3話 手放したくない宝物
「誰の許可を得て……僕のモノを傷つけてるの?」
真紅の瞳から、一切の温度が消えていた。
沈黙。男は、背後から自分の首元に添えられた黒い刃を見つめることしかできなかった。
「あ、あ、おま……っ、なんだ、これ……っ!?」
凍てつく死の冷気。男の脚はガクガクと震えている。
「お前だったのか。コイツに、飛び降りなんてバカな真似させようとした生ゴミは」
死神の真紅の瞳がギラリと光る。
「これから極上の輝きを放つはずの魂が……あやうくペチャンコになるところだったんだぞ」
「たっ、魂……? 何を言って……ヒィッ!?」
チャリッ。
死神が手首を僅かに捻ると、黒い刃が男の首筋ギリギリに触れる。
「お前、コイツの彼氏だろ」
死神は短く、鋭く吐き捨てた。
「大事なやつなんだろ!? なのに、なぜお前はコイツを苦しめる!!」
鼓膜を揺らす怒声と、首筋の刃から伝わる本物の殺意。圧倒的な強者からのプレッシャーに完全に錯乱した男は狂ったように叫んだ。
「ち、ちがうっ!! コイツはオレのために働くのが幸せなんだよ!!」
死神の絶対零度の声に、男は自己保身のための醜い言い訳を喚き散らした。
「親もいねぇし、気味の悪い見た目で誰からもハブられてたゴミなんだよ! オレが拾って優しくしてやったんだ! だからオレのために命使うくらい当然だろ!! 有効活用して何が悪い!!」
「っ……」
──気味の悪い見た目。誰も見向きもしないゴミ。
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、オリビアの脳裏に、黒く濁った泥のような過去がフラッシュバックした。
早くに交通事故で両親を亡くし、天涯孤独になった。
『何あの子……なんか不気味』
ハーフ特有の明るい髪と瞳の色は、周囲から浮き、遠ざけられるための理由にしかならなかった。どこに行っても馴染めず、ようやく就職した先も、心身をすり減らすだけのブラック企業。
『あっ。ねぇキミ! 可愛いね』
そんな絶望の底で、唯一声をかけて、優しくしてくれたのが彼だった。こんな自分を見てくれた人は、他にいなかった。だから、少しずつお金を搾取されるようになっても、暴言を吐かれるようになっても、彼を手放すことができなかったのだ。
『オレの幸せのために、死んでくれよ』
そう囁かれた時、オリビアは不思議と納得してしまっていた。
そうか。それを彼が望むなら。
空っぽな自分の命でも、それで誰かが幸せになれるのなら、それが私の価値なんだと──。
「……有効活用、ねぇ?」
絶望に沈みかけたオリビアの意識を、ひときわ冷たく、恐ろしい声が引き戻した。顔を上げると、男の背後に立つ死神が、ひどく歪んだ笑みを浮かべていた。
「ほんっと……腐った魂のやつって、例外なくみんな面白いこと言うよね」
背後から響く冷ややかな声に、男の肩がビクッと跳ねる。
「ねぇ……」
スッ、と。
死神が大鎌の柄を僅かに捻ると、鋭利な刃先が男の首の皮を薄く撫でた。チリッとした痛みと共に、男の首筋から一筋の赤い血がツーッと流れ落ちる。
「ヒッ……ァ……ッ!?」
「お前みたいな底辺のウジ虫が……どの口でコイツの価値を語ってるわけ?」
ピリリとした殺気が肌を刺す。
「お前には一生かかってもわからないだろうな。コイツの……オリビアの魂がどれほど美しいのか」
「っ……」
オリビアのエメラルドの瞳が大きく見開かれた。
「ゴミ扱いされて、理不尽に踏みにじられても……それでもオリビアは、決して魂を腐らせなかった。過酷な環境でも、必死に自分の輝きを保ち続けたんだ!!」
死神の静かな、けれど熱を帯びた声が六畳の部屋に響く。
「オリビアは最高だ!! 僕が見つけた中で一番綺麗で、手放したくない宝物なんだよ!!」
ドクンッ、と。
オリビアの胸の奥で、大きく甘い音が鳴った。
自分は誰にも見向きもされない、都合のいいゴミなのだと思っていた。でも、目の前にいる死神は、そんな自分を『最高だ』と、真っ向から肯定してくれている。誰かに、こんなにも力強く価値を認められたは生まれて初めてだった。
「死神さん……」
熱いものが込み上げ、視界が滲む。ぽろりと、一粒の涙が頬を伝い落ちた。
「だから……」
ガシッ! と、素早く死神の空いた左手が男の髪を乱暴に掴み上げた。
「あぐっ!?」
大鎌を首元に添えたまま、強引に男の首を捻り、無理やり自分の方へと振り向かせる。鼻先が触れ合うほどの至近距離。
「その薄汚い口で、二度と彼女の価値を語るな」
ギリッ、と。髪を掴む手にさらに力が込められた。
「次、その口を開いたら、舌ごと命を刈り取ってやる」
「あ、あ、あああぁぁぁぁぁぁっ!!」
死神の本気の殺気を浴びた男はもがきながら後ずさった。そして、転がるようにして玄関から飛び出し、ボロアパートの廊下を絶叫しながら逃げ去っていく。
「ば、化け物ぉぉぉっ!!」
遠ざかる情けない悲鳴。やがてそれも聞こえなくなり、後には水を打ったように静まり返った六畳間と、呆然とへたり込むオリビアだけが残された。
(終わった、んだ……)
まだ状況に頭が追いつかない。けれど、命を奪いにきたはずの相手が、自分を庇ってくれたことだけは確かだった。張り詰めていた緊張の糸がふっと緩む。オリビアが安堵の息を吐き出しかけた、その静寂を──。
「あーあ! 最悪だ!!」
死神の、甲高く響く絶叫が木端微塵に打ち砕いた。
「せっかく床、ピカピカに磨いたのに! あいつ、土足で上がりこみやがって!! 信じらんない、常識なさすぎだろ!!」
大鎌を虚空に放り投げた死神はピンクのエプロンを翻し、雑巾がけを再開した。キュッキュッ! と、小気味良い摩擦音が部屋に響く。
「あっあの……死神さん」
オリビアは、雑巾がけをしているその背中に向かって、おそるおそる声をかけた。
「死神さんのさっきの言葉、すごくうれしかったです。あんな風に言ってくれた人なんて初めてで……。本当にありがとうございました」
震える声に、ありったけの感謝を込めて。ほんのりピンクに染まるオリビアの頬。
その言葉に、ピタリ、と死神の動きが止まる。
ゆっくりと振り返った死神の、透き通るようなルビーの瞳。オリビアのエメラルドの瞳と、静かに視線が交差する。窓から吹き込む夜風が、二人の間を優しく撫でていく。
そこには確かに、言葉にできないほど甘く、温かな空気が流れる──はずだった。
「はあ!? なーに言ってんだ?」
死神は雑巾を片手に、心底不思議そうな顔で言い放った。
「別にお前のこと助けようなんて思ってない。変な勘違いすんな!!」
「え!?」
穏やかな空気を死神がズバッと切り裂いた。
「僕は、あんな粗悪で腐った魂を、お前の『魂』に近づけさせたくなかっただけだ。さっき『最高だ』って言ったのも、お前の魂のことだからな!? お前っていう『人間自身』には、これっっっっぽっちも興味ないから!!」
「は、はぁ!?」
『これっぽっちも』、の部分の力説具合がひどい。
「むしろ、あんなクソ野郎にホイホイ騙されて都合よく使われるとか、どんだけアホなの? 脳みそどうなってんのか疑うレベルなんだけど」
「ひ、ひどいっ!!」
さっきまでの感動を全額返金してほしい。
オリビアは思わず、ぷくーっと両頬を膨らませた。
「なによ、すごく感動したのに……」
急激にしょんぼりして肩を落とすオリビアに構わず、死神は眉間にシワを寄せた。
「なんだよ。せっかく守ってやったのに。まじで、腐った魂になんて近づかねぇ方がいいんだぞ?」
「あっそう……」
「だってお前、腐った魂って知ってるか? 緑の苔みたいなの生えてんだよ」
「ふーん……」
オリビアは体育座りをしながらそっぽを向く。そんなオリビアにお構いなしに、死神は床の掃除をしながら続けた。
「あと、なんかにょろにょろ〜って動いて気持ち悪くてな」
「へぇ〜……」
「あと、めっちゃ臭いの」
「……魂って臭いとかあるの?」
「うん。カメムシとドリアンを三日煮込んだみたいな匂い」
「ぷっ……なにそれ」
「これ、マジだからな」
大真面目な顔でとんでもない例えを出してくる死神に、オリビアはたまらず吹き出した。口は悪いし、頭の中は魂のことばっかり。
だけど──不思議と、このやり取りがひどく心地よかった。
(……でも。私自身には、やっぱり何の価値もないんだ)
ふと現実に引き戻され、オリビアの笑顔に暗い影が落ちる。結局、彼が褒めてくれたのは私の『魂』だけで、私という人間が空っぽなことに変わりはないのだから。
そんな彼女の横顔を見つめ、ふと何かを思ったのか。死神は手を洗い、エプロンと三角巾を取ってオリビアへと手を差し伸べた。
「……いくぞ」
俯きかけたオリビアの耳に、唐突な声が降ってきた。
「行くって……どこに?」
「僕のとっておきの場所」
「ちょっ……きゃあああああ!?」
次の瞬間。オリビアの体はふわりと宙に浮いていた。
死神に軽々とお姫様抱っこされたかと思うと、彼はそのまま開け放たれた窓枠に足をかけ、夜の空へと躊躇なく飛び出したのだ。
「うわあああ!! なに!? なにが起きてるの!?」
鼓膜を打つ風の音。胃がフワッと浮き上がるような強烈な浮遊感と共に、二人の体は夜の闇を切り裂いてぐんぐんと上昇していく。
「あぁ、そうか。人間は自力で飛べないもんな。どうだ? 風を切るの、気持ちいいだろ?」
「いやいやいや!! いきなり上空になんて連れて来ないでよ!! 私、高所恐怖症なんだってば!!」
「さっきまで屋上から飛び降りようとしてた奴に言われてもなぁー?」
的確すぎるツッコミに言い返す余裕もなく、オリビアはぎゅっと目を瞑り、死神の首に必死でしがみついた。服越しに伝わってくる、細身なのに思いのほかがっしりとした頼もしい体つき。
強い夜風が、オリビアの金髪を乱暴に撫でていく。
「おい。目あけろ」
「だ、だから私、高いところは……っ」
「いいから」
有無を言わさぬ、けれどどこか優しい響きを持った声。その声に促されるように、オリビアは薄く目を開けた。
「えっ……うわぁ……!! すごい……」
視界に飛び込んできた光景に、オリビアは息を呑んだ。眼下には星を散りばめたような街の煌びやかなネオンが広がっていた。夏の夜の香りが、優しく鼻をくすぐる。
「なんだか、夢みたい……」
今夜、死のうと思っていたのに。
さっき屋上から見下ろしたのと同じはずの景色が、今はどうしてこんなに、美しく輝いて見えるのだろう。
「……死神さん」
「グリムだ」
「えっ」
「死神もいっぱいいるからな。お前らでいう『人間さん』って呼ばれてるみたいで、なんかやだ」
夜風に髪を揺らしながら、死神──グリムは不満げに唇を尖らせた。その綺麗な横顔を見つめながら、オリビアはポツリとこぼす。
「グリム……。私、自分のこと、誰にも必要とされない空っぽのゴミだと思って生きてきたの」
グリムは言葉を遮ることなく、黙ってオリビアの話に耳を傾けていた。
「だから……あなたに『手放したくない宝物』って言われて、すごく浮かれちゃったんだ。魂のことなのにね。私自身には、何の価値もないのに……えへへ」
自嘲するように笑って、オリビアは瞳を伏せた。自分で口にしておきながら、ずしりと胸の奥が重くなる──が。
「ばーーーーか」
グリムの呆れたような、けれど力強い一括が、夜空に響いた。
「魂はな、最初はみんな似たようなもんなんだ。生き方で色も形も、輝き方も変わっていく」
「え……」
「誰にも愛されなくても、お前は腐らなかった。辛い目に遭っても、誰かの幸せを願うことをやめなかった」
夜景の光を反射する真紅の瞳が、真っ直ぐにオリビアを射抜く。
「だからお前の魂は綺麗なんだよ。お前が今日まで、そうやって強く生きてきたから」
「っ……」
「魂の専門家の死神が言ってるんだ。もっと自信持て」
「っ……ぁ……」
ボロボロと。せき止めていた涙が、とめどなく溢れ出した。
肯定された。空っぽだと思っていた自分の人生を、自分の選択を、こんなにも力強く。
オリビアは泣きじゃくりながら、ぎゅっとグリムの温かな胸の中に顔を埋めた。
「おい、星見ねえのかよ。人間は好きだろ? 星」
「……うん」
きっともう二度と、こんな澄んだ星空と煌びやかな街の光を見ることはできないかもしれない。
だけどそれでも、今だけは。この人の温かな胸の中にいたいと、心からそう思ってしまった。
「さぁ、着いたぞ。オリビア」
ふわり、と。
耳元で甘く名前を呼ばれ、オリビアのつま先が静かに地面へと降ろされた。
「間に合ってよかった。この時間じゃなきゃダメだったんだ。僕の『とっておきの場所』だ」
「グリム……」
顔を上げると、そこには夜景の光よりも眩しい、グリムの無邪気で煌びやかな笑顔があった。
(とっておきの場所……。わざわざ、私に見せるために?)
トクン、トクンと、自分の心臓の音がうるさいくらいに跳ねる。
「お前と来たかったんだよ」
「えっ……」
グリムの視線の先をオリビアがゆっくりと振り返った──次の瞬間だった。
ウィィィーン。
『ポポーポポー♪ ポポーポポー♪』
脳天気で、チープで、やけに耳に残る軽快な電子メロディ。
「ドラッグストア……?」
感動の涙が一瞬にして虚無へと帰したオリビアの前で、グリムは拳を握りしめた。
「当たり前だろ!! あんなきったねぇクソ男に部屋を土足であがられたんだぞ!? もっと徹底的に掃除しないと!!」
「え、あ、うん……?」
「ということで、財布よろしくな!!」
「はあああああ!?」
グリムはオリビアを降ろすなり、煌々と蛍光灯が輝く店内へと駆け出していった。
「閉店五分前滑り込みセーフ! あ〜、最新の掃除グッズ売ってねぇかなぁ……っ!!」
ロマンチックな余韻など微塵もない。
死神の浮き足立つ背中を見送りながら、オリビアは大きくため息をつき、そしてまた、くすっと笑ってしまった。




