第8話
彼女は目の前で膝をついたまま自分を見つめるアルドリックを見下ろし、わずかに肩をすくめる。
「本当に……勝手で、強引で、救いようのない人ね」
その声の底に敵意の棘はなく、ただ過剰すぎる熱量をすべて飲み込んだ者の乾いた諦めと、わずかな体温のゆらぎが滲んでいた。
「私の今後を更地に変え、社交界における私のイメージを歩く処刑場へと変えておいて、よくもまあそんな平然とした顔で愛を囁けるものだわ。まったく、罪作りなことよ」
「……コーデリア嬢?」
アルドリックの瞳が、わずかに揺らぐ。常に完璧な計算で動いていた彼が、初めて見せた一瞬の硬直だった。だが、コーデリアはその冷たい隙間を縫うように、ふっと柔らかく、しかしどこか妖艶ですらある美しい笑みを向ける。
「いいわ。そこまで私のことを見てくれて、私のために全てを敵に回す勢いで泥を被ってくれたんだもの。……私の平穏な日常を狂わせたその責任は、一生かけて一番近くで、みっちりと取ってもらうから覚悟しなさい」
そう言って、コーデリアは自分の手袋をそっと外した。そして、白磁のように冷たいままで震えていたアルドリックの手を、今度は自分からそっと、しっかりと握り返す。
「喜んで受けてあげるわ、アルドリック様。私の、狂った婚約者様?」
その言葉を聞いた瞬間、アルドリックの呼吸が止まった。いつも余裕を湛え、周囲を凍らせるほどの知性と暴力の化身であった彼の顔に、見開かれた瞳孔の揺れとともに衝撃が走る。そして次の瞬間、彼の端正な顔に作り物ではない、生涯で一番の、嘘偽りのない心からの美しい笑みが咲いた。それは、長い間暗闇の中で焦がれ続けた宝物をようやく手に入れた子供のような、純粋な熱量を帯びていた。
「……っ、あぁ。死んでも離しませんよ、僕の最愛の君」
アルドリックは愛おしそうに目を細めると、その手にしっかりと自分の額を預け、震える唇をそっと押し当てた。
「いやぁ、若いって素晴らしいねえ」
「これで我が家の安泰もバッチリだな!」
その二人の様子を少し離れたソファから眺めていた父と母は、大粒の涙をこぼしながら盛大に拍手を送り、兄は微笑むのだった。こうして、前代未聞の最悪な卒業パーティーの幕引きから始まった二人は、周囲の恐怖と畏怖を一身に集めながら、最強にして最高(?)の婚約者同士となった。
数日後、その噂は瞬く間に社交界を駆け巡った。
「えっ?あの公爵家の長男アルドリック様と、元・王太子妃候補のコーデリア様が……正式に婚約された、だと……!?」
社交界のサロンに、重苦しい波が再び走り抜けた。
あの卒業パーティーの夜、王家を半壊させ、王太子を社会的に消し去った。歩く処刑場ことアルドリックと、あの女を怒らせると怪力令息が壁に埋めに来ると恐れられるコーデリア。その二人が結ばれたという噂が駆け巡った。貴族たちは一斉に顔面を蒼白にさせ、手にしたグラスを取り落とした。
「お、おい、やばいぞ……!この国の治安と、実質的な権力構造のすべてが、あの二人の中に完全に収斂されてしまったじゃないか……!」
「もう誰もあの二人に逆らえない……!下手に目をつけられたら、一瞬で物理的にこの世から消去されるぞ……!」
社交界の全男性陣が冷たい汗をにじませて膝を震わせ、二度と彼女の領域に近づかないことを誓い合った一方で、当の公爵邸は、世間の戦々恐々とした空気とは裏腹に、この上なく平穏な気配に包まれていた。
午後日差しの降り注ぐ、公爵邸の広大な庭園。
緑豊かな木々に囲まれた優雅なガゼボの中には、白いレースのテーブルクロスがかけられ、香ばしいダージリンティーの香りがふわりと漂っている。
「はい、コーデリア嬢。熱いですから、少し息を吹きかけてからお召し上がりください」
「もう……アルドリック様、私は子供じゃないんですからね。そんなに甲斐甲斐しくお世話を焼かなくても大丈夫よ」
そう口では文句を言いながらも、コーデリアの頬はほんのりと朱色に染まっていた。
かつては作った笑顔を貼り付け、重責と不条理な重圧に耐え続けていた彼女の表情は、今のところ見違えるほど柔らかく、ほどけていた。アルドリックは彼女のために手ずから紅茶を注ぎ、焼き菓子をそっと差し出す。
外の世界からは魔王夫婦などと恐れられているが、少なくとも今のこの空間においては、互いの姿しか目に入っていない一組の恋人同士にしか見えなかった。
コーデリアはガゼボの特等席から優雅にカップを傾け、カップの縁からふぅっと息を吹きかける。
心の中で、彼女は胸の奥にじんわりと広がる微かな温もりをそっと指先で確かめていた。
確かに、周囲の貴族たちは顔色を失って遠巻きに逃げ出すし、社交界の話題のほとんどは彼らの恐ろしさでもちきりだ。だが、これほどまでに自分を全肯定し、世界を敵に回してでも守り抜いてくれる人は他にいない。他の男が勝手に遠ざかっていくおかげで、鬱陶しい影が寄りつく隙すら消え去った。
「ふふ……悪くないわね、こういうのも」
紅茶の芳醇な味わいとともに、彼女は小さく呟いた。
その時だった。
「ひぎゃああぁぁぁっ!重い!死ぬ!本当に死ぬからぁぁぁっ!!」
静かな庭園の空気を切り裂くように、悲鳴のような絶叫が響き渡る。
視線を向ければ、広大な訓練場のトラックを、見覚えのある金髪の青年が汗まみれになりながら必死の形相で走っていた。その腕には、相変わらず一〇〇キロはあるはずの黒い石がガッチリと抱えられている。
「あ、ライトがまたペースを落としていますね。少し気合を入れ直してきましょうか?」
アルドリックがふっと涼やかな笑みを浮かべ、席を立ち上がろうとする。
「ちょっと、待ちなさいよアルドリック様。今は私のティータイムの邪魔をしないでちょうだい。あの子はもう少し走らせておけばいいじゃない」
「はは、承知しました。では、もう少しゆっくりお茶を楽しみましょう、僕の愛しい婚約者様」
穏やかな微風がガゼボのレースカーテンを揺らし、二人の楽しげな笑い声を乗せて青空へと溶けていく。
絶叫を上げる弟を背景に、紅茶と甘いお菓子、そして圧倒的な暴力と愛に満ちた未来の最強夫婦の日常は、これからも末永く平穏に続いていくのだった。




