悪役令嬢に転生したので婚約解消を申し出たら、王家が総出で「最高の縁談」を探し始めた件
ここが乙女ゲームの世界だと気づいたのは、学園の大階段で足を滑らせた瞬間だった。
踊り場まで転がり落ちて、天井の星の模様を見上げたとき、前世の記憶が一度に戻ってきた。
残業続きの事務職で、寝る前の三十分だけが楽しみだった女。
その三十分で遊んでいたのが、『星降る学園の約束』という乙女ゲームだ。
そして今の私は、ロザリンデ・エーデル。
エーデル公爵家の一人娘で、王太子アルベルト殿下の婚約者で、あのゲームの悪役令嬢である。
「ロザリンデ様、お怪我は」
「平気よ。少し頭を打っただけ」
駆け寄ってきた侍女に笑って見せながら、私は頭の中で年表をめくっていた。
ゲームの本編は、最終学年の一年間。
春にヒロインの男爵令嬢が編入してきて、殿下と恋に落ちる。
悪役令嬢はヒロインをいじめ抜き、秋の卒業舞踏会で断罪される。
婚約は破棄され、家は取り潰し、本人は北の修道院へ送られる。
今は春の終わり。
ヒロインのミレイユ・ブランシュ男爵令嬢は、もう編入してきている。
断罪まで、残り半年。
部屋に戻って寝台に座り、私は紙に三行だけ書いた。
一、ヒロインに関わらない。
二、殿下に執着しない。
三、婚約は、こちらから円満に解消する。
三つ目を書いたところで、ペン先が少し止まった。
アルベルト殿下とは、十歳のときからの婚約者だ。
無口で、笑わなくて、会話は天気と学業の話しかしない人。
嫌いではなかった。
けれど、好かれていると思ったこともない。
ゲームの中の殿下は、ヒロインにだけ笑う。
それなら、先に手を離しておくほうがいい。
断罪されるより、ずっといい。
◇
三日後、私は父と一緒に王宮の謁見室にいた。
父は最後まで反対していたけれど、「殿下のお心がミレイユ様に向いているのです」と言うと黙った。
実際、殿下とミレイユ様が中庭で話しているところは何度か見ている。
ゲームの通りだ。
玉座には国王陛下、その隣に王妃様。
少し離れて、アルベルト殿下が立っていた。
「エーデル公爵令嬢ロザリンデ。殿下との婚約を、解消していただきたく参りました」
私は深く頭を下げた。
理由は、あらかじめ用意してある。
私では王太子妃の務めに足りないこと。
殿下にはもっとふさわしい方がいること。
どちらも角が立たない言い方に磨いてきた。
陛下は黙って聞いていた。
王妃様は扇で口元を隠していた。
殿下は、ただ私を見ていた。
「アルベルト。お前はどうだ」
陛下が低い声で尋ねる。
殿下は少しだけ目を伏せた。
長い沈黙のあとで、一言だけ言った。
「……ロザリンデが、そう望むなら」
それで終わりだった。
あっけないくらい、静かに終わった。
胸の奥がちくりとしたのは、きっと前世の感傷のせいだ。
これで破滅は回避できる。
私はもう一度頭を下げて、下がろうとした。
そのとき、玉座の肘掛けが、ばん、と鳴った。
「――王家の落ち度である」
陛下だった。
顔が真っ赤になっている。
「十歳から七年、王家の都合で縛りつけた。その末に、令嬢の口から解消を言わせた。これが落ち度でなくて何だ」
「陛下、あの、私は」
「言わずともよい。アルベルトが何をしたかは分かっておる。何もしなかったのだろう」
殿下の肩が、わずかに動いた。
王妃様が扇を閉じる。
「陛下のおっしゃる通りですわ。女の子に、七年もお天気の話しかしない婚約者なんて」
「母上」
「黙っていらっしゃい」
殿下が口をつぐんだ。
私は何が起きているのか分からないまま、父の顔を見た。
父も分からないという顔をしていた。
陛下が立ち上がる。
「エーデル公爵。令嬢の次の縁談は、王家が責任を持って用意する。国じゅうから、最高の相手を探す」
「へ、陛下。それは、ありがたいお話ですが、しかし」
「決まりだ。王家の名にかけて、この子を幸せにする」
陛下は私の前まで下りてきて、大きな手で私の肩を叩いた。
優しい手だった。
優しすぎて、断る言葉が出てこなかった。
ゲームに、こんな展開はなかった。
悪役令嬢の婚約解消に、国王が責任を取るイベントなんて、どのルートにもなかった。
◇
翌週、私は王宮の小さな食堂に呼ばれた。
「家族の食事だから気楽に」と書かれた招待状には、王妃様の署名があった。
行ってみると、長い卓に王家が全員そろっていた。
国王陛下、王妃様。
十四歳の王女ソフィア殿下。
陛下の弟で、国境軍を率いるレオポルト公爵閣下。
そして、元婚約者のアルベルト殿下。
「さあ、座って。お茶は何がいいかしら」
「……恐れ入ります。では、紅茶を」
「砂糖は入れずに、薄い檸檬を一枚だ」
答えたのは殿下だった。
全員が殿下を見た。
殿下は何事もなかったように、自分のカップを持ち上げた。
私も、黙って座るしかなかった。
確かに私は、紅茶に砂糖を入れない。
檸檬は薄いのが好きだ。
けれど、殿下の前でそんな話をした覚えはない。
王妃様が、分厚い革の帳面を卓に置いた。
表紙に金の字で『ロザリンデ嬢 縁談帳』と書いてある。
嫌な予感しかしなかった。
「国内の未婚の貴族令息を、全員書き出しましたの。二百十四名よ」
「二百……」
「まずは条件で絞りますわ。年齢、家柄、性格、それから顔」
「母上、顔は条件に入れるべきでは」
「入れます」
ソフィア殿下が、にやにやしながら身を乗り出した。
「ねえロザリンデ様、どんな方が好み?背が高い人?面白い人?」
「ええと……穏やかな方、でしょうか」
「穏やか。お兄様と正反対ね」
「ソフィア」
「あら、お兄様は穏やかというより、動かないだけでしょう」
殿下は答えなかった。
代わりに、レオポルト閣下が腕を組んで言った。
「身辺の調査は私が引き受けよう。借金、女、賭け事、それから剣の腕。国境の斥候を三人回す」
「そこまでしていただかなくても」
「する。兄上の名誉がかかっている」
陛下が深く頷いた。
王妃様は帳面に何かを書き込み始めた。
私はカップの檸檬を見つめた。
破滅フラグを折るために婚約を解消したのに、王家との距離が、婚約中より近くなっている気がする。
ふと顔を上げると、殿下と目が合った。
殿下はすぐに目をそらす。
その耳が、少し赤いように見える。
◇
最初のお見合いは、それから十日後だった。
相手は北の辺境伯家の嫡男、グレゴール様。
二十歳で、背が高く、日に焼けた快活な人だ。
王妃様の帳面では「顔・家柄・性格、すべて上」と花丸がついていた。
場所は王宮の東屋。
薔薇の垣根に囲まれた、日当たりのいい席だった。
私とグレゴール様が向かい合って座る。
そして、私の隣の席に、アルベルト殿下が座った。
「……殿下?」
「王家の代表だ」
殿下は真顔でそう言うと、自分でお茶を注いだ。
グレゴール様の笑顔が、わずかに引きつる。
無理もない。
見合いの席に、相手の元婚約者の王太子が座っているのだ。
「ええと、ロザリンデ嬢は、乗馬はなさいますか」
「少しだけですが」
「北は馬の国です。冬は雪原を何刻も駆けますよ。きっと気に入っていただける」
「彼女は寒いのが苦手だ」
殿下だった。
グレゴール様の口が、半開きのまま止まる。
「……そうなのですか?」
「え、ええ。少しだけ」
「冬の舞踏会で、毎年いちばん暖炉に近い柱の陰にいる」
私はお茶を吹きそうになった。
確かに、そうだ。
冬の舞踏会では、いつも暖炉の近くの柱の陰に隠れていた。
誰にも気づかれていないと思っていた。
グレゴール様は咳払いをして、話題を変える。
「では、音楽は」
「竪琴が好きだ。ただし、人前で弾くのは嫌いだ」
「殿下」
「事実だ」
グレゴール様は、それから三度話題を変え、三度とも殿下に答えられた。
最後に彼は立ち上がり、丁寧に一礼した。
「ロザリンデ嬢。大変光栄なお話でしたが、私には荷が重いようです」
「い、いえ、こちらこそ」
「殿下ほど、あなたを見ていられる自信がありません」
そう言い残して、グレゴール様は垣根の向こうへ去っていった。
東屋に、殿下と私だけが残る。
私は殿下の方を向く。
「殿下。どういうおつもりですか」
「王家の代表として、正確な情報を伝えた」
「正確すぎます」
「不正確な縁談は、あとで不幸になる」
殿下はそれだけ言って、お茶を飲み干す。
私は言い返す言葉を探して、見つけられなかった。
七年間、天気の話しかしなかった人が、どうして私の冬の居場所を知っているのか。
それを聞く勇気も、なかった。
◇
二度目のお見合いは、宮廷図書館の閲覧室だった。
相手は侯爵家の次男、学者肌のエミール様。
王妃様の帳面には「穏やか・博識・顔は中」とあった。
今度こそ、と思った。
私は「穏やかな方」と言ったのだから、条件にぴったりだ。
閲覧室の長机に、エミール様と私が向かい合う。
私の隣に、殿下。
殿下の隣に、なぜかソフィア殿下。
「お兄様だけずるいでしょう。わたくしも王家の代表よ」
「ソフィア、帰れ」
「嫌よ」
エミール様は眼鏡を押し上げて、困ったように笑った。
それでも、さすがに学者だった。
古い詩の話から、星の運行の話まで、落ち着いた声で話してくれた。
殿下も、今日は口を挟まない。
私は少しだけ、肩の力を抜く。
この方となら、静かに暮らせるかもしれない。
「ロザリンデ嬢は、星はお好きですか」
「ええ。子どものころ、よく眺めていました」
「それはいい。いつか、我が家の観測塔にご招待しますよ。王都でいちばん高い塔です」
私の指先が、机の下で固まる。
高いところは、苦手だ。
前世からずっと、苦手だ。
殿下が、何か言いかけた。
けれど、言う前に閲覧室の扉が開いた。
「失礼する」
レオポルト閣下だった。
手に、紐で綴じた書類を持っている。
閣下はそれを、机の上にどさりと置く。
「エミール殿。王都の賭博場三か所に、合わせて金貨四百枚の借りがあるな」
「な……」
「返済のあてに、侯爵家の蔵書を質に入れる相談をしているとも聞いた。斥候は優秀でね」
エミール様の顔から、みるみる血の気が引いていく。
ソフィア殿下が「まあ」と楽しそうに口を押さえた。
エミール様は震える手で眼鏡を外し、ひとことも言わずに閲覧室から逃げ出した。
閣下は書類を回収しながら、私に向かって頭を下げた。
「すまない、ロザリンデ嬢。見合いの前に調べ終えるはずが、一日遅れた」
「い、いえ……ありがとうございます」
「次はもっと早く調べる。国境の斥候をあと二人増やす」
閣下が出ていくと、ソフィア殿下が私の袖を引いた。
「ねえ、塔の話のとき、お兄様、止めようとしたでしょう」
「ソフィア」
「ロザリンデ様、高いところが苦手なのよね。お兄様、ずっと前からご存じだったのよ。王宮の見張り台に案内されたとき、階段の途中で青くなっていたって」
十二歳の夏のことだった。
確かにそんなことがあった。
殿下は、あのとき何も言わなかった。
黙って私の手を引いて、階段を下りてくれただけだった。
私は殿下の横顔を見る。
殿下は、書架の背表紙を読んでいるふりをしている。
◇
学園での私は、一つ目の誓いを守っていた。
ヒロインに関わらない。
ミレイユ様がいる教室には近づかず、廊下ですれ違ったら礼だけして通り過ぎる。
ゲームで悪役令嬢がやったことは、一つもしていない。
教科書を隠していないし、噴水に突き落としてもいないし、舞踏会の招待状を破ってもいない。
それなのに、ある日の放課後、ミレイユ様の方から私の前に立ちはだかった。
「ロザリンデ様。少し、よろしいですか」
蜂蜜色の髪に、大きな瞳。
ゲームのパッケージそのままの顔だった。
けれど、その目は少しも笑っていない。
私は周りを見る。
人気のない、裏庭へ続く回廊だ。
「何かご用でしょうか」
「どうして、何もしてこないんですか」
「……何も、とは」
「教科書も、噴水も。とっくに起きているはずなのに」
私は息をのんだ。
この子も、知っている。
あのゲームを、知っている。
「それに、殿下が全然こっちを見てくれないんです。中庭で話しかけても、三言で帰っちゃう。好感度が上がらないの。イベントが起きないから」
「ミレイユ様」
「あなたが何かしたんでしょう。婚約を解消して、殿下を自由にしたふりをして、裏で邪魔してる」
違う、と言おうとした。
私は何もしていない。
殿下が三言で帰るのは、殿下がそういう人だからだ。
七年間、私にも天気の話しかしなかった人だ。
けれど、ミレイユ様は私の答えを待たなかった。
「いいです。起きないなら、起こしますから」
「起こす?」
「卒業舞踏会は、ちゃんと来ますよね。断罪イベントは、あそこで起きるんです。悪役令嬢が何をしたかなんて、証言があれば十分なんですよ」
ミレイユ様はにっこり笑って、スカートの裾を翻した。
甘い香水の匂いだけが、回廊に残る。
私は冷えた指先を握りしめる。
何もしなければ破滅しない、と思っていた。
でも、この世界には、破滅を望む人がいる。
◇
その夜、私は王宮に泊まることになった。
三度目のお見合いの打ち合わせが長引いたからだ。
王妃様の帳面は、すでに二冊目に入っていた。
客間に向かう回廊の途中で、窓から庭を見下ろしている人がいた。
アルベルト殿下だ。
月明かりの下で、殿下はいつもより背が低く見えた。
「……殿下」
「ロザリンデ」
殿下は振り返らずに言った。
「今日の打ち合わせは、どうだった」
「王妃様が、次は南の伯爵家の方だと。海の見えるお屋敷だそうです」
「そうか」
「その方の身辺は、閣下がもう調べ終えたそうです。借金も、女性も、賭け事もないと」
「そうか」
殿下は、それきり黙る。
私は殿下の隣に立って、同じ庭を見下ろす。
噴水の水音だけが聞こえる。
聞くなら、今しかない気がする。
「殿下。どうして、お見合いに毎回いらっしゃるんですか」
「王家の代表だからだ」
「それは、陛下が決めたことですか」
「……いや」
殿下は、ようやく私の方を向く。
「俺が、父上に頼んだ」
私は言葉を失った。
殿下は窓枠に手を置いたまま、少し早口になった。
「君が婚約の解消を望むなら、止める資格は俺にはない。七年、ろくに話もしなかった。君が退屈していたのは知っていた」
「退屈だなんて」
「天気の話しかしなかった。君の好きなものを知っていても、どう話せばいいか分からなかった」
殿下は、少しだけ目を伏せる。
「だから、せめて、君が誰を選ぶかは見ていたかった。君を冬の雪原に連れていく男や、君を塔に上らせる男を選ばないように」
「……それで、全部答えてしまったんですか」
「全部、事実だ」
私は、思わず笑ってしまった。
笑いながら、胸の奥が痛かった。
ゲームの殿下は、ヒロインにだけ笑う人だった。
でも、目の前の殿下は笑っていない。
笑わないまま、私の冬の居場所を、紅茶の檸檬の厚さを、十二歳の夏の階段を、全部覚えていた。
「殿下は、ミレイユ様のことを、どう思っていらっしゃるんですか」
「誰だ」
「……ブランシュ男爵令嬢です。中庭で、よくお話しされているでしょう」
「ああ。毎日、同じ時間に同じ場所にいる人だ。道を聞かれるので、答えている」
「道を」
「毎日、図書館の場所を聞かれる。三言で済む」
私は額に手を当てる。
好感度が上がらないわけだ。
殿下は、ミレイユ様の名前すら覚えていなかった。
ゲームの殿下と、この殿下は、どこかが違う。
あるいは、私が悪役令嬢をやめたから、何かが変わったのかもしれない。
「ロザリンデ」
「はい」
「次の見合いで、もし君がその男を気に入ったら」
殿下は言いかけて、口をつぐんだ。
長い沈黙のあとで、殿下は窓から離れた。
「……いや。おやすみ」
殿下は回廊の奥へ歩いていった。
私はその背中を、見えなくなるまで見ている。
言いかけた言葉の続きが、気になって眠れなかった。
◇
三度目のお見合いは、七月の二十日、王宮の音楽室で開かれた。
相手は南の伯爵家の嫡男、フェリクス様。
海辺の領地の人らしく、声も物腰もゆったりしている。
王妃様の帳面には「穏やか・家柄よし・顔よし・閣下の調査、問題なし」と花丸が三つ並んでいた。
今度こそ、本当に条件どおりだ。
音楽室の扉を開けて、私は立ち止まった。
音楽室には、王家が全員そろっていた。
陛下は竪琴を膝に抱えている。
王妃様は帳面を開いている。
ソフィア殿下はお菓子の皿を抱えていて、レオポルト閣下は窓際で腕を組んでいる。
アルベルト殿下は、いつものように私の隣の椅子の前に立っていた。
フェリクス様は、部屋の真ん中で、さすがに笑顔を固まらせていた。
「……陛下まで、いらっしゃるのですか」
「竪琴の話が出ると聞いたのでな。余も少々たしなむ」
「陛下、今日はロザリンデ嬢のお見合いですのよ」
「分かっておる。邪魔はせん。弾くだけだ」
陛下は本当に弾き始める。
意外なほど上手だ。
フェリクス様は咳払いをして、私の向かいに座り直す。
殿下も、黙って私の隣に座る。
「ロザリンデ嬢。我が家の屋敷は、海の見える崖の上にあります」
「崖、ですか」
「ご安心を。崖といっても、低いものです。窓から見下ろすと、波が白くほどけるのが見えるんですよ」
低い崖。
低くても、崖は崖だ。
私は、隣の殿下を横目で見る。
殿下は膝の上で拳を握ったまま、口を閉じている。
何も言わない。
あの夜の回廊から、殿下は少し変わった。
私の代わりに答えるのを、我慢しているのだ。
それが分かって、私は自分で口を開いた。
「実は、高いところが少し苦手なんです。窓から離れた部屋をいただけると嬉しいです」
「おや、それは失礼しました。では、海は浜辺から眺めましょう」
フェリクス様はあっさりと笑った。
本当に、穏やかな人だ。
陛下の竪琴が、明るい曲に変わった。
「ロザリンデ嬢も、竪琴を弾かれると伺いました。よろしければ、一曲」
「あ……」
人前で弾くのは嫌いだ。
下手だからではない。
弾いているあいだ、誰かに見られていると思うと、指がすくんでしまう。
それを知っているのは、この部屋ではたぶん一人だけだ。
私は殿下を見る。
殿下は、まだ黙っている。
黙ったまま、私をまっすぐ見ている。
自分で言え、と言われている気がした。
いや、違う。
君が言うなら、それでいい、と言われている気がした。
「ごめんなさい。人前で弾くのは、苦手なんです」
「それは残念。では、いつか二人きりのときに」
「……その日が来たら」
フェリクス様は、にこやかに頷く。
お見合いは、それから一刻ほど穏やかに続いた。
海の話、領地の果樹の話、南の祭りの話。
殿下はひとことも口を挟まない。
陛下は三曲弾いて、満足そうに竪琴を置いた。
これは、まとまるかもしれない。
私はそう思い始めていた。
帰り際、フェリクス様は丁寧に一礼して、それから、声をひそめた。
「ロザリンデ嬢。大変すてきな方だと思います。ただ」
「ただ?」
「殿下が、一刻のあいだ、一度もまばたきをなさらなかった」
私は隣を見る。
殿下は、まだ私の方を向いている。
言われてみれば、目が少し赤い。
「何も言わずにあれだけ見つめられると、私には、その、崖より怖いのです」
フェリクス様は申し訳なさそうに笑って、音楽室を出ていった。
ソフィア殿下が、お菓子を喉に詰まらせてむせている。
王妃様は帳面に何か書き込んで、ため息をつく。
「お黙りになる練習の次は、まばたきの練習ね、アルベルト」
「……努力します」
殿下は、ようやく一度まばたきをした。
◇
四度目のお見合いは、九月の初め、王宮の馬場だった。
相手は西の子爵家の三男で、乗馬の名手だという。
高いところは苦手でも、馬の背なら大丈夫だ。
王妃様がそう判断して、場所を決めた。
ただ、陛下が「落馬があってはならん」と言い出したせいで、馬場の柵の内側に近衛騎士が十二名並ぶことになった。
殿下のほかの王家は、全員が見物席にいる。
殿下は、私の馬の手綱を引く係を買って出た。
「殿下、手綱くらい自分で持てます」
「知っている。君は乗馬が上手い」
「では、なぜ」
「……王家の代表だ」
子爵家の三男は、馬場を一周したところで馬を下りた。
近衛騎士十二名の視線と、見物席の王家四名の視線と、手綱を握る王太子の視線に囲まれて、彼は青い顔で言った。
「私には、無理です」
五度目の相手は、会う前に自分から辞退してきた。
手紙には「王宮で何が起きているかは、もう社交界じゅうの噂です」と書いてあったらしい。
王妃様の帳面は三冊目に入り、候補は残り十一名になった。
◇
卒業舞踏会の夜が来る。
王宮の大広間には、千の燭台が灯されている。
天井には、ゲームの題名どおり、星を描いた天井画が広がっている。
半年前、私はこの夜に破滅するはずだった。
今の私は、婚約者のいない公爵令嬢で、王家の三冊の帳面の主役だ。
どちらがましなのかは、まだよく分からない。
私は、いつも通り暖炉に近い柱の陰に立っていた。
今夜は秋なので、暖炉に火はない。
それでも、ここがいちばん落ち着く。
楽団の演奏が一曲終わったときだった。
「皆様、聞いてください!」
澄んだ声が、大広間に響く。
ミレイユ様だ。
広間の中央に立ち、胸の前で両手を握りしめている。
目には、きれいな涙が浮かんでいる。
来た。
ゲームと同じ台詞、同じ立ち位置だった。
「わたくし、ずっと耐えてまいりました。でも、もう黙っていられません。エーデル公爵令嬢ロザリンデ様に、ひどい仕打ちを受けてきたのです」
ざわめきが広がる。
人の輪が割れて、柱の陰の私が、広間じゅうの視線にさらされた。
ミレイユ様は、指を折りながら続けた。
「五月の十四日、教科書を裏庭の池に捨てられました。六月の二日、噴水に突き落とされました。七月の二十日、舞踏会の招待状を目の前で破られました。そして九月の九日、大階段から突き落とされそうになったのです」
完璧だ。
ゲームのイベントが、日付つきで並んでいる。
周りの令嬢たちが、ひそひそと私を見る。
私は、自分の手が震えているのに気づいた。
私は何もしていない。
でも、していないことを、どう証明すればいいのだろう。
そのとき、大広間の奥の玉座から、低い声がした。
「五月の十四日」
国王陛下だ。
陛下は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてきた。
その後ろに、王妃様が続いた。
王妃様は、分厚い革の帳面を三冊、胸に抱えていた。
「マルグリット。五月の十四日は」
「辺境伯家のグレゴール様とのお見合いですわ。王宮の東屋で、午後一時から三時まで」
王妃様が帳面をめくりながら、よく通る声で答えた。
「同席は、アルベルトです。わたくしも陛下も、垣根の向こうで一部始終を見ておりました」
「見ておられたんですか」
私は思わず声を出した。
王妃様は、にこりと笑った。
「当たり前でしょう。王家の責任ですもの」
ミレイユ様の顔が、わずかに引きつった。
陛下が続ける。
「六月の二日は」
「侯爵家のエミール様。宮廷図書館の閲覧室で、午前十時から正午まで。同席は、アルベルトとソフィア。途中からレオポルト様」
「七月の二十日は」
「南の伯爵家の方。王宮の音楽室で、午後から。同席は、王家全員ですわ。あの日は陛下も竪琴の話に加わりたいとおっしゃって」
「九月の九日は」
「西の子爵家の方。王宮の馬場で。同席は王家全員に、近衛騎士が十二名」
王妃様はぱたんと帳面を閉じる。
大広間が静まり返る。
「ブランシュ男爵令嬢。あなたがおっしゃった日は、すべてロザリンデ嬢が王家の見合いに出ていた日です。支度から打ち合わせまで、朝から晩まで王宮におりましたの。証人は、王家全員ですわ」
ミレイユ様は、口をぱくぱくさせる。
「そ、そんな……日付を、間違えただけで」
「では、正しい日付をどうぞ」
王妃様が、やさしく首をかしげる。
「ロザリンデ嬢がこの半年で学園にいた日は、帳面に全部書いてございます。お見合いと打ち合わせのない日は、数えるほどしかありませんのよ」
人垣の後ろから、レオポルト閣下が進み出た。
手には、また紐で綴じた書類を持っていた。
「ついでに申し上げておこう。九月の九日、ブランシュ男爵令嬢は、学園の大階段で、同級の令嬢に『悪役令嬢に突き落とされたと証言してくれたら、殿下に口をきいてあげる』と持ちかけている。断られたそうだがね」
ざわめきが、今度はミレイユ様に向く。
閣下は書類をひらひらと振る。
「斥候は優秀だと、前にも言ったはずだ。ロザリンデ嬢の周りは、半年前から見張っている。見合い相手の身辺を調べるついでにね」
ミレイユ様の顔から、完全に色が消えた。
彼女は私を睨み、それから、アルベルト殿下を探した。
「殿下!殿下は、信じてくださいますよね。わたくし、毎日お話ししましたよね」
「……道を聞かれたことは覚えている」
「道……?」
「毎日、図書館の場所を聞かれた。毎日、同じ答えを返した。半年間、一度も図書館に着かなかったようだが」
誰かが噴き出した。
それをきっかけに、大広間のあちこちで笑いが起きた。
ミレイユ様は顔を真っ赤にして、その場に立ち尽くした。
やがて、青ざめたブランシュ男爵が人垣から転がり出てきて、娘の腕を引いた。
男爵は何度も頭を下げ、ミレイユ様を引きずるようにして、大広間から出ていった。
扉が閉まる直前、ミレイユ様の叫び声が聞こえた。
「こんなの、ゲームと違う……!」
違うわよ、と私は心の中で答えた。
悪役令嬢が何もしなかったら、断罪イベントは起きない。
起こそうとした人が、自分で自分の首を絞めるだけだ。
◇
楽団が、ためらいがちに次の曲を奏で始めた。
人々の視線が散っていく。
私は柱に背をあずけて、長い息を吐いた。
膝から力が抜けそうだった。
「ロザリンデ」
陛下の声だった。
顔を上げると、王家の全員が私の前に並んでいた。
陛下、王妃様、ソフィア殿下、レオポルト閣下。
少し後ろに、アルベルト殿下。
「怖い思いをさせた。すまなかった」
「いいえ、陛下。助けていただいて……ありがとうございました」
「礼には及ばん。王家の責任を果たしただけだ」
陛下は、こほんと咳払いをした。
王妃様が、三冊目の帳面を開いた。
「それでね、ロザリンデ嬢。縁談の件なのだけれど」
「は、はい」
「候補は、残り十一名。でも、実はもう一人、帳面に載っていない方がいるの」
王妃様は、帳面のいちばん最後のページを開いて、私に差し出した。
そこには、見覚えのある几帳面な字で、一行だけ書かれていた。
『アルベルト。条件:何もしなかった七年を、やり直させてほしい』
私は顔を上げた。
アルベルト殿下が、一歩前に出た。
燭台の光のせいか、耳だけでなく、首まで赤かった。
「最初の見合いの前夜に、母上の帳面に書いた。候補が全員だめだったら、見せてもらうつもりだった」
「全員、だめにしたのは殿下では」
「……事実を伝えただけだ」
ソフィア殿下が「往生際が悪いわ、お兄様」と笑った。
レオポルト閣下が「この候補の身辺は、調べるまでもないな」と肩をすくめた。
陛下は腕を組んで、そっぽを向いていた。
その口元が、どうしようもなく緩んでいた。
「ロザリンデ。俺は、君の好きなものを知っている」
殿下は、まっすぐ私を見た。
「紅茶に砂糖を入れないこと。薄い檸檬。冬の暖炉の、柱の陰。竪琴。高いところが苦手なこと。それから」
殿下は一度だけ言葉を切った。
「君が、本当は婚約を解消したくなかったかもしれないこと。謁見室で、手が震えていた」
私は、自分の手を見た。
今も、少しだけ震えていた。
七年間、この人は天気の話しかしなかった。
でも、ずっと見ていたのだ。
ゲームの殿下が一度も見なかった、悪役令嬢の小さな癖を、全部。
「……殿下。一つだけ、条件があります」
「何でも言ってくれ」
「天気の話以外も、してください」
殿下は、目を瞬かせた。
それから、七年で初めて、私の前で笑った。
ぎこちなくて、少しだけ下手な笑い方だった。
「努力する。まずは、明日の天気の話から」
「それは天気の話です」
「……明日は晴れる。晴れたら、君と庭を歩きたい。これは、天気の話ではない」
王妃様が、帳面に大きな花丸を描いた。
こうして、王家が総出で探した「最高の縁談」は、振り出しの一行に戻ってきた。
↓番外編「縁談帳の最後のページ」(王妃視点。縁談帳を書き続けた半年と、最後の一枚)
https://note.com/wise_turtle184/n/nb309ce01ef15




