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商業化(予定も含む)

【書籍化企画進行中】私の婚約者は悪役令息になる予定なので、悪いことをする暇もないほど楽しい人生にしてみせます

作者: 春樹凜
掲載日:2026/09/15



 王都の外れにある、貴族の邸宅。

 その一室で、一人の青年が頭の中で完璧な計画を練り上げていた。


 まずは王太子派の資金源である商会に細工をして、帳簿を偽造させる。

 そこから芋づる式に脱税の証拠を捏造し、彼らが頼りにしている貴族の信用を地に落とす。

 最後に、王家主催の夜会でその事実を白日の下に晒せば、相手は一族郎党、破滅する。


 計画の成功を予感し、青年は薄く微笑む。

 蝋燭の薄暗い灯りに照らされた男の横顔は、彫刻のように美しく、そして底冷えするほどに冷酷だった。


 彼の名前は、グレイソン・ヴァン・オズワルド。

 いずれ王国を揺るがす大罪人――いわゆる『悪役令息』として名を馳せる男である。


 類稀なる知略、執念深さ、そして目的のためなら他者を蹴落とすことを躊躇わない冷徹さ。

 彼はその持てる才覚のすべてを、悪辣な陰謀を巡らせることに注ぎ込もうとしていた――。




 ――という、前世で読んだ小説の描写を、リリー・エバンスは目の前の紅茶からふわりと立ち上る湯気を見つめながら、唐突に思い出した。


 前世が日本人だったことも、自分が公爵令嬢なことも、この世界がかつて読んだ小説の中らしいことも、驚くべきことではある。

 だが今は、それどころではない。

 カチャン、とティーカップをソーサーに置く手がわずかに震えた。


 記憶の中にあるグレイソンは、小説の中でまさに悪逆非道の限りを尽くす。

 王太子派を狡猾な罠で陥れ、無実の貴族たちを次々と破滅させ、裏社会の犯罪組織とも平然と手を結ぶ。

 そして最後は国家反逆罪に問われ、断頭台の露と消える運命だ。


「…………」


 リリーは無言で、目の前に座る少年、グレイソン・ヴァン・オズワルドを見つめた。

 なんという運命のいたずらだろうか。

 その悪役令息は、なんとリリーの婚約者だったのだ。


 原作のグレイソンは、公爵家の跡取りとして幼い頃から徹底的に教育されていた。

 勉学も剣術も礼儀作法も、求められるのは常に完璧。

 彼の意思は一切求められず、そのことにグレイソンは、何の疑いも持っていなかった。


 そんな彼が大きく変わるきっかけとなったのは、十八歳の時。

 当時、オズワルド公爵は第二王子派に属していた。

 ある日、父からグレイソンに一つの命令が下される。


「王太子の政策を失敗させろ」


 当然、褒められた命令ではない。

 けれどグレイソンにとって、父の命令に従うことはそれまでと何ら変わらなかった。


 求められた結果を、完璧に出す。

 ただそれだけのはずだった。


 ところが、実際に策を練り始めてみると――これが、妙に面白かったらしい。

 政敵の弱点を調べ、相手がどう動くかを予測し、その先へ罠を張る。

 決められた答えも手順もない。

 すべてを自分の頭で組み立て、自分の思い描いた通りに人を動かしていく。


 そしてグレイソンは、作戦を見事に成功させた。


 その瞬間、彼は生まれて初めて思ってしまった。

 

 ――楽しいと。


 それまで何をしても淡々とこなしていたグレイソンが、初めて「もっとやりたい」と思った。


 そこからだった。

 父に命じられずとも自ら策を巡らせ、敵の先を読み、すべてを自分の手のひらの上で動かして相手を破滅させることそのものに、グレイソンはのめり込んでいった。

 

 そうして彼は、やがて王国中から恐れられる『悪役令息』となっていく。


 ……しかし現在十四歳のグレイソンは、無言で紅茶を飲んでいるだけだった。

 今のところ、まだ悪役令息の片鱗は見えない。

 

 これまで顔を合わせたのは数回。

 正直なところ、リリーもこれまでは無口すぎてつまらないと婚約者の変更を望んでいた。

 原作で婚約者に去られたのも、きっと同じ理由だろう。


 だが、前世の記憶を持った状態でもう一度観察すると、少し印象が変わる。


 彼は決してリリーを嫌っているわけではない。

 話しかければ答えるし、礼儀も欠かさない。


「今日は暖かいですわね」

「ああ」

「最近、何か面白いことはありまして?」

「特にない」


 ただ、会話がそこで終わってしまうのだ。

 自分から話題を広げることもしないし、沈黙を気まずがることもない。

 そこに悪意や意地悪さはなく、単純に他者と親しくなることに微塵も興味がないだけなのだろう。


 おそらく彼にとって、婚約者とのお茶会は勉学や剣術とまったく同じなのだ。

 公爵家の跡取りとしてこなすべき義務。

 それ以上でも、以下でもない。


 ……本当は一瞬だけ、婚約を解消すべきかと考えた。

 前世の記憶を取り戻した令嬢ならば、普通は真っ先にそう考えるだろう。


 しかしリリーは、その安易な選択肢を即座に脳内から叩き出した。

 未来で大罪を犯す設定があるからといって、今目の前にいる、まだ何も悪いことをしていない彼を切り捨てるのは違う。

 十八歳になるまで、自分から何かをやりたいと思ったことすらなかった彼が、初めて夢中になれたものが、たまたま陰謀だっただけなのだ。

 

 ならばその前に、もっと楽しいものがあると知ってもらえばいいんじゃないだろうか。

 もしそれでも道を踏み外しそうになったら、その時はリリーが止めればいい。


 何より、今のグレイソンはただ無口で他人に興味がないだけで、悪人ではない。

 ならば婚約を解消して逃げるより、未来を変える方を試してみたい。


 それに――原作で陰謀を巡らせるグレイソンは、普段の無表情が嘘のように、生き生きとした笑みを浮かべていた。

 リリーの脳裏に、楽しそうに笑うグレイソンの挿絵が浮かぶ。

 ……あの笑顔、ぜひとも生で拝んでみたい。


 そう考えると、先ほどまでつまらないと思っていた婚約者が、急に少しだけ興味深い存在に見えてきた。


 ならまずは、この人が何を楽しいと思うのか、何を好きだと感じるのか探してみよう。 

 そんな気持ちを抱きながら、リリーは相変わらず無言で紅茶を飲む婚約者を前に、密かに拳を握った。




◆




 婚約者を観察し始めて数週間。

 リリーは現実を痛感していた。


「グレイソン様は、お好きな食べ物はありますの?」

「ない」

「お休みの日は何をされているのですか?」

「勉学か、鍛錬」

「好きなことや、やりたいことなどは」

「思いつかない」

「い、今、何か欲しいものなどは……」

「特にないな」

「…………」


 リリーは心の中で頭を抱えた。

 グレイソンには、本当に好きなものがないらしい。


 しかし、ここで諦めるわけにはいかない。

 リリーは本腰を入れてグレイソンの楽しいことを探そうと腹を括った。


 手始めに、リリーは王都で一番人気のパティスリーから取り寄せた焼き菓子を彼の前に差し出した。


「これを食べてみてくださいませ」

「……なぜだ?」

「美味しいからですわ」


 グレイソンが怪訝そうに焼き菓子とリリーを見比べる。

 どうやら、美味しいから食べるということが、彼にはいまいち理解できないらしい。


「食べたからといって、何かあるのか?」

「ありますわよ」


 グレイソンの目がわずかに細くなる。


「何が?」

「美味しくて、幸せな気分になりますわ!」

「…………」


 そんなもののためにわざわざ食べるのか、とでも言いたげな顔だった。

 それでもリリーがにこにこと待っていると、やがて諦めたように焼き菓子を一つ手に取る。


 一口。

 二口。

 もぐもぐと咀嚼した直後、彼の三白眼がごくわずかに見開かれた。


「……美味い」

「!」


 リリーは思わず身を乗り出した。


「今、美味しいって言いましたわね!?」

「……言ったが」


 何をそんなに喜んでいるのか分からない、と言いたげに、グレイソンが若干引いている。


 けれどリリーにとっては大きな一歩だった。

 好きなものはないと言っていた彼だが、クッキーを噛み締めた瞬間、わずかにだが、表情がほころんで見えたのだ。


「もう一ついかが?」

「……もらおう」

「どうぞ!」


 これまでの茶会で、グレイソンがお菓子に手を伸ばしてきたことはなかった。

 なのにそんな彼が、一つ食べただけでなく、リリーが勧めたからとはいえ、二つ目にも手を伸ばしたのだ。

 さらにはリリーが何も言わずとも、自然と三つ目に手を伸ばしているではないか。


 まずは一つ。

 グレイソンの世界に、好きかもしれないものが増えたような気がした。 




◆




 別の日には、二人で王都へ出かけた。


「今日はぶらぶらと散策をしようと思うのですけれど……グレイソン様は、こういった街歩きをされたことは?」

「ない」

「では、今日は時間の許す限り、行き先も決めずに王都を見て回りましょう!」


 グレイソンは、目的もなく歩き回って何になるのだ、とでも言いたげな顔をした。

 けれど、リリーが歩き出せば文句も言わずについてくる。


 リリーは、気になった店があれば覗いて、露店から美味しそうな匂いがすれば立ち止まり、通りで大道芸が始まれば人だかりに混じって眺める。


 最初のうち、グレイソンはそんなリリーの後ろをただついてくるだけだった。

 けれど、しばらく歩いていると、ふと、彼の視線が露店に並んだ珍しい異国の雑貨へ向く。


 リリーがそれに気づいて店へ寄れば、


「別に、欲しいわけではない」


 などと言うくせに、店主の説明にはしっかり耳を傾けていた。


 また別の店では、職人が実演している細工物の前で、ほんの少しだけ歩みが遅くなった。


 まだ自分から見たいとは言わない。

 けれど、興味を持つものは少しずつ出てきているらしい。

 それが分かっただけでも、リリーには十分な収穫だった。


 また違う日には、彼に大衆向けの冒険小説を押しつけた。


「勉強の本ではありませんわ。楽しむために読む本ですの」

「……役に立つのか?」

「楽しいです」

「それだけか」

「それだけで十分ですわ」


 半信半疑のまま持ち帰ったグレイソンだが、次のお茶会では続きを貸してほしいと言われた。


「勉学以外のものを、初めて読んだが。……悪くなかった」

「まあ、それはよかったです!」


 それだけでもリリーは嬉しかった。

 

 ところが、しばらくすると立場が逆転した。


「リリー。これを読め」

 

 定期的に行っているお茶会が始まってすぐに、グレイソンが一冊の本を差し出してきた。


「これは?」

「同じ作家の別の作品だ。前のものもいいがこちらも悪くない」

「グレイソン様が見つけてきたんですか?」

「ああ」

 

 いつの間にか、リリーが本を渡す側ではなく、グレイソンから薦められる側になっていた。


 しかも読み終えた後には、


「あの場面はどう思った?」


 と感想まで求めてくるのだ。


「面白かったですわ。特に最後の逆転は驚きました」

「だが、あの策には穴がある。相手に逃げ道を残しすぎだ。私なら先に周囲を固めて、逃げられる場所を一つだけ用意する」


 そう言って、グレイソンは口元に薄い笑みを浮かべた。


「そして、そこへ逃げるしかないと思わせてから、最後に塞ぐ。最後に残った希望まで、完全に叩き潰すんだ」

「…………」


 これだ。

 原作の挿絵で見た、あの笑顔。

 実物は思っていたよりもずっと楽しそうで、どこか無邪気ですらあった。


 ――ただし、彼の思考回路はすでに立派な悪役令息のそれである。

 だが、幸いなことに、今のところ彼が完膚なきまでに叩き潰している相手は、あくまで小説の中の登場人物だけだ。

 現実世界の被害者はゼロである。


 ならば、問題はない、ということにしておこう。

 リリーは心の中で強引にそう結論づけ、そっと紅茶をすすった。




◆




 原作で見た笑顔は、思いがけず早く見ることができた。


 けれど、グレイソンにはもっとたくさんの好きややりたいことを見つけてほしい。

 今のままでは、いつ何かのきっかけで「陰謀って楽しい」と、嬉々としてそちらの道へ足を踏み入れてしまうか分からない。

 そうならないためにも、陰謀なんかに夢中になる余地がなくなるくらい、別の好きや楽しいで彼の毎日を、まだまだいっぱいにしておきたい。


 そこで、他にも、収穫祭の夜店を見て回ったり、天気のいい日に遠乗りをしたりしてリリーはグレイソンとの日々を過ごす。


 グレイソンは相変わらず口数は少ない。

 しかし、一緒に過ごしていくうちに、少しずつ変わってきたように思えた。


 初めて見る料理なら、自分から一口試してみるようになった。

 街を歩けば、以前なら素通りしていた店先で、自ら足を止めることもある。

 

 グレイソンの中に、少しずつ好きが増えているのを感じる。


 それでも一つだけ、変わらないことがあった。

 彼はまだ、自分から「これがしたい」とは言わない。


 だから、ある晴れた日の午後。

 いつものように出かける準備を整えたリリーは、出迎えたグレイソンに向かって尋ねた。


「さて、今日は何をしましょうか」

「リリーが決めればいい」


 グレイソンはいつものように、彼女に選択を委ねようとする。

 しかし今日のリリーは首を横に振った。


「ダメですわ。今日はグレイソン様が選んでくださいませ」

「……私が?」

「ええ。どこへ行きたいか、何をしたいか、何を食べたいか。あなたが決めるまで、ここから一歩も動きませんからね」


 リリーが腕を組んで仁王立ちになると、グレイソンは困惑したように瞬きをした。


 視線を彷徨わせ、そのまま真剣に悩み込む。

 リリーは急かさず、ただじっと彼の言葉を待った。


 やがて、グレイソンが慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「その、君が前に持ってきてくれた、あの焼き菓子を売っている店に、行きたい」


 そして一度言葉を切ると、さらに付け加える。


「……もう一度、食べたい。君と」

「まあ!」


 初めてグレイソンが、自分の意思でやりたいことを口にしたのだ。

 リリーは嬉しそうにパンッと手を叩くと、そのまま勢いよくグレイソンの両手を取った。


「行きましょう!! さあ、馬車を出しましょう、今すぐに!!」

「…………」


 グレイソンの身体が、一瞬だけ固まった。

 そして、自分の手を包み込んでいるリリーの両手へ視線を落とす。


「……リリー」

「はい?」

「近い」

「あら、ごめんなさい」


 そう言いながらも、リリーの顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 今はただ、彼が初めて自分からやりたいことを口にしてくれたことが嬉しくて仕方がない。


 一方のグレイソンは、離された自分の手をしばらく無言で見つめていた。


「せっかくですし、焼き菓子だけじゃなくて他のお店も見ましょうね!」

「……ああ」


 そして、菓子を一緒に食べた帰り道。


 せっかくだからと二人で王都を歩いていると、リリーは一軒の露店の前で足を緩めた。

 並べられているのは、色鮮やかな石や硝子を使った小さな細工物だ。

 その中の一つに、ふと目を奪われる。


「……綺麗」


 思わず呟くと、隣にいたグレイソンがそちらへ目を向けた。


「欲しいのか?」

「え?」

「それ」


 グレイソンの視線の先には、先ほどリリーが眺めていた細工物がある。


「いいえ。綺麗だなと思っただけですわ」

「……そうか」


 それだけの会話だった。

 リリー自身、そのことはすぐに忘れていた。


 ところが数日後。


「お嬢様、グレイソン様からお届け物です」


 使用人から渡された小さな箱を開けてみると、中に入っていたのは、あの日、露店で眺めていた細工物だった。


「まあ……」


 リリーは思わずそれを手に取った。


 最初の頃のグレイソンは、自分が何を好きなのかにすら興味がなかった。

 ましてや、リリーが何を好きなのかなど、気に留めようともしなかった。


 それが今は、自分の好きを見つけるだけではなく、リリーが何を好きなのかにも目を向けるようになっている。

 その変化に気づいた途端、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「……嬉しい」


 リリーは誰に聞かせるでもなく小さく呟き、細工物を掌に乗せて眺めながら、自然と頬を緩めた。




◆




 あれから、四年の月日が流れた。

 

 十八歳になったグレイソンは、原作通り、無表情で感情が読みづらい部分は相変わらずだが、洗練された身のこなしは社交界でも一目置かれる存在になっている。

 そして、類稀なる知略も、先を読む力も、相手を追い詰める容赦のなさも、残念ながら順調に育っていた。


 ただし、その使い道は原作とはだいぶ違った。


「……グレイソン様」

「なんだ」

「昨日私は、『王都で一番人気の焼き菓子の予約が半年待ちで買えなかったんですの』と愚痴をこぼした記憶があるのですが」

「ああ」

「なぜ今日、そのお菓子が私の目の前にあるのでしょうか?」


 リリーがテーブルの上の皿を指さすと、グレイソンは涼しい顔で紅茶を飲みながら答えた。


「店主と交渉して、我がオズワルド公爵家専用の特別予約枠を確保した。原材料の流通ルートに少し問題を抱えていたようだから、私が手を回して他国からの独占輸入権を斡旋してやったんだ。代わりに、新作は常に我が家へ回す契約を結ばせた。ここの菓子は私も大好物だからな」


 リリーは無言で目を瞬かせる。

 国家レベルの貿易交渉を、彼は、ただのスイーツの予約枠を取るためだけに使っている。


「……あなた、そういうところに謀略の才能使ってるんですの?」

「問題があるなら解決するだけだ」


 グレイソンはさも当然のように言い切った。

 頭が切れ、時には冷徹な判断を下し、障害となるものには容赦がないのだが。

 自分の好きな菓子を手に入れるために使うという、すこぶる平和的な使い方である。


 別の日には、彼がこもる書斎の扉を少しだけリリーが覗くと、グレイソンがデスクに向かい、数枚の書類を並べて真剣な顔で睨みつけているのが見えた。

 羽ペンを握る手には力が入り、その横顔はまさに国を揺るがす陰謀を企む悪役令息のそれだ。


「グレイソン様!」


 もしや、ついに「陰謀って楽しい!」に目覚めてしまったのかと、たまらず部屋に踏み込んだリリーに、グレイソンは鋭い視線を向けた。


「……リリーか。少し待ってくれ。今、非常に重要なところなんだ」

「重要なところって、何を」


 リリーは覚悟を決めてデスクに駆け寄り、恐ろしい陰謀の書類と思しき物を覗き込んだ。

 が。


「ここの宿なら、夕方に湖が美しく見えるらしい。ただ、君が行きたがっていた新しいカフェからは少し遠い。移動の時間を計算すると、馬車のルートを再構築する必要がある。いっそ国家事業の一環として組み込むべく、王家に働きかけてこの周辺の道を舗装させるべきか。王家を脅す……説得する材料ならいくつかあるしな」

「…………」


 それは、来月二人で行く予定をしている、旅行のスケジュール表だった。

 リリーだけでなく、グレイソンも行きたい場所を具体的に挙げていた。


 どうも彼は旅行に行くのをかなり楽しみにしているようだ。

 分刻みの予定に加え、万が一の天候不良に備えたプランB、プランCまでが完璧に構築されている。


「どうした、リリー?」

「……いえ、なんでもありませんわ」


 リリーは深く息を吐き出す。

 王家を脅す、と言いかけたグレイソンの言葉は、聞かなかったことにした。


 グレイソンが、自分の好きなことに時間を使い、その優秀な頭を惜しみなく働かせるようになったのは、喜ばしい変化だった。

 楽しそうに笑う姿も、最近ではそれほど珍しくない。


 けれど、だからこそリリーには一つだけ不安が残っていた。

 もし原作と同じように、本物の陰謀にも楽しさを見出してしまったら――。


 もう間もなく、運命の日がやってくる。

 原作において、グレイソンが最初の悪事に手を染めることを命じられる日である。




◆




 その日、原作では、グレイソンは父であるオズワルド公爵の執務室へ呼び出されて例の話をされていた。


 当然、リリーも日付を覚えていたので、いても立ってもいられずオズワルド公爵邸へ押しかけたものの、


「グレイソン様は公爵閣下と大切なお話をされていますので、こちらでお待ちください」


 と、応接室で待機するよう命じられてしまった。


「…………」


 大人しく待ってなどいられない。

 リリーは使用人の目を盗んで応接室を抜け出すと、屋敷の外へ回り込んだ。

 

 幸い、執務室の窓は少しだけ開いている。

 公爵令嬢として決して褒められた行為ではないが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。


 植え込みの陰に身を潜め、そっと窓の向こうへ耳を澄ませると、聞こえてきたのは、オズワルド公爵の低い声だった。


「――王太子の政策を失敗させろ」


 来た。

 リリーの心臓が大きく跳ねる。

 原作とまったく同じ言葉だ。


「次の政策を潰せば、王太子派の求心力は大きく落ちる。お前ならばできるだろう」


 原作のグレイソンは、ここで父親の命令を受け入れる。

 これまでと同じように、与えられた課題を完璧にこなすために。

 そして――その過程で、陰謀を巡らせる楽しさを知ってしまうのだ。


 リリーは息を殺した。

 そして、短い沈黙の後。


「お断りします」


 その言葉が聞こえた瞬間、リリーは思わず息を呑んだ。


 オズワルド公爵は、まさか断られるとは思っていなかったのか、一瞬だけ呆けた顔になったのがリリーから見えた。

 が、すぐに眉間に皺を寄せると、冷え冷えとする声で言った。


「……聞き間違いかな。もう一度言ってみろ」

「やりません、と言いました」


 グレイソンの声は、いつもと変わらず淡々としていた。


「っ、理由を聞こう」

「やりたくないからです」

「…………」


 リリーは思わず両手で口を覆った。


 十四歳のグレイソンならば、決して口にしなかった言葉だ。

 やりたい。

 やりたくない。

 そもそもそんな基準で、自分の行動を決めることすらなかったはずなのに。


 やはりグレイソンは変わったのだ。

 しかし公爵がそう簡単にその言葉を認めるはずがなかった。


「これはお前の好き嫌いで決める話ではない。公爵家の利益のためだ」

「ですが、その程度の利益なら別の方法でも得られます。わざわざ王太子を陥れる必要はないでしょう」

「お前なら容易いはずだ」

「できるかどうかと、やるかどうかは別です」


 グレイソンはきっぱりと言い切ったあと、短く息を吐く。


「第一、その計画を実行するなら王太子派の人間関係と資金の流れを調べ、協力者を配置し、情報を流し、失敗した場合の逃げ道まで準備する必要がある。相当な時間を取られます」

「それがどうした」

「私には他にやりたいことがあります」

「なんだ、やりたいこととは」

「まだ読み終えていない本もある。リリーが行きたがっている店にも行っていない。来月には旅行も控えています」

「…………」

「父上の派閥争いに費やすほど、私の時間は余っていません」


 窓の外で、リリーはぷるぷると震えた。


 そして――勝った……! と、声を出さずに、小さくガッツポーズを決めた。


 陰謀なんかに費やすには、彼の人生は忙しすぎるらしい。

 四年前に考えた作戦は、どうやら間違っていなかったようだ。


 オズワルド公爵は最初こそ息子の拒絶に腹を立てたものの、グレイソンから計画の危険性と、失敗した場合に公爵家が被る損失を容赦なく並べ立てられ、最終的には手を引いた。


 これ以上自分を計画に巻き込むつもりなら、父を公爵位から引きずり下ろす材料はいくつかある――と、グレイソンが暗にほのめかしたのも理由の一端だろう。

 実の父親相手にも、容赦というものがない。


 さすがのオズワルド公爵も、それ以上息子に強要することはできなかった。

 

 しかし、第二王子派に属する他の貴族たちはそうではなかった。


 オズワルド公爵が協力しないなら自分たちだけでやればいいと、役人への買収や文書の偽造にまで手を出し、王太子を失脚させる計画を進めてしまったのである。


 そして、それを知ったグレイソンはというと。


 ――彼らを放置しなかった。


 数日後、王太子失脚を企んでいた貴族たちが、一斉に捕縛されたという知らせが社交界中を駆け巡った。


「……グレイソン様。何をなさったんですの?」


 グレイソンの元を尋ねたリリーが開口一番そう尋ねると、書類の整理をしていたグレイソンは、素知らぬ顔で答えた。


「何の話だ」

「とぼけないでくださいませ。貴族たちの捕縛の話ですわ!」


 リリーがじっと睨むと、グレイソンは面倒そうに息を吐いた。


「大したことはしていない。資金の流れを追って、裏帳簿と密書を押さえて、関係者が逃げられないよう証拠を揃えて王太子に渡しただけだ」

「それを大したことと言うんです!」


 たった数日のうちに、である。

 しかも、誰がどこへ逃げようとしても言い逃れできないよう、証拠は完璧な順序で揃えられていたらしい。


 かつて原作で王太子を追い詰めるために使われたはずの頭脳が、今度は王太子を失脚させようとした人間たちを追い詰めるために使われたのだ。


「でも、どうしてそこまで?」

「放っておけば、また父上のところへ話が持ち込まれる。そうなれば余計に面倒だ。それに、父上は第二王子派だが、私は別に第二王子を支持しているわけではない」

「そうなんですの?」

「王太子と第二王子を比較すれば、統治能力も人望も王太子の方が上だ。わざわざ優秀な人間を引きずり下ろして、劣る方を王位につける意味がない」

「……ずいぶん身も蓋もありませんわね」

「事実だ」


 グレイソンは平然と言い切った。


「それに、王位争いが長引けば国内が荒れる。そうなれば経済も治安も悪くなる」

「それは確かに困りますわね」

「だろう。旅行にも支障が出る」

「…………」

「だから、旅行前に余計な問題は片づけておきたかった」


 結局そこなのか。

 リリーはなんとも言えない顔になった。

 どれだけグレイソンは旅行を楽しみにしているのかと、リリーはそっと頭を抱えた。


 ちなみに、証拠一式を受け取った王太子は、顔を引きつらせながらグレイソンに言ったという。


「君を敵に回さなくて本当によかったと、心から思っているよ」

「ちなみに、第二王子本人の弱みもいくつか押さえていますが。必要ですか?」

「……つくづく君を敵に回さなくてよかった」

「私もそう思います」


 グレイソンは微塵も悪びれずに答えたらしい。

 その話を後から聞いたリリーは、少しだけ戦慄した。


 悪役にならなかっただけで、リリーの婚約者は、怖いのは怖いのである。


 陰謀に夢中になる未来は変わったが、恐ろしいほどの頭脳も、冷徹さも、相手の逃げ道を完璧に塞ぐ容赦のなさも、何一つ失われてはいないのだから。

 ただ、それを悪事に使うほど暇ではなくなっただけで。




◆




 王太子失脚を巡る一連の騒動が片付き、王都に平穏な日常が戻ったある日。


 リリーはティーカップを置き、ようやく心の底から安堵の息を吐き出した。


 原作の最大のターニングポイントは、無事に過ぎ去った。

 もう彼が破滅の道を歩むことはないだろう。


 目の前では、グレイソンが来月に迫った旅行の日程表を手に、楽しそうに予定を確認している。


「よかったですわ」

「何がだ?」

「あなたが、そんなに楽しそうで」


 そう告げると、予定表を眺めていたグレイソンの手がぴたりと止まった。

 彼は少しの間だけ黙り込み、やがて静かに書類を置く。


「……ああ。楽しい」


 そして、ほんの少しだけ目を細めた。


「幸せだ」


 グレイソンがそんなふうに、自分の感情を素直に口にするなんて、出会った頃には考えられなかったことだ。

 リリーは嬉しくなって微笑んだ。 

 四年前からは、想像もつかない変化だった。


「ふふっ、昔は、好きな食べ物を聞いても『ない』、欲しいものを聞いても『特にない』でしたものね。それが今では、お菓子も、本も、旅行も――」


 けれど、リリーが最後まで言い終える前に、グレイソンが遮った。


「リリー。少し違う」


 思いがけない言葉に、リリーは瞬きをした。

 グレイソンはテーブルの上に置いた日程表へ一度だけ目を落とし、それから改めて、まっすぐリリーを見る。


「菓子は好きだ。本も面白い。旅行も楽しみにしている。他にも好きなことは、昔の私とは違ってたくさんある。だが、それだけなら、ここまで夢中にはならなかったと思う」

「……?」

「菓子なら一人でも食べられる。本だって一人で読める。旅行も行こうと思えば一人で行ける」

「それは、そうですわね」


 グレイソンはそこで少しだけ間を置いたあと、静かに続ける。 


「でも私は、君と食べた菓子をもう一度食べたいと思ったんだ。面白い本を見つければ、君にも読ませて感想を聞きたくなった。行きたい場所を見つければ、まず君と行くところを想像するようになった」

「…………」


 はっきりと告げられた言葉に、リリーは息を呑んだ。


 思い返してみれば、確かにそうだった。

 初めて自分から希望を口にした時も『もう一度、食べたい。君と』と言っていた。


「私の好きなことや楽しいことは確かに増えたが、その根底にはいつだって、リリーの存在があったんだ」

「グレイソン様……」

「君と婚約する前は、幸せというものについて考えたことすらなかった。与えられたことを完璧にこなし、求められた結果を出す。それで人生は終わるものだと思っていた。だが、君は何度も私に聞いてくれた。何が好きなのか、何がしたいのか、どこへ行きたいのかと。そのせいで今は、明日も来月も来年も、やりたいことが山ほどある。――そのすべての予定に、君がいる」

「…………」


 リリーの胸の奥が、じわじわと熱くなっていく。

 リリーはずっと、グレイソンに陰謀以外の「好き」や「楽しい」を見つけてほしいと思っていた。

 けれどまさか、その一つ一つの中心に、自分がいたなんて思ってもみなかった。


「……それなら、もう安心ですわね」


 胸の高鳴りを誤魔化すようにリリーが笑うと、グレイソンが首を傾げた。


「何がだ?」

「グレイソン様って、ものすごく頭が切れるうえに、時々さらっと物騒なことをおっしゃるでしょう? だから、その才能をいつか悪い方向に使ったりしないか、少しだけ心配していたんです。でも、今なら大丈夫そうですわね」

「……それは分からないな」

「え?」


 グレイソンは何でもないことのように言った。


「もし君を不幸にする人間が現れたら、私は持てるすべてを使って叩き潰すつもりだが?」

「…………」


 やっぱり全然安心できない。


「だ、ダメですわよ! 法に触れることとか、後ろ暗い手段を使うのは絶対にダメですからね!」

「……善処する」

「善処じゃなくて約束してくださいませ!」

「…………分かった。約束しよう」


 ひどく不満そうではあったが、どうにか頷いてくれた。


 だが、リリーがほっと息を吐いた、その時。


 グレイソンが手を伸ばし、リリーの手をそっと、けれど逃がさないように強く包み込んだ。


「その代わり、君にも約束してもらう。君が私に『やりたいこと』を山ほど作ったんだ。なら、最後まで付き合ってもらう」

「最後まで?」


 そう尋ねると、グレイソンは一瞬だけ目を細める。


 そして――グレイソンは笑った。

 これまでリリーが見たどの笑顔よりも柔らかく、甘く、どうしようもなく幸せそうな笑みだった。


 その視線は、まっすぐリリーだけに向けられている。


「一生だ」

「…………!」

「そういうわけだから、覚悟しておくんだな」


 その笑顔と、あまりにも真っ直ぐな言葉を真正面から浴びせられ、リリーの頬が一気に熱くなる。


 ……これはもう、どういう意味なのか考えるまでもない気がする。


 けれど、それを口に出して確認する勇気まではなくて、リリーはただ握られた手を見つめることしかできなかった。




◆




 それから数年後。

 無事に結婚式も挙げ、公爵家の当主夫妻となった二人は、王家主催の夜会に出席していた。


「しかしあいつ、昔からあんなに楽しそうな顔をする男だったか? 私の記憶では、優秀ではあったがもっとつまらなさそうな顔をしていたような気がするが」


 シャンデリアが輝く広間の隅で、グラスを片手にした王太子が、呆れたような、感心したような顔でリリーに尋ねてくる。


「いいえ。昔はもっと無趣味で、無口で……」

「余計なことを言うな」


 が、すかさず隣から低い声が降ってきて、リリーの腰に長い腕が回された。

 ぐい、と独占欲も露わに引き寄せられ、リリーは思わず顔を赤くする。


 今や彼は、オズワルド公爵家の当主として多忙な日々を送りながら、仕事も趣味も存分に楽しみ、そのうえ妻との予定だけは何があっても死守する男として社交界で知られている。


 すると、王太子がまじまじとグレイソンを見つめながら言った。


「お前ほど頭の回る男なら、もっと裏で大きなことを企めそうなものなのにな。はっはっは、それこそ、我が国の裏の支配者にでもなれそうだ」

「そんな暇はありません」


 王太子の軽い皮肉を、グレイソンは鼻で笑って一蹴した。

 直後、王太子へ向ける目だけがすっと鋭くなる。


「それより殿下。先日から滞っている南方との貿易条約はどうなったのです? 私の妻と雑談するほどお暇なら、そちらを進められてはいかがですか」

「……お前、私を追い払おうとしているだろう」

「まさか。未来の国王陛下のお時間は、有効に使われるべきだと申し上げているだけです」

「その顔で言われると、まったく冗談に聞こえないんだよ! 少しくらい彼女と話したって減るものでもないだろうに」

「私の殿下への忠誠心が減ります」

「そんなもの、元からないだろうが! あとお前は本当に心が狭いな」

「狭くて結構です」


 悪びれもしないグレイソンに、王太子は呆れ果てたように肩を落とし、そのまま別の参加者のもとへ去っていった。


 その背中を見送ると、グレイソンはさっそく懐中時計を取り出す。


「さて、行こうか、リリー。そろそろ時間だ」


 今日は夜会を早々に抜け出して、二人で王都に新しくできたレストランへ行く予定なのだ。

 夜景のよく見える特等席も、そこまでの最短経路も、もちろんグレイソンが完璧に手配している。


 もともとは、彼にたくさんのやりたいことを作って、悪役になる未来を変えるだけのつもりだった。

 なのに今では、リリーの方まで、彼と過ごす明日を楽しみにするようになっている。


「どうした、リリー。顔が赤いぞ」

「……グレイソン様のせいですわ」

「心外だな。私は君をエスコートしているだけだ」


 そう言いながら、腰を抱く腕にはさらに力がこもる。


「そういうところです!」


 抗議しても、グレイソンは楽しそうに笑うだけだった。


 こんなふうに毎日惜しみなく愛されて、好きにならない方が無理というものだ。

 恥ずかしさを誤魔化すように、リリーはそっと夫の体へ身を寄せた。

 するとグレイソンは満足そうに目を細め、そのまま彼女を連れて会場を後にする。


 国を揺るがす陰謀にのめり込み、破滅するはずだった未来は、もうどこにもない。

 なにしろリリーの完璧な夫は、今日も妻と幸せになる予定で忙しすぎるのだから。



ありがとうございます。

皆様のおかげで電子での書籍化になります。

なるべく早くお届けできるように頑張ります。


※主人公の名前ですが、有名な作品に出てくる人物と同じらしいので、名字だけは変えようかなと思っています(特に名字に思い入れがあるわけではないので!いや、本当にたまたまです!)

ご報告いただいた方、またそのままでいいよと言ってくださった方、ありがとうございます!


(ちなみに内容はグレイソン視点や、結婚後の二人の生活なんかを加筆予定です……)


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― 新着の感想 ―
凄くイイ話…… 最初から最後までリリィーにほっこり! ええ娘で良かったなぁ、そりゃ好きにもなる
良い話や〜 リリーが良い子だから成し遂げたエンドですね!おめでとう
最高のスーパーダーリンやないですか グレイソンが過去の自分を振り返ってるシーンなんて胸熱ですわ
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