「外から見える。舌が赤い」
ライトが当てられる。
歯の裏と舌先に、血とは違う鮮やかな朱が付着していた。
「顔料か?」と東。
「おそらく朱肉。でも、事務用の油性インクじゃない。膠の匂いがする。寺の帳簿や朱印に使う古い練り朱です」
冨永は死ぬ前に、何かへ口づけさせられた。
あるいは、何かを舐めさせられた。
「早乙女警部補」
鑑識員が香炉の前で手を上げた。
小さな青銅の香炉が、棺から二メートル離れた展示台に置かれている。灰の表面には、半月形の焦げ跡が二つあった。
灯里は銀色の聞香札を取り出し、灰の上へかざした。熱の流れを確かめてから、顔を近づける。
上層の灰はまだ乾いている。下層は湿気を吸い、香脂が沈んでいた。
「二回、焚かれています」
「時間差は?」
「下が約三時間前。上は死亡直前。犯人は一度準備をして、あとから戻った」
東が眉を動かした。
「同じ犯人だと?」
「同じ香です」
「答えになってないぞ」
「同じ配合を使える人間が、何人もいると思いますか」
言い切ったあと、灯里は自分の声の硬さに気づいた。
東は何も言わなかった。ただ、古い腕時計へ目を落とした。
天井の装置が、また札を吐き出す。
ひらり。
「停止させます」と鑑識員。
「先に投入口と制御盤を撮影。それから電源を落として」
灯里は棺の足元へしゃがんだ。
透明板の内側には爪痕がある。冨永は生きたまま閉じ込められた。紙幣が胸まで、肩まで、口まで積もっていくのを見ながら。
欲しがった金に、呼吸を奪われた。
見せつけるための殺し方だ。
だが、見せたい相手は誰なのか。
機械が止まり、棺が開けられた。鑑識員が慎重に紙幣を除いていく。
その途中、一万円札ではない白いものが滑り落ちた。
細長い和紙の香包み。
口は赤い水引で結ばれ、二つの輪が兎の耳のように立っている。
灯里の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
「それ、開けないで」
透明袋越しに確認する。和紙は新しい。だが、紙を三度折って端を内側へ隠す包み方は、浄円寺で香を分けるときに使っていたものと同じだった。
水引の結び目だけは知らない。二つの輪を立てた、幼い兎のような形。見覚えがありそうで、記憶に指が届かない。
「中身は香木片か」と東。
「たぶん。指紋より先に、揮発成分を取ってください」
東は灯里の横顔を見たまま、捜査員へ尋ねた。
「冨永は八年前、何をしていた」
返答まで、数秒の空白があった。
「浄円寺住職殺害事件の公判で、目撃証言をしています。事件当夜、寺の裏門から出る涌井悠人を見た、と」
誰かが息を止めた。
涌井悠人。
灯里が香りを根拠に追い詰めた、元僧侶見習い。
有罪判決から五年後、証拠捏造が発覚して再審無罪となった男。
失った時間も、家族も、人生も戻らなかった男。
捜査員が、回収された紙幣の一部を掲げた。数十枚ごとに古い銀行帯封が残っている。押された日付は、浄円寺事件が起きた八年前の秋だった。
「倉庫か貸金庫で、八年間眠っていた金かもしれません」
「八年分の利息をつけて返された、って趣味の悪い冗談か」
「冗談で人は殺しません」
「正義なら殺すか?」
東の問いに、灯里は返さなかった。
「偶然じゃないな」と東が言った。
「現時点では、関連があると断定できません」
「今、断定したくせに」
「何をです」
「同じ香だから、同じ人間が来たと」
灯里は立ち上がった。
「八年前の事件は終わっています」
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「終わった事件の証人が、終わった寺の香を焚かれて死んでる」
「だから調べます。感情ではなく、証拠を」
灯里は香包みから目を逸らさなかった。
その手が震えていることだけは、見ないふりをした。
*
午前十時過ぎ、灯里は捜査本部の端末で八年前の証言調書を開いた。
『午後十時四十分ごろ、浄円寺裏門付近で涌井悠人を見ました。衣服から強い香の匂いがしたので間違いありません』
冨永の署名。
その下に、新人だった灯里の確認印。
画面を閉じても、文章は瞼の裏に残った。香りがした。だから、その人間がいた。あの頃の灯里にとって、それは疑う余地のない一本の線だった。
机の端へ、東が缶コーヒーを置いた。
「外れてもいいぞ」
「何がです」
「この事件だ。八年前の関係者が担当すれば、弁護側に突かれる」
「私を外したい理由は、公平性ですか。それとも心配ですか」
「両方だ」
「なら外れません。私が見落としたものなら、私が見つけます」
「見つける前から、見落としたと決めるな」
灯里はコーヒーに手を伸ばさなかった。
「灯里の鼻に誤りはない。そう言ったのは、東さんです」
東はしばらく黙り、やがて片方の缶を自分で開けた。
「鼻の話はした。お前の結論まで保証した覚えはない」
*
帰宅したのは、午前一時を回っていた。
古いマンションの廊下に、人の気配はない。
それでも灯里は、三歩手前で足を止めた。
香る。
白檀。
沈香。
そして、あの土のような余韻。
現場と同じ六道香。
灯里は拳銃へ手を添え、郵便受けを横から開いた。
中に、細長い和紙の包みが一つ。
赤い水引が、兎の耳のように結ばれている。
鑑識用手袋を重ね、ゆっくり取り出す。
表には、青いインクで文字が書かれていた。
たった一行。
けれど灯里は、その筆跡を見間違えなかった。
丸い「お」。右へ流れる「姉」。最後だけ強く跳ねる「へ」。
八年前に死んだ、妹の字だった。
『お姉ちゃんへ。最初の業は、貪。』




