第九話 雨上がりの梨
正式証言官としての最初の仕事は、誰にも使われない記憶を選ぶことだった。
依頼人は年老いた庭師。亡くなった主人から最後に預かった言葉を、相続人へ伝えるために証言院を訪れた。
証言室の机には青い証言札が一枚ある。
記憶の範囲。使用目的。伝達先。保管期限。ミレイユは庭師と一つずつ確認した。
「旦那様は、北の庭を売らないでほしいとおっしゃいました」
庭師は言った後、首を横へ振る。
「今のは、相続人へ渡したい言葉です。けれど、その前に、私だけへ礼を言ってくださいました」
声が止まる。
「その礼まで、証言に入れる必要がありますか」
ミレイユは問い返さなかった。
必要かどうかを決めるのは庭師だ。相続を動かす事実として残すか、誰にも渡さず自分の中へ置くか。
「別々に扱えます。庭についての言葉だけ証言し、あなたへのお礼は保管しない選択もできます」
「そうすれば、私が忘れたら終わりですね」
「はい」
庭師は窓の外を見た。春の雨が硝子を細く流れている。
「それでよいです。あの方が私にくださったものですから」
ミレイユは青い札の保管欄へ、私的記憶を含めないと記した。庭師は自分の名で署名する。
証言は短く終わった。
相続人へ渡す記録には、北の庭を残す願いと理由だけが収められる。庭師の働きへ感謝した声、その時の表情、二人だけが知る土の匂いは、どこにも写さない。
仕事を終え、ミレイユは使用しなかった記憶を封じた。
封印とは、忘れる術ではない。自分から開かないと決め、他者が尋ねても答えない印を心の内へ置く。これまでは、覚えているなら差し出せると考えていた。
今は、覚えていても使わない。
それも選べる。
庭師を送り出した後、同席していた上級証言官が記録を確認した。
「初任務、完了です。午後は次の案件を入れず、休養にしてください」
「まだ働けます」
答えてから、ミレイユは口を閉じた。
働けることと、働きたいことは同じではない。
上級証言官は予定表を持ったまま待っている。休めと命じず、次を入れるとも決めない。
「午後は休みます」
自分で言うと、肩のあたりに余分な布が一枚あったことへ気づく。力を抜いても、誰の予定も崩れない。
認証から十日。証言院の仕事は、まだ新しい規則の連続だった。
青い札には必ず本人の署名がある。依頼人が黙れば、沈黙も記録の一部として尊重される。証言官が疲れた時は、別の者へ交代を申し出られる。
ミレイユの机には、朝札を入れる箱がない。
その代わり、引き出しに自分の青い証言札が増えていた。誰の記憶を、どこまで扱ったか。何を扱わないと決めたか。すべてにミレイユ・ローデンと署名してある。
家族へ返した青い札には、ほとんど名を書かなかった。
家の昨日として読まれる紙に、自分の名を残す必要はないと思っていた。
今は一枚ごとに書く。
午後、雨が上がった。
証言院の裏庭では、庭師たちが新しい苗を植えている。認証式を終えた証言官には、記念に一本の木を選ぶ習慣があるという。
果実、花、木陰。候補は多かった。
ミレイユは梨の苗を選んだ。
「この土地なら、実がつくまで三年ほどです」
庭師が根元へ土を寄せる。
「初年は花を落とします。木を育てるためです。実を急ぐと枝が弱くなりますから」
三年。
以前のミレイユなら、遠いと感じただろう。来年までに何を整え、誰の役へ立つか。日付はいつも、他人の予定を支えるためにあった。
三年後の自分が何をしているか、今は決めなくてよい。
それでも、梨が実るのは楽しみだった。
鞄から銀の名紐を出す。
家系図から外された時のまま、細い紐の先に銀板が付いている。ミレイユ・ローデン。父が削る手続きを止めたため、名は残った。
家へ戻すために使う予定はない。
ミレイユは銀板を柔らかな布で包み、苗を支える木札へ結んだ。強く締めれば幹を傷つける。風で外れない程度に、指一本分の余裕を残す。
銀板が濡れた葉の下で揺れた。
「こちらでしたか」
背後から聞こえた声に、振り返る。
リュシアンが小さな籠を持って立っていた。正装ではない。濃紺の上着に、片眼鏡も外している。
勤務中はベルナール院長と呼ぶ。今は午後の休養時間で、彼も職務章を付けていなかった。
「リュシアン様」
初めて名で呼ぶと、彼は足を止めた。
「その呼び方でよろしいのですか」
「はい。仕事の外では」
「ありがとうございます」
すぐに彼女の名を呼び返さないのが、彼らしかった。
リュシアンは苗へ近づき、銀の名紐を読む。
「良い場所を選びましたね」
「雨が残る場所は避けた方がよいと教わりました。少し高くなっているので」
「実がなる頃には、この建物の窓を越えるかもしれません」
二人で見上げる。今はミレイユの肩にも届かない。
籠から、布に包んだ皿が出てきた。薄く切った梨と、固いパン、淡い色のチーズ。豪華な祝いではない。午後の軽い食事だった。
「今朝、市場で見つけました」
梨の季節にはまだ早い。南から運ばれた実は小さく、少し青い。
リュシアンは皿を渡さず、庭の卓へ置いた。
「以前、雨の後に運ばれた梨をご覧になっていました」
硝子廊での調査の日。
ミレイユは、梨が好きかと尋ねられて答えられなかった。あの時、彼は書類へ何も記さなかった。
「記録していらしたのですか」
「いいえ」
「では、覚えて」
「はい」
言い切った後、リュシアンは皿をミレイユの側へ押さない。
「ただ、梨がお好きだと決めたわけではありません。試してみて、好みでなければ残してください」
「残してもよいのですか」
「私が食べます」
ミレイユは一切れ取った。
歯を立てる。固く、冷たい。甘さは薄く、その後に酸味が残る。
幼い日に木の下で食べた梨と似ていた。
「好きです」
言葉が出た。
誰かの好みを答える時ほど速くはない。それでも、迷った末の自分の答えだった。
リュシアンは笑みを作り、もう一切れ取る。
「覚えていてくださったのですね」
「忘れたくありませんでした」
その言葉の後、彼は籠の中から紙を出しかけ、手を止めた。私的な記録を何でも残す癖。ミレイユが止めた時、理由を求めないと約束した人。
紙は戻される。
「書かないのですか」
「今日は、記録にしません」
梨を食べた日が、紙に残らなくてもよい。
ミレイユは酸味を舌の上で確かめた。明日も覚えている。何年か後に薄れても、この時間の価値が失われるわけではない。
リュシアンが苗を見る。
「三年後、最初の実を一緒に見られたらと考えました」
そこで言葉を切る。
「ですが、約束を求めるつもりはありません。三年は長い。あなたの仕事も住む場所も、変わるかもしれない」
「リュシアン様は、見たいのですか」
「見たいです。あなたと」
彼は正直に答えた。
望みを隠さない。それでも、相手の返事を所有しない。
「覚えていたことを、あなたに返事を迫る理由にはしません」
風が葉の水滴を落とした。銀板の上を一筋の水が走り、刻まれた名が明るくなる。
ミレイユは、この人の隣にいる自分を考える。
証言院長と候補者ではない。記憶を守る者と守られる者でもない。残したいものが多すぎる人と、残すものを自分で選び始めた人。
互いに間違えた時、止めると言える。
謝罪を翌日へ持ち越せる。
答えを変えることもできる。
「私のことは、何と呼びますか」
「今はミレイユさんと」
「仕事の外でも」
リュシアンは彼女の問いの先を決めつけなかった。
「希望を聞いてもよろしいですか」
「ミレイユ、と」
名を呼ばれるまでの間が、少し長い。
「ミレイユ」
家系図へ結ばれた時とは違う。
役目を求める朝に呼ばれた時とも。
その名を聞いても、何かを返さなければとは考えなかった。
ミレイユは梨をもう一切れ取る。今度は酸味が来ると知っている。知っていて選ぶ味は、最初より甘かった。
「三年後の約束は、まだしません」
「はい」
「来年、花がついたら、その時に次を決めたいです」
「分かりました」
リュシアンはそれ以上求めない。
梨の苗は、風に合わせて細く曲がり、元の位置へ戻る。銀の名紐には余裕がある。枝が育っても、すぐには食い込まない。
ミレイユは自分の名へ触れた。
明日の予定は空いている。空白を誰かの頼みで埋める必要はない。朝になっても、今日の好みを家族へ説明する札は書かない。
その代わり、自分で選んだ言葉を一つ、隣にいる人へ渡す。
「来年の梨も、あなたと覚えていたい」




