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第7話

 侯爵家の客間に満ちるのは、重く澱んだ緊張と、奇妙に波打つ浮ついた気配だった。差し込む陽光が窓際のソファを白く焼き、その中央で父と母、そして長兄が息を詰めて見つめる先には、整いすぎた容貌の美少年アルドリックが佇んでいた。王太子の悪辣な呪縛から我が家を救い出し、根こそぎひっくり返した彼を、家族が救世主と崇めるのも無理はない。


 だが、その視線の焦点にあるコーデリアの喉元は、焼けるような渇きと指先の凍える冷たさに支配されていた。


 小刻みに震える指先がティーカップの縁を叩き、澄んだ硝子の音が小さく跳ねる。


「お断りよ。誰がこんな……っ、変態筋肉男なんかと結婚するものですかっ」


 朱に染まった頬を引っ込めるように身を引いたが、アルドリックは微動だにしない。淡い亜麻色の髪を揺らし、精巧な彫刻のような笑みを湛えたまま、静かに、しかし逃げ場を塞ぐように一歩を踏み出した。


「おや、そんな冷たいことを言わずに、コーデリア嬢。私の愛の告白を、もう少し真面目に聞いていただきたいのですが」

「聞きたくないわよ。そもそも貴方ね、あの卒業パーティーで私の今後を、更地にしてくれたと思ってるの。今じゃ社交界で私の噂をするだけで、みんな庭の池にダイブして逃げ出すのよ……?」


 すがりつくような抗議の声を浴びせながらも、コーデリアの視線は足元へと逃げた。


 アルドリックはスッと音もなくひざまずいた。


 上質な布地が床を擦る重い擦過音が、広めの客間にひっそりと吸い込まれていく。彼は白磁の指先で、コーデリアの冷え切った指をそっと、しかし決して逃がさないという硬質な意志を込めて包み込んだ。


 手袋の布越しに伝わる体温は奇妙に冷たいのに、青い瞳に宿る熱量は異常なほどに重く、彼女の呼吸を塞ぐ。


「……ずっと、見ていましたよ」


 ふっと、その声音からからかうような軽さが消え失せ、底知れない深い真面目さが張り詰めた。


「あの無能の王太子の下で、貴女がどれほど不条理な言いがかりに耐え、泥を被り、尻ぬぐいまで一人で背負い込まされていたか。私はずっと、その陰で歯痒い思いをしながら見ていました」

「……っ」


 驚愕で言葉が喉の奥でつかえ、生唾を飲み込む。


 アルドリックは慈しむような、同時に狂おしい執着を孕んだ眼差しを彼女の顔面に真っ直ぐ固定した。


「貴女の才気も、美しさも、気高さも、本来であれば私がすべて独占して大切に保護すべき宝物だ。ですが、あいにく当時の貴女はあの王太子の婚約者だった。だからこそ、私が表立って手を出すことは難しかった……」


 アルドリックはふっと微かに唇を歪めた。その笑顔の裏にどれほど計算が渦巻いていたかを思い出し、コーデリアの背筋を冷たい汗が滑り落ちる。


「あの卒業パーティーの茶番は、貴女をその不毛な契約から完全に解放し、我が家へと合法的に連れ帰るための命がけの救出劇であり、私の最初で最高の計画だったのです」

「なっ……命がけって、あなたがライトを壁に投げつけて王家を半壊させただけでしょ……!どこが命がけよ」

「私の精神的な意味で命がけでしたよ。もしあの場で貴女が私を拒絶していたら、私の心は死んで二度と立ち直れなかったかもしれませんからね」


 全く反省の色が見えない涼やかな顔で、アルドリックはとんでもなく重い言葉を平然と言い放つ。


 さらに彼は、包み込んだコーデリアの手の甲にそっと自分の額を預け、愛おしげに微かな吐息を落とした。


「聞いてください、コーデリア嬢。私にとって貴女は世界で唯一の、決して頭が上がらなくて誰よりも愛しい。我が崇拝の対象です」


(っっっ――!)


 顔面偏差値の暴力とでも言うべき美少年から放たれたド直球の告白に、コーデリアの脳内回路は盛大にショートを起こした。


 耳の端まで朱に染まり、頭から湯気を吹き出しそうなほど顔を茹で上がらせた彼女は、もはや思考の輪郭が急速に溶け落ちていく中で、爪先から頭頂まで総毛立つような熱感だけを抱えてその場で完全に硬直するしかなかった。


 少し離れたソファの上では、父と母、そして長兄が、我が世の春を謳歌するような満面の笑みでその光景を眺めていた。


「いやあ、青春ですねえ」

「よくやったわ、アルドリック君!」


 浮かれた家族の歓声だけが、静まり返った客間にぽつんと響いていた。


(……っ、ちょっと待ちなさいよ、私の心臓!)


 目の前で自分の手の甲に額を預け、真剣かつ狂気すれすれの愛を囁くアルドリックを前に、コーデリアの胸中は激しい動悸と冷や汗に支配されていた。


(す、崇拝の対象!?)


 淀みなく整いすぎた美貌の少年から放たれた、あまりにもド直球で、あまりにも重すぎる宣言。その威力は、彼女の理性を一撃で粉砕するには十分すぎた。


 だが、そこは生まれながらにして侯爵家に生まれ、王太子の婚約者として複雑怪奇な社交界の利害関係を冷静に裁いてきたコーデリアである。


 激しい眩暈を抑え込みながら、彼女の脳内では驚異的な速度で会議が強制的に開催されていた。


(冷静になりなさい、私。ここで彼の求婚を受け入れた場合の利害得失を、厳正に、かつ客観的に算出して整理するのよ!)


 コーデリアの思考のなかに、容赦のない項目が次々と浮かび上がっては消えていく。


(まずは、デメリット。

 アルドリックの物理的な出力が物理法則を逸脱している(実証済み:弟のライトが壁に深くめり込んだ)。

 今後、社交界における私の二つ名が「怪力公爵の妻」「処刑人の相棒」などになり、周囲の者が青ざめた顔で近寄らなくなる確率が極めて高い。


 いや、デメリットのインパクトが強すぎない!?私、普通にお茶会を開いて優雅にケーキを食べたいだけなのに、周りの貴族が全員震え上がる未来しか見えないんだけど!)


 頭を抱えたくなる現実に身悶えそうになりながら、しかしコーデリアは、メリットの項目へと視線を移した。


(次に、メリット。

 浮気の懸念が完全にゼロである。なぜなら、他の男が私の顔を見ただけで足元から凍りつくような悪寒を覚え、庭の池へ自ら身を投じて逃げ出すからである。物理的・精神的に浮気の隙が存在しない。

 もし今後、無礼な人間や厄介な輩が現れても、この人が飛んできて一瞬で壁に埋めてくれる。護身用の騎士すら不要。

 何より――これほどまでに深く、重く、狂おしいほど一途に、私という人間を人生の全てとして愛してくれる男は、この世界を探しても他に絶対にいない。

 ……っ)


 思考の深部で見つめたその最後の項目に、コーデリアの心臓が激しく跳ねた。


 振り返ってみれば、あの浅薄な王太子は自分のことしか考えていなかったし、周囲の人間も利用価値ばかりを見ていた。だが、この目の前の美少年アルドリックは、その圧倒的な知性と暴力をすべて自分のために行使し、何年間も陰から見守り続け、最後には未来の王太子妃という鎖を断ち切って自分を救い出してくれたのだ。


 危険人物ではある。確かに規格外の変態じみた熱量を宿した男ではある。


 しかし。


(……考えてみれば、私をここまで全肯定してくれて、命がけで泥を被ってくれる男なんて、他にいないわよね……)


 脳内の厳正な審議の果てに叩き出された結論は、あまりにも投げやりで、しかしどこか甘やかな受容の決断だった。


 ぐるぐると激しく揺れ動いていたコーデリアの瞳から、やがて焦燥の色が消え失せる。彼女はふぅっと、長くて美しい溜息を一つ吐き出した。


 そして、朱に染まった頬をそのままに、あきれと諦めが半々に入り混じった複雑な笑みを浮かべる。


「……まあ、いっかぁ」

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