「幼馴染に嫉妬するなんて心が狭い」と婚約者に言われたので、もう期待するのはやめました
「すまない、エリーヌ。明日の観劇は、また今度にしよう」
ベルフォール侯爵家の応接間で、婚約者のジェラルド様はそう言った。
理由は聞かなくてもわかっている。それでも私は、聞いてしまった。
「……ミレイユ様、ですか」
「ああ。急に寂しくなったらしくてな。一人にしておけないだろう」
ミレイユ・ロザンヌ子爵令嬢。ジェラルド様の幼馴染だ。
今月に入って、これで三度目になる。仕立て屋への同行も、私の母への挨拶の席も、同じ理由で流れた。
明日から始まる公演は、半年前から二人で楽しみにしていたものだった。少なくとも、私はそう思っていた。
「……ジェラルド様。私が寂しいと申し上げたら、来てくださいますか」
口に出した瞬間、しまったと思った。
ジェラルド様は目を瞬かせ、それから――なぜか、少しだけ口元をゆるめた。
「幼馴染に嫉妬するなんて、心が狭いぞ。エリーヌ」
笑っていた。
困ったように、けれど、どこか満足そうに。
「ミレイユは妹みたいなものだと、何度も言ってるだろう。お前は俺の婚約者なんだから、もっと余裕を持て」
その夜、私は自室で長いこと窓の外を眺めていた。
思い返してみれば、私が不満を漏らすたび、ジェラルド様はいつもあの顔をしていた。眉を下げて、けれど口元だけは笑っている顔。
私はそれを、呆れられているのだと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
――この人は、私が嫉妬するのを楽しんでいたのでは?
そう思った途端、胸の奥で何かが静かに冷えていくのがわかった。
怒りではなかった。涙も出なかった。ずっと灯していた小さな火に、そっと蓋をしたような感覚だった。
嫉妬は、心が狭い。
それなら、もう嫉妬するのはやめよう。
期待するから、寂しくなる。寂しくなるから、嫉妬する。
だったら最初から、何も期待しなければいい。
私は便箋を一枚取り出して、ジェラルド様への手紙を書いた。
『明日の件、承知いたしました。ミレイユ様によろしくお伝えください』
たった二行。
いつもなら、三枚は書いていた手紙だった。
◇
翌朝、私は父の書斎を訪ねた。
「お父様。ジェラルド様との婚約を、解消したいと考えております」
父は書類から顔を上げ、しばらく黙って私を見ていた。
それから、静かにペンを置いた。
「……理由は、聞かずともわかる。よく今まで辛抱したな」
「では」
「ただ、今は時期が悪い。隣国レグランの使節団が滞在している間に、侯爵家と揉め事を起こすわけにはいかん。帰国を待って、こちらから正式に申し入れよう」
それで十分だった。
終わりが決まっていれば、待つのは少しも苦ではない。
「それと、エリーヌ。空いた時間があるなら、通訳を手伝ってくれないか」
ヴァレンティア伯爵家は、代々外務卿の補佐を務める家だ。幼いころから隣国の言葉を学んできた私は、これまでも何度か手伝いを頼まれていた。
そのたびに、ジェラルド様との予定を優先して断ってきた。
でも、もう空けておく理由もない。
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
ジェラルド様から約束の変更が届くたびに、私は同じ返事を書いた。『承知いたしました』と。
夜会で彼がミレイユ様のそばを離れなくても、壁際で溜息をつくのはやめて、友人たちとおしゃべりをした。
「エリーヌ嬢。この一文、どう訳されました?」
会議のあとで声をかけてきたのは、使節団の代表、レグラン王国の王弟アルフォンス・レグラン殿下だった。
穏やかな灰色の瞳。一国の王弟でありながら、少しも驕ったところのない方だった。
「『川の水は、昨日と同じ顔をしない』――レグランの古い詩ですわね。人の事情は移ろうもの、という意味だと伺いましたので、直訳ではなく『状況は日々変わりますから』と訳しました」
「我が国の者でも、そこまで汲める者は多くありません。あなたに任せて正解でした」
まっすぐな称賛だった。
ジェラルド様に最後に褒められたのはいつだったろう、と考えかけて、やめた。
比べる必要はない。もう、何も期待していないのだから。
ある晩餐会でのことだ。
使節団の若い随員が、こちらの大臣の冗談を訳しそこねて、真っ青になって固まってしまった。テオという名の、まだ十七、八の少年だった。
気まずい沈黙が落ちかけたところで、私はグラスを置いて笑ってみせた。
「失礼いたしました。今のは私の言い回しが回りくどかったせいですわね。大臣閣下は、こうおっしゃったのです」
訳し直すと、卓に笑いが戻った。
晩餐のあと、廊下でテオが何度も頭を下げてきた。
「僕の失敗なのに、どうして」
「最初の晩餐会で、私も同じ失敗をしましたの。そのとき父が庇ってくれたから、今もこの仕事を続けていられるのです」
テオが去ったあと、柱の陰から殿下が姿を見せた。
何も言わず、ただ小さく会釈をして去っていった。
あのとき殿下がどんな顔をしていたのか、私は気づいていなかった。
◇
――快適だ。
最初の一週間、ジェラルド・ベルフォールはそう思っていた。
エリーヌが文句を言わない。約束を変えても『承知いたしました』の一言で済む。
二週間目、少し違和感を覚えた。
手紙が短い。夜会で目が合っても、エリーヌは微笑んで会釈するだけで、すぐに友人との会話に戻ってしまう。
以前なら、ミレイユと踊る自分を、エリーヌは壁際からじっと見ていた。寂しそうな、少し拗ねたような目で。
ジェラルドは、あの目が好きだった。
あの目を見るたびに、安心できたのだ。ああ、こいつは俺に惚れている。俺がいなければ駄目なのだ、と。
三週間目、ジェラルドは不安になった。
「ねえ、ジェラルド。最近つまらないわ」
ロザンヌ子爵家の居間で、ミレイユが扇を弄びながら言った。
「だって、エリーヌ様、何も言わなくなったんでしょう? 前は楽しかったのに。あなたが私のところに来るたびに、婚約者様がやきもきしてるんだと思うと、ね」
「……ミレイユ?」
「やだ、怒らないでよ。幼馴染の冗談じゃない」
くすくすと笑うその顔を、ジェラルドは初めて、知らない女のもののように感じた。
その週、ミレイユからの呼び出しは一度もなかった。代わりに、彼女がクレマン伯爵家の次男と観劇に行ったという噂が耳に入った。
ジェラルドがエリーヌとの約束を断った、あの演目だった。
翌朝、ジェラルドはヴァレンティア伯爵家へ馬車を走らせた。
門前で、ちょうど出かけようとしていたエリーヌと鉢合わせた。
「エリーヌ。今度の休日、観劇に行かないか。前に行けなかった、あの演目に」
自分から誘うのは、いつ以来だろう。
婚約したばかりのころは、毎週のように誘っていた気がする。
エリーヌは少しだけ目を丸くして、それから申し訳なさそうに微笑んだ。
「申し訳ありません。その日は王宮でお仕事がございます」
「仕事? ……俺との約束より、仕事が大切なのか」
「ええ。先にお引き受けしたお約束ですので」
当然のことのように言って、エリーヌは馬車に乗り込んだ。
「隣国の使節団の通訳を務めておりますの」
「通訳……? お前が?」
「隣国の言葉は、子どものころから学んでおりますわ。お手紙にも何度も書きました。――ずいぶん前に」
走り去る馬車を、ジェラルドは門前で見送るしかなかった。
知らなかった。エリーヌが隣国の言葉を話せることも、そんな役目を任されていることも。
あの三枚の手紙のどこかに、書いてあったのだろう。
ただ、自分が読んでいなかっただけで。
◇
それから数日後。
使節団の帰国を数日後に控え、王宮の大広間で送別の夜会が開かれた。
私は今夜、陛下から正式に命じられて、殿下のおそばに通訳として控えている。
次々と挨拶に訪れる貴族たちの言葉を訳し、ようやく人の波が途切れたとき、殿下が小声で言った。
「疲れたでしょう。少し休みましょうか」
「いいえ、殿下。お役目ですから」
「では、役目として命じます。水を一杯、飲んでください」
差し出されたグラスを、思わず笑って受け取った。
そのときだった。
「エリーヌ!」
広間に響いた声に、周囲の視線が集まる。
ジェラルド様だった。髪は乱れ、顔は青ざめている。
「その男と、何をしている」
「……ジェラルド様。こちらはレグラン王国の王弟殿下です。お言葉にお気をつけください」
「答えろ! 俺の誘いは断っておいて、そんな顔で笑って……!」
殿下が一歩前に出ようとするのを、私はそっと手で制した。
これは、私が終わらせるべきことだ。
「私は陛下のご命令で、殿下の通訳を務めております。やましいことがあるとお思いでしたら、どうぞ陛下にお尋ねください」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
ジェラルド様は、まるで迷子の子どものような顔で叫んだ。
「お前は……お前は、俺を愛していたんじゃないのか!」
広間が、しんと静まり返った。
この人のために、三枚の手紙を書いていた。約束の前の晩は、何を着ていこうかと眠れずに悩んでいた。ミレイユ様と踊る背中を、泣きそうになりながら見ていた。
全部、本当のことだった。
「ええ。愛しておりました」
ジェラルド様の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
だから私は、続けた。
「ですから、嫉妬していたのです」
その言葉が過去形であることに、彼が気づくまで、少し時間がかかったようだった。
「……いた、って」
「ジェラルド様は、それを心が狭いとおっしゃいました。ですから、やめたのです。嫉妬することも――あなたに期待することも」
ジェラルド様の唇が震えた。何か言おうとして、言葉にならない。
私は小さく首を傾げた。
「ところで、ジェラルド様。今のあなたのそれは、嫉妬ではございませんの?」
彼の目が、大きく見開かれる。
私は、あの日の彼とそっくり同じ穏やかさで、言葉を返した。
「嫉妬なさるなんて、心が狭いのでは?」
どこかで、誰かが扇の陰で息を呑む音がした。
立ち尽くすジェラルド様に背を向け、私は殿下に一礼する。
「お見苦しいところをお見せいたしました。続けさせていただいても?」
「……ええ。もちろんです」
殿下は、ほんの少しだけ目元をやわらげて、そう言った。
◇
使節団の帰国を待つまでもなかった。
翌日、父はベルフォール侯爵家へ婚約解消を申し入れた。理由は、再三にわたる約束の不履行と、王命の任にある者への公衆の面前での無礼。
使節団の前で恥をかかされた侯爵閣下はひどくお怒りで、話はわずか二日でまとまったと聞いた。
ジェラルド様から、一通の手紙が届いた。
封筒は厚く、便箋は三枚ほどありそうだった。
私は封を切らずに、それを父に預けた。
ミレイユ様は、クレマン伯爵家の次男との縁談を進めているそうだ。
ジェラルド様は、人の輪から離れて誰かを探すようになったという。
かつての私が、そうしていたように。
◇
使節団が帰国する、前の日。
アルフォンス殿下が、正式な訪問として伯爵家を訪れた。父との長い話のあと、私は庭に呼ばれた。
「婚約が解消されるまで、待っていました。あなたが誰かの婚約者でいる間は、仕事の話しかしないと決めていたので」
「……殿下」
「あの晩餐会の夜、あなたがテオを庇うのを見ていました。自分の失敗だと言って、笑って」
殿下は少しだけ言葉を切った。
「ですが、あれだけではありません。このひと月、あなたが人に向ける言葉を、ずっと聞いていました。大臣にも、侍女にも、失敗した少年にも、あなたは同じように言葉を選んでいた」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「あなたの語学の才を惜しんでいるのではありません。私が欲しいのは、ああいうことを当たり前にできるあなたです。――エリーヌ嬢。我が国に来ていただけませんか。通訳としてではなく、私の妻として」
期待しないと決めたはずの胸が、小さく音を立てる。
「……私、本当は嫉妬深いのです。殿下がほかの方を優先なさったら、きっと拗ねてしまいます」
「それは困りました」
殿下は真面目な顔で言った。
「あなたを拗ねさせるような真似は、決してしないつもりです。ただ――」
少しだけ、言いにくそうに目を逸らして。
「私のほうが、かなり嫉妬深いので。先日の夜会でも、あなたがあの男を見つめている間、正直に言って気が気ではありませんでした。……それは、許していただけますか」
思わず笑ってしまった。
嫉妬は心が狭い。そう言われて、一度は蓋をした火。
この人の前でなら、もう一度灯してもいいのかもしれない。
「ええ。殿下になら、喜んで」




