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【短編集】恋愛/異世界

悪役令嬢に転生したので婚約解消を申し出たら、王家が総出で「最高の縁談」を探し始めた件

作者: ま
掲載日:2026/10/03



ここが乙女ゲームの世界だと気づいたのは、学園の大階段で足を滑らせた瞬間だった。

踊り場まで転がり落ちて、天井の星の模様を見上げたとき、前世の記憶が一度に戻ってきた。


残業続きの事務職で、寝る前の三十分だけが楽しみだった女。

その三十分で遊んでいたのが、『星降る学園の約束』という乙女ゲームだ。


そして今の私は、ロザリンデ・エーデル。

エーデル公爵家の一人娘で、王太子アルベルト殿下の婚約者で、あのゲームの悪役令嬢である。



「ロザリンデ様、お怪我は」


「平気よ。少し頭を打っただけ」



駆け寄ってきた侍女に笑って見せながら、私は頭の中で年表をめくっていた。


ゲームの本編は、最終学年の一年間。

春にヒロインの男爵令嬢が編入してきて、殿下と恋に落ちる。

悪役令嬢はヒロインをいじめ抜き、秋の卒業舞踏会で断罪される。

婚約は破棄され、家は取り潰し、本人は北の修道院へ送られる。


今は春の終わり。

ヒロインのミレイユ・ブランシュ男爵令嬢は、もう編入してきている。

断罪まで、残り半年。


部屋に戻って寝台に座り、私は紙に三行だけ書いた。

一、ヒロインに関わらない。

二、殿下に執着しない。

三、婚約は、こちらから円満に解消する。


三つ目を書いたところで、ペン先が少し止まった。

アルベルト殿下とは、十歳のときからの婚約者だ。

無口で、笑わなくて、会話は天気と学業の話しかしない人。


嫌いではなかった。

けれど、好かれていると思ったこともない。


ゲームの中の殿下は、ヒロインにだけ笑う。

それなら、先に手を離しておくほうがいい。

断罪されるより、ずっといい。




◇




三日後、私は父と一緒に王宮の謁見室にいた。

父は最後まで反対していたけれど、「殿下のお心がミレイユ様に向いているのです」と言うと黙った。


実際、殿下とミレイユ様が中庭で話しているところは何度か見ている。

ゲームの通りだ。


玉座には国王陛下、その隣に王妃様。

少し離れて、アルベルト殿下が立っていた。



「エーデル公爵令嬢ロザリンデ。殿下との婚約を、解消していただきたく参りました」



私は深く頭を下げた。


理由は、あらかじめ用意してある。

私では王太子妃の務めに足りないこと。

殿下にはもっとふさわしい方がいること。

どちらも角が立たない言い方に磨いてきた。


陛下は黙って聞いていた。

王妃様は扇で口元を隠していた。

殿下は、ただ私を見ていた。



「アルベルト。お前はどうだ」



陛下が低い声で尋ねる。

殿下は少しだけ目を伏せた。

長い沈黙のあとで、一言だけ言った。



「……ロザリンデが、そう望むなら」



それで終わりだった。

あっけないくらい、静かに終わった。

胸の奥がちくりとしたのは、きっと前世の感傷のせいだ。


これで破滅は回避できる。

私はもう一度頭を下げて、下がろうとした。

そのとき、玉座の肘掛けが、ばん、と鳴った。



「――王家の落ち度である」



陛下だった。

顔が真っ赤になっている。



「十歳から七年、王家の都合で縛りつけた。その末に、令嬢の口から解消を言わせた。これが落ち度でなくて何だ」


「陛下、あの、私は」


「言わずともよい。アルベルトが何をしたかは分かっておる。何もしなかったのだろう」



殿下の肩が、わずかに動いた。

王妃様が扇を閉じる。



「陛下のおっしゃる通りですわ。女の子に、七年もお天気の話しかしない婚約者なんて」


「母上」


「黙っていらっしゃい」



殿下が口をつぐんだ。

私は何が起きているのか分からないまま、父の顔を見た。

父も分からないという顔をしていた。


陛下が立ち上がる。



「エーデル公爵。令嬢の次の縁談は、王家が責任を持って用意する。国じゅうから、最高の相手を探す」


「へ、陛下。それは、ありがたいお話ですが、しかし」


「決まりだ。王家の名にかけて、この子を幸せにする」



陛下は私の前まで下りてきて、大きな手で私の肩を叩いた。

優しい手だった。

優しすぎて、断る言葉が出てこなかった。


ゲームに、こんな展開はなかった。

悪役令嬢の婚約解消に、国王が責任を取るイベントなんて、どのルートにもなかった。




◇




翌週、私は王宮の小さな食堂に呼ばれた。



「家族の食事だから気楽に」と書かれた招待状には、王妃様の署名があった。



行ってみると、長い卓に王家が全員そろっていた。


国王陛下、王妃様。

十四歳の王女ソフィア殿下。

陛下の弟で、国境軍を率いるレオポルト公爵閣下。

そして、元婚約者のアルベルト殿下。



「さあ、座って。お茶は何がいいかしら」


「……恐れ入ります。では、紅茶を」


「砂糖は入れずに、薄い檸檬を一枚だ」



答えたのは殿下だった。

全員が殿下を見た。


殿下は何事もなかったように、自分のカップを持ち上げた。

私も、黙って座るしかなかった。


確かに私は、紅茶に砂糖を入れない。

檸檬は薄いのが好きだ。

けれど、殿下の前でそんな話をした覚えはない。


王妃様が、分厚い革の帳面を卓に置いた。

表紙に金の字で『ロザリンデ嬢 縁談帳』と書いてある。

嫌な予感しかしなかった。



「国内の未婚の貴族令息を、全員書き出しましたの。二百十四名よ」


「二百……」


「まずは条件で絞りますわ。年齢、家柄、性格、それから顔」


「母上、顔は条件に入れるべきでは」


「入れます」



ソフィア殿下が、にやにやしながら身を乗り出した。



「ねえロザリンデ様、どんな方が好み?背が高い人?面白い人?」


「ええと……穏やかな方、でしょうか」


「穏やか。お兄様と正反対ね」


「ソフィア」


「あら、お兄様は穏やかというより、動かないだけでしょう」



殿下は答えなかった。

代わりに、レオポルト閣下が腕を組んで言った。



「身辺の調査は私が引き受けよう。借金、女、賭け事、それから剣の腕。国境の斥候を三人回す」


「そこまでしていただかなくても」


「する。兄上の名誉がかかっている」



陛下が深く頷いた。

王妃様は帳面に何かを書き込み始めた。


私はカップの檸檬を見つめた。

破滅フラグを折るために婚約を解消したのに、王家との距離が、婚約中より近くなっている気がする。


ふと顔を上げると、殿下と目が合った。

殿下はすぐに目をそらす。

その耳が、少し赤いように見える。




◇




最初のお見合いは、それから十日後だった。

相手は北の辺境伯家の嫡男、グレゴール様。

二十歳で、背が高く、日に焼けた快活な人だ。

王妃様の帳面では「顔・家柄・性格、すべて上」と花丸がついていた。


場所は王宮の東屋。

薔薇の垣根に囲まれた、日当たりのいい席だった。


私とグレゴール様が向かい合って座る。

そして、私の隣の席に、アルベルト殿下が座った。



「……殿下?」


「王家の代表だ」



殿下は真顔でそう言うと、自分でお茶を注いだ。

グレゴール様の笑顔が、わずかに引きつる。


無理もない。

見合いの席に、相手の元婚約者の王太子が座っているのだ。



「ええと、ロザリンデ嬢は、乗馬はなさいますか」


「少しだけですが」


「北は馬の国です。冬は雪原を何刻も駆けますよ。きっと気に入っていただける」


「彼女は寒いのが苦手だ」



殿下だった。

グレゴール様の口が、半開きのまま止まる。



「……そうなのですか?」


「え、ええ。少しだけ」


「冬の舞踏会で、毎年いちばん暖炉に近い柱の陰にいる」



私はお茶を吹きそうになった。


確かに、そうだ。

冬の舞踏会では、いつも暖炉の近くの柱の陰に隠れていた。

誰にも気づかれていないと思っていた。


グレゴール様は咳払いをして、話題を変える。



「では、音楽は」


「竪琴が好きだ。ただし、人前で弾くのは嫌いだ」


「殿下」


「事実だ」



グレゴール様は、それから三度話題を変え、三度とも殿下に答えられた。

最後に彼は立ち上がり、丁寧に一礼した。



「ロザリンデ嬢。大変光栄なお話でしたが、私には荷が重いようです」


「い、いえ、こちらこそ」


「殿下ほど、あなたを見ていられる自信がありません」



そう言い残して、グレゴール様は垣根の向こうへ去っていった。

東屋に、殿下と私だけが残る。

私は殿下の方を向く。



「殿下。どういうおつもりですか」


「王家の代表として、正確な情報を伝えた」


「正確すぎます」


「不正確な縁談は、あとで不幸になる」



殿下はそれだけ言って、お茶を飲み干す。

私は言い返す言葉を探して、見つけられなかった。


七年間、天気の話しかしなかった人が、どうして私の冬の居場所を知っているのか。

それを聞く勇気も、なかった。




◇




二度目のお見合いは、宮廷図書館の閲覧室だった。

相手は侯爵家の次男、学者肌のエミール様。

王妃様の帳面には「穏やか・博識・顔は中」とあった。


今度こそ、と思った。

私は「穏やかな方」と言ったのだから、条件にぴったりだ。


閲覧室の長机に、エミール様と私が向かい合う。

私の隣に、殿下。

殿下の隣に、なぜかソフィア殿下。



「お兄様だけずるいでしょう。わたくしも王家の代表よ」


「ソフィア、帰れ」


「嫌よ」



エミール様は眼鏡を押し上げて、困ったように笑った。

それでも、さすがに学者だった。

古い詩の話から、星の運行の話まで、落ち着いた声で話してくれた。


殿下も、今日は口を挟まない。

私は少しだけ、肩の力を抜く。

この方となら、静かに暮らせるかもしれない。



「ロザリンデ嬢は、星はお好きですか」


「ええ。子どものころ、よく眺めていました」


「それはいい。いつか、我が家の観測塔にご招待しますよ。王都でいちばん高い塔です」



私の指先が、机の下で固まる。

高いところは、苦手だ。

前世からずっと、苦手だ。


殿下が、何か言いかけた。

けれど、言う前に閲覧室の扉が開いた。



「失礼する」



レオポルト閣下だった。

手に、紐で綴じた書類を持っている。

閣下はそれを、机の上にどさりと置く。



「エミール殿。王都の賭博場三か所に、合わせて金貨四百枚の借りがあるな」


「な……」


「返済のあてに、侯爵家の蔵書を質に入れる相談をしているとも聞いた。斥候は優秀でね」



エミール様の顔から、みるみる血の気が引いていく。

ソフィア殿下が「まあ」と楽しそうに口を押さえた。


エミール様は震える手で眼鏡を外し、ひとことも言わずに閲覧室から逃げ出した。

閣下は書類を回収しながら、私に向かって頭を下げた。



「すまない、ロザリンデ嬢。見合いの前に調べ終えるはずが、一日遅れた」


「い、いえ……ありがとうございます」


「次はもっと早く調べる。国境の斥候をあと二人増やす」



閣下が出ていくと、ソフィア殿下が私の袖を引いた。



「ねえ、塔の話のとき、お兄様、止めようとしたでしょう」


「ソフィア」


「ロザリンデ様、高いところが苦手なのよね。お兄様、ずっと前からご存じだったのよ。王宮の見張り台に案内されたとき、階段の途中で青くなっていたって」



十二歳の夏のことだった。

確かにそんなことがあった。


殿下は、あのとき何も言わなかった。

黙って私の手を引いて、階段を下りてくれただけだった。


私は殿下の横顔を見る。

殿下は、書架の背表紙を読んでいるふりをしている。




◇




学園での私は、一つ目の誓いを守っていた。

ヒロインに関わらない。

ミレイユ様がいる教室には近づかず、廊下ですれ違ったら礼だけして通り過ぎる。


ゲームで悪役令嬢がやったことは、一つもしていない。

教科書を隠していないし、噴水に突き落としてもいないし、舞踏会の招待状を破ってもいない。


それなのに、ある日の放課後、ミレイユ様の方から私の前に立ちはだかった。



「ロザリンデ様。少し、よろしいですか」



蜂蜜色の髪に、大きな瞳。

ゲームのパッケージそのままの顔だった。

けれど、その目は少しも笑っていない。


私は周りを見る。

人気のない、裏庭へ続く回廊だ。



「何かご用でしょうか」


「どうして、何もしてこないんですか」


「……何も、とは」


「教科書も、噴水も。とっくに起きているはずなのに」



私は息をのんだ。

この子も、知っている。

あのゲームを、知っている。



「それに、殿下が全然こっちを見てくれないんです。中庭で話しかけても、三言で帰っちゃう。好感度が上がらないの。イベントが起きないから」


「ミレイユ様」


「あなたが何かしたんでしょう。婚約を解消して、殿下を自由にしたふりをして、裏で邪魔してる」



違う、と言おうとした。

私は何もしていない。


殿下が三言で帰るのは、殿下がそういう人だからだ。

七年間、私にも天気の話しかしなかった人だ。

けれど、ミレイユ様は私の答えを待たなかった。



「いいです。起きないなら、起こしますから」


「起こす?」


「卒業舞踏会は、ちゃんと来ますよね。断罪イベントは、あそこで起きるんです。悪役令嬢が何をしたかなんて、証言があれば十分なんですよ」



ミレイユ様はにっこり笑って、スカートの裾を翻した。

甘い香水の匂いだけが、回廊に残る。

私は冷えた指先を握りしめる。


何もしなければ破滅しない、と思っていた。

でも、この世界には、破滅を望む人がいる。




◇




その夜、私は王宮に泊まることになった。

三度目のお見合いの打ち合わせが長引いたからだ。

王妃様の帳面は、すでに二冊目に入っていた。


客間に向かう回廊の途中で、窓から庭を見下ろしている人がいた。

アルベルト殿下だ。

月明かりの下で、殿下はいつもより背が低く見えた。



「……殿下」


「ロザリンデ」



殿下は振り返らずに言った。



「今日の打ち合わせは、どうだった」


「王妃様が、次は南の伯爵家の方だと。海の見えるお屋敷だそうです」


「そうか」


「その方の身辺は、閣下がもう調べ終えたそうです。借金も、女性も、賭け事もないと」


「そうか」



殿下は、それきり黙る。

私は殿下の隣に立って、同じ庭を見下ろす。

噴水の水音だけが聞こえる。


聞くなら、今しかない気がする。



「殿下。どうして、お見合いに毎回いらっしゃるんですか」


「王家の代表だからだ」


「それは、陛下が決めたことですか」


「……いや」



殿下は、ようやく私の方を向く。



「俺が、父上に頼んだ」



私は言葉を失った。

殿下は窓枠に手を置いたまま、少し早口になった。



「君が婚約の解消を望むなら、止める資格は俺にはない。七年、ろくに話もしなかった。君が退屈していたのは知っていた」


「退屈だなんて」


「天気の話しかしなかった。君の好きなものを知っていても、どう話せばいいか分からなかった」



殿下は、少しだけ目を伏せる。



「だから、せめて、君が誰を選ぶかは見ていたかった。君を冬の雪原に連れていく男や、君を塔に上らせる男を選ばないように」


「……それで、全部答えてしまったんですか」


「全部、事実だ」



私は、思わず笑ってしまった。

笑いながら、胸の奥が痛かった。


ゲームの殿下は、ヒロインにだけ笑う人だった。

でも、目の前の殿下は笑っていない。

笑わないまま、私の冬の居場所を、紅茶の檸檬の厚さを、十二歳の夏の階段を、全部覚えていた。



「殿下は、ミレイユ様のことを、どう思っていらっしゃるんですか」


「誰だ」


「……ブランシュ男爵令嬢です。中庭で、よくお話しされているでしょう」


「ああ。毎日、同じ時間に同じ場所にいる人だ。道を聞かれるので、答えている」


「道を」


「毎日、図書館の場所を聞かれる。三言で済む」



私は額に手を当てる。

好感度が上がらないわけだ。

殿下は、ミレイユ様の名前すら覚えていなかった。


ゲームの殿下と、この殿下は、どこかが違う。

あるいは、私が悪役令嬢をやめたから、何かが変わったのかもしれない。



「ロザリンデ」


「はい」


「次の見合いで、もし君がその男を気に入ったら」



殿下は言いかけて、口をつぐんだ。

長い沈黙のあとで、殿下は窓から離れた。



「……いや。おやすみ」



殿下は回廊の奥へ歩いていった。

私はその背中を、見えなくなるまで見ている。

言いかけた言葉の続きが、気になって眠れなかった。




◇




三度目のお見合いは、七月の二十日、王宮の音楽室で開かれた。

相手は南の伯爵家の嫡男、フェリクス様。

海辺の領地の人らしく、声も物腰もゆったりしている。


王妃様の帳面には「穏やか・家柄よし・顔よし・閣下の調査、問題なし」と花丸が三つ並んでいた。

今度こそ、本当に条件どおりだ。

音楽室の扉を開けて、私は立ち止まった。


音楽室には、王家が全員そろっていた。

陛下は竪琴を膝に抱えている。

王妃様は帳面を開いている。

ソフィア殿下はお菓子の皿を抱えていて、レオポルト閣下は窓際で腕を組んでいる。


アルベルト殿下は、いつものように私の隣の椅子の前に立っていた。

フェリクス様は、部屋の真ん中で、さすがに笑顔を固まらせていた。



「……陛下まで、いらっしゃるのですか」


「竪琴の話が出ると聞いたのでな。余も少々たしなむ」


「陛下、今日はロザリンデ嬢のお見合いですのよ」


「分かっておる。邪魔はせん。弾くだけだ」



陛下は本当に弾き始める。

意外なほど上手だ。


フェリクス様は咳払いをして、私の向かいに座り直す。

殿下も、黙って私の隣に座る。



「ロザリンデ嬢。我が家の屋敷は、海の見える崖の上にあります」


「崖、ですか」


「ご安心を。崖といっても、低いものです。窓から見下ろすと、波が白くほどけるのが見えるんですよ」



低い崖。

低くても、崖は崖だ。


私は、隣の殿下を横目で見る。

殿下は膝の上で拳を握ったまま、口を閉じている。

何も言わない。


あの夜の回廊から、殿下は少し変わった。

私の代わりに答えるのを、我慢しているのだ。

それが分かって、私は自分で口を開いた。



「実は、高いところが少し苦手なんです。窓から離れた部屋をいただけると嬉しいです」


「おや、それは失礼しました。では、海は浜辺から眺めましょう」



フェリクス様はあっさりと笑った。

本当に、穏やかな人だ。

陛下の竪琴が、明るい曲に変わった。



「ロザリンデ嬢も、竪琴を弾かれると伺いました。よろしければ、一曲」


「あ……」



人前で弾くのは嫌いだ。

下手だからではない。

弾いているあいだ、誰かに見られていると思うと、指がすくんでしまう。


それを知っているのは、この部屋ではたぶん一人だけだ。


私は殿下を見る。

殿下は、まだ黙っている。

黙ったまま、私をまっすぐ見ている。


自分で言え、と言われている気がした。

いや、違う。

君が言うなら、それでいい、と言われている気がした。



「ごめんなさい。人前で弾くのは、苦手なんです」


「それは残念。では、いつか二人きりのときに」


「……その日が来たら」



フェリクス様は、にこやかに頷く。

お見合いは、それから一刻ほど穏やかに続いた。


海の話、領地の果樹の話、南の祭りの話。

殿下はひとことも口を挟まない。

陛下は三曲弾いて、満足そうに竪琴を置いた。


これは、まとまるかもしれない。

私はそう思い始めていた。


帰り際、フェリクス様は丁寧に一礼して、それから、声をひそめた。



「ロザリンデ嬢。大変すてきな方だと思います。ただ」


「ただ?」


「殿下が、一刻のあいだ、一度もまばたきをなさらなかった」



私は隣を見る。

殿下は、まだ私の方を向いている。

言われてみれば、目が少し赤い。



「何も言わずにあれだけ見つめられると、私には、その、崖より怖いのです」



フェリクス様は申し訳なさそうに笑って、音楽室を出ていった。

ソフィア殿下が、お菓子を喉に詰まらせてむせている。

王妃様は帳面に何か書き込んで、ため息をつく。



「お黙りになる練習の次は、まばたきの練習ね、アルベルト」


「……努力します」



殿下は、ようやく一度まばたきをした。




◇




四度目のお見合いは、九月の初め、王宮の馬場だった。

相手は西の子爵家の三男で、乗馬の名手だという。


高いところは苦手でも、馬の背なら大丈夫だ。

王妃様がそう判断して、場所を決めた。

ただ、陛下が「落馬があってはならん」と言い出したせいで、馬場の柵の内側に近衛騎士が十二名並ぶことになった。


殿下のほかの王家は、全員が見物席にいる。

殿下は、私の馬の手綱を引く係を買って出た。



「殿下、手綱くらい自分で持てます」


「知っている。君は乗馬が上手い」


「では、なぜ」


「……王家の代表だ」



子爵家の三男は、馬場を一周したところで馬を下りた。

近衛騎士十二名の視線と、見物席の王家四名の視線と、手綱を握る王太子の視線に囲まれて、彼は青い顔で言った。



「私には、無理です」



五度目の相手は、会う前に自分から辞退してきた。

手紙には「王宮で何が起きているかは、もう社交界じゅうの噂です」と書いてあったらしい。

王妃様の帳面は三冊目に入り、候補は残り十一名になった。




◇




卒業舞踏会の夜が来る。

王宮の大広間には、千の燭台が灯されている。

天井には、ゲームの題名どおり、星を描いた天井画が広がっている。


半年前、私はこの夜に破滅するはずだった。

今の私は、婚約者のいない公爵令嬢で、王家の三冊の帳面の主役だ。

どちらがましなのかは、まだよく分からない。


私は、いつも通り暖炉に近い柱の陰に立っていた。

今夜は秋なので、暖炉に火はない。

それでも、ここがいちばん落ち着く。


楽団の演奏が一曲終わったときだった。



「皆様、聞いてください!」



澄んだ声が、大広間に響く。

ミレイユ様だ。


広間の中央に立ち、胸の前で両手を握りしめている。

目には、きれいな涙が浮かんでいる。


来た。

ゲームと同じ台詞、同じ立ち位置だった。



「わたくし、ずっと耐えてまいりました。でも、もう黙っていられません。エーデル公爵令嬢ロザリンデ様に、ひどい仕打ちを受けてきたのです」



ざわめきが広がる。

人の輪が割れて、柱の陰の私が、広間じゅうの視線にさらされた。

ミレイユ様は、指を折りながら続けた。



「五月の十四日、教科書を裏庭の池に捨てられました。六月の二日、噴水に突き落とされました。七月の二十日、舞踏会の招待状を目の前で破られました。そして九月の九日、大階段から突き落とされそうになったのです」



完璧だ。

ゲームのイベントが、日付つきで並んでいる。


周りの令嬢たちが、ひそひそと私を見る。

私は、自分の手が震えているのに気づいた。


私は何もしていない。

でも、していないことを、どう証明すればいいのだろう。

そのとき、大広間の奥の玉座から、低い声がした。



「五月の十四日」



国王陛下だ。

陛下は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を下りてきた。


その後ろに、王妃様が続いた。

王妃様は、分厚い革の帳面を三冊、胸に抱えていた。



「マルグリット。五月の十四日は」


「辺境伯家のグレゴール様とのお見合いですわ。王宮の東屋で、午後一時から三時まで」



王妃様が帳面をめくりながら、よく通る声で答えた。



「同席は、アルベルトです。わたくしも陛下も、垣根の向こうで一部始終を見ておりました」


「見ておられたんですか」



私は思わず声を出した。

王妃様は、にこりと笑った。



「当たり前でしょう。王家の責任ですもの」



ミレイユ様の顔が、わずかに引きつった。

陛下が続ける。



「六月の二日は」


「侯爵家のエミール様。宮廷図書館の閲覧室で、午前十時から正午まで。同席は、アルベルトとソフィア。途中からレオポルト様」


「七月の二十日は」


「南の伯爵家の方。王宮の音楽室で、午後から。同席は、王家全員ですわ。あの日は陛下も竪琴の話に加わりたいとおっしゃって」


「九月の九日は」


「西の子爵家の方。王宮の馬場で。同席は王家全員に、近衛騎士が十二名」



王妃様はぱたんと帳面を閉じる。

大広間が静まり返る。



「ブランシュ男爵令嬢。あなたがおっしゃった日は、すべてロザリンデ嬢が王家の見合いに出ていた日です。支度から打ち合わせまで、朝から晩まで王宮におりましたの。証人は、王家全員ですわ」



ミレイユ様は、口をぱくぱくさせる。



「そ、そんな……日付を、間違えただけで」


「では、正しい日付をどうぞ」



王妃様が、やさしく首をかしげる。



「ロザリンデ嬢がこの半年で学園にいた日は、帳面に全部書いてございます。お見合いと打ち合わせのない日は、数えるほどしかありませんのよ」



人垣の後ろから、レオポルト閣下が進み出た。

手には、また紐で綴じた書類を持っていた。



「ついでに申し上げておこう。九月の九日、ブランシュ男爵令嬢は、学園の大階段で、同級の令嬢に『悪役令嬢に突き落とされたと証言してくれたら、殿下に口をきいてあげる』と持ちかけている。断られたそうだがね」



ざわめきが、今度はミレイユ様に向く。

閣下は書類をひらひらと振る。



「斥候は優秀だと、前にも言ったはずだ。ロザリンデ嬢の周りは、半年前から見張っている。見合い相手の身辺を調べるついでにね」



ミレイユ様の顔から、完全に色が消えた。

彼女は私を睨み、それから、アルベルト殿下を探した。



「殿下!殿下は、信じてくださいますよね。わたくし、毎日お話ししましたよね」


「……道を聞かれたことは覚えている」


「道……?」


「毎日、図書館の場所を聞かれた。毎日、同じ答えを返した。半年間、一度も図書館に着かなかったようだが」



誰かが噴き出した。

それをきっかけに、大広間のあちこちで笑いが起きた。

ミレイユ様は顔を真っ赤にして、その場に立ち尽くした。


やがて、青ざめたブランシュ男爵が人垣から転がり出てきて、娘の腕を引いた。

男爵は何度も頭を下げ、ミレイユ様を引きずるようにして、大広間から出ていった。

扉が閉まる直前、ミレイユ様の叫び声が聞こえた。



「こんなの、ゲームと違う……!」



違うわよ、と私は心の中で答えた。

悪役令嬢が何もしなかったら、断罪イベントは起きない。

起こそうとした人が、自分で自分の首を絞めるだけだ。




◇




楽団が、ためらいがちに次の曲を奏で始めた。

人々の視線が散っていく。


私は柱に背をあずけて、長い息を吐いた。

膝から力が抜けそうだった。



「ロザリンデ」



陛下の声だった。


顔を上げると、王家の全員が私の前に並んでいた。

陛下、王妃様、ソフィア殿下、レオポルト閣下。

少し後ろに、アルベルト殿下。



「怖い思いをさせた。すまなかった」


「いいえ、陛下。助けていただいて……ありがとうございました」


「礼には及ばん。王家の責任を果たしただけだ」



陛下は、こほんと咳払いをした。

王妃様が、三冊目の帳面を開いた。



「それでね、ロザリンデ嬢。縁談の件なのだけれど」


「は、はい」


「候補は、残り十一名。でも、実はもう一人、帳面に載っていない方がいるの」



王妃様は、帳面のいちばん最後のページを開いて、私に差し出した。

そこには、見覚えのある几帳面な字で、一行だけ書かれていた。



『アルベルト。条件:何もしなかった七年を、やり直させてほしい』



私は顔を上げた。

アルベルト殿下が、一歩前に出た。

燭台の光のせいか、耳だけでなく、首まで赤かった。



「最初の見合いの前夜に、母上の帳面に書いた。候補が全員だめだったら、見せてもらうつもりだった」


「全員、だめにしたのは殿下では」


「……事実を伝えただけだ」



ソフィア殿下が「往生際が悪いわ、お兄様」と笑った。

レオポルト閣下が「この候補の身辺は、調べるまでもないな」と肩をすくめた。


陛下は腕を組んで、そっぽを向いていた。

その口元が、どうしようもなく緩んでいた。



「ロザリンデ。俺は、君の好きなものを知っている」



殿下は、まっすぐ私を見た。



「紅茶に砂糖を入れないこと。薄い檸檬。冬の暖炉の、柱の陰。竪琴。高いところが苦手なこと。それから」



殿下は一度だけ言葉を切った。



「君が、本当は婚約を解消したくなかったかもしれないこと。謁見室で、手が震えていた」



私は、自分の手を見た。

今も、少しだけ震えていた。


七年間、この人は天気の話しかしなかった。

でも、ずっと見ていたのだ。

ゲームの殿下が一度も見なかった、悪役令嬢の小さな癖を、全部。



「……殿下。一つだけ、条件があります」


「何でも言ってくれ」


「天気の話以外も、してください」



殿下は、目を瞬かせた。

それから、七年で初めて、私の前で笑った。

ぎこちなくて、少しだけ下手な笑い方だった。



「努力する。まずは、明日の天気の話から」


「それは天気の話です」


「……明日は晴れる。晴れたら、君と庭を歩きたい。これは、天気の話ではない」



王妃様が、帳面に大きな花丸を描いた。

こうして、王家が総出で探した「最高の縁談」は、振り出しの一行に戻ってきた。




↓番外編「縁談帳の最後のページ」(王妃視点。縁談帳を書き続けた半年と、最後の一枚)

https://note.com/wise_turtle184/n/nb309ce01ef15

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