第33話 届かない
イーサンが地面を蹴った。
速い。
瞬きをする間に、白銀の刃が目の前にあった。
盾で受ける。
ひびの入っていた銀の膜が、その一撃で砕け散った。
腕が痺れ、足が地面を削って後ろへ滑る。
「イーサンさん! 僕です、ライルです!」
返事はなかった。
二撃目、三撃目。
盾で受けるたびに、骨まで響くような衝撃が走る。
——重い。
刺客たちとは、まるで違う。
イーサンの背後で、景色がわずかに揺らいだ。
外套を羽織ったシドが、剣を持つ手を狙って短剣を振るう。
だけど、イーサンは振り返りもしなかった。
剣の柄で短剣を弾き、そのままシドの腹を蹴り飛ばす。
「がっ……!」
「シド!」
——見えているのか。
イーサンが、ゆっくりとこちらに向き直った。
彼と目が合う。
暗い。
光を映していない。
コルネ村で、リンドルで、穏やかに笑っていたあの目じゃなかった。
「……精神操作よ」
背中から、ティナのかすれた声がした。
——それでも。
ここで止めなければ、ティナが殺される。
僕は剣を抜いた。
「……ごめん、イーサンさん」
踏み込んで、斬りかかる。
イーサンは、ほとんど動かなかった。
僕の剣を軽くいなし、返す刃が左の肩を裂く。
焼けるような痛みが走った。
もう一度。
今度は、剣ごと弾き上げられた。
手から離れた剣が、くるくると宙を舞って、遠くの地面に突き刺さる。
——届かない。
覚悟を決めても、僕の剣じゃ、この人には届かない。
盾だけが、手に残っていた。
イーサンの剣が、太ももを浅く裂いた。
膝が、がくりと落ちる。
それでも、ティナの前からは動かなかった。
「ライル、もういいから……逃げて……!」
「……嫌だ!」
イーサンが、剣を引いた。
切っ先が、まっすぐに僕の胸へ向けられる。
盾を上げようとした。
腕が、もう上がらなかった。
そのとき、僕の横を誰かが駆け抜けた。
「イーサンさん! 目を覚ましてください!」
クレアだった。
錫杖を投げ捨て、両手を広げて、僕とイーサンの間に飛び込む。
「クレア、だめだ!」
突き出された剣が、一瞬、止まった。
そう見えた。
次の瞬間、白銀の刃が、クレアの腹を貫いていた。
錫杖が地面に転がり、輪が、シャランと鳴った。
イーサンの手が、震えていた。
剣の柄を握ったまま、指先がかたかたと鳴っている。
柄頭の黒い石に、ぴしり、と細いひびが走った。
「……クレア……さん……?」
かすれた声だった。
暗く沈んでいた瞳に、ほんの一瞬、光が戻る。
だけど、黒い石が脈打つように明滅すると、その光はまた呑み込まれていった。
——あの石が原因なのか?
動かない腕に、力を込めた。
膝をついたまま、盾を振り上げる。
「うあああああっ!」
一か八か、盾の縁を柄頭の黒い石に叩きつけた。
石が砕ける。
次の瞬間、白銀の刃が、根元から黒い砂になって崩れ落ちた。
さらさらと、地面にこぼれていく。
イーサンが、頭を抱えて叫んだ。
獣のような声だった。
そのまま、糸が切れたように地面に倒れる。
刃を失って、クレアの体がぐらりと傾いた。
「クレア!」
倒れ込むクレアを、なんとか抱き止める。
腹から、温かいものが溢れて、僕の手を濡らしていく。
「ティナ! クレアに回復魔法を!」
ティナが、地面を這ってきた。
立ち上がれない体で、腕だけで、少しずつ。
クレアの傷口に、震える両手をかざす。
「……癒しを……っ」
何も起きなかった。
「なんで……! なんで使えないのよ!」
もう一度。
もう一度。
ティナの指先に、光はひとかけらも灯らない。
紫の光だけが、足元で静かに明滅していた。
「ティナ……さん……」
クレアが、薄く目を開けた。
「いいんです……」
「よくない! 黙ってなさい!」
ティナの声が裏返った。
クレアは、少しだけ笑った。
それから、倒れているイーサンのほうへ、ゆっくりと目を向ける。
「イーサンさんを……恨まないで、くださいね……」
「クレア……」
クレアの手が、僕の腕を探すように動いた。
その指から徐々に温もりが失われていくのがわかった。
「……なんだか、寒いです……」
「クレア、しっかりして!」
「ティナさん……孤児院の、子たちのこと……」
ティナは、唇を噛んで、何度も頷いた。
クレアの目尻から、一筋の涙がこぼれた。
まぶたが、ゆっくりと閉じていく。
僕の腕をつかんでいた指が、ほどけて落ちた。
「……クレア?」
返事はなかった。
ティナは、まだ手をかざしていた。
唱える声だけが、何度も、何度も、谷に響いていた。
どれくらい、そうしていただろう。
背後で、土を掻く音がした。
振り返ると、イーサンが身を起こしていた。
その瞳には、もう暗い色はなかった。
イーサンは、自分の手を見た。
それから、黒い砂の散らばる地面を見て、僕の腕の中のクレアを見た。
全部、覚えているのだと、その顔でわかった。
「……あ……」
イーサンは、這うようにクレアのそばへ来ると、その傷口に両手をかざした。
「癒しよ……!」
イーサンの手から、柔らかな白い光が溢れた。
ティナがどれだけ唱えても灯らなかった光が、クレアの傷を包んでいく。
傷は、塞がっていった。
だけど、クレアの胸は、もう動かなかった。
「目を……開けてください……」
イーサンは、癒しを止めなかった。
「クレアさん……故郷の森を、案内すると約束したではありませんか……!」
光が、何度も、何度もクレアを包む。
ティナが、イーサンの腕をつかんだ。
「……もうやめて」
かすれた声だった。
「クレアは、もう……」
イーサンの手から、光が消えた。
谷に、風が吹き抜けた。
誰も、何も言えなかった。
遠くで鎧の擦れる音がした。
土煙が、さっきよりずっと近い。
騎士団の旗が、はっきりと見えるところまで迫っていた。
——逃げないと。
頭ではわかっていた。
だけど、クレアを抱いた腕も、足も、動かなかった。
「……姫様」
すぐそばで、低い声がした。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
黒い布で顔の半分を覆った人影が、ティナの傍らに膝をついていた。
ティナが、ゆっくりと顔を上げる。
「……あんた」
「申し訳ございません……」
その人の黒い装束は、あちこちが裂けていた。
左腕を、だらりと下げている。
裂けた袖から地面に滴る血は、青かった。
「この先、谷を抜けたところに転移の陣を用意してあります。お急ぎを」
それから、その人は僕の腕の中に目を落とした。
「……その方は、私がお運びします」
僕は、クレアを離せなかった。
「ライル」
シドが、僕の肩に手を置いた。
その手も、震えていた。
僕は、クレアの顔を見た。
眠っているみたいだった。
そっと、腕をほどいた。
その人は、片腕だけで、壊れ物を扱うようにクレアを抱き上げた。
「……行ってください」
背後で声がした。
イーサンが立ち上がっていた。
頬を、涙が伝っている。
だけど、その目は何かを決意した人のものだった。
「私が、ここで時間を稼ぎます」
「イーサンさん、何を……!」
「私には、もう、それくらいしかできません」
イーサンは、迫ってくる土煙のほうへ向き直った。
その手には、何も握られていない。
腰の剣帯も、空だった。
黒い装束の人が、しばらくイーサンの背中を見ていた。
それから、腕を何もないところへ伸ばした。
空間が、水面のように揺らいだ。
そこから、一振りの剣が引き抜かれる。
黒い両手持ちの大剣だった。
刃の芯に、暗い赤がゆらめいている。
「その心意気、気に入った。使え」
剣が、イーサンの足元に突き立った。
イーサンは、一瞬だけそれを見つめ、柄を握った。
「……感謝します」
「礼は要らぬ。あとで返しに来い」
イーサンは、小さく笑った。
いつもの、穏やかな笑みだった。
「ライル殿」
背を向けたまま、イーサンが言った。
「クレアさんを、頼みます」
僕は、何も答えられなかった。
「行くわよ……」
ティナが、シドの肩を借りて立ち上がった。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
黒い装束の人がクレアを抱えて先導する。
僕たちは、谷の出口へ向かって走った。
足元の紫の光が途切れた少し先で、地面に描かれた陣が、白く輝いていた。
陣の中に飛び込む。
光が、足元から立ち上っていく。
最後に、振り返った。
土煙の向こうから、騎士団の列が押し寄せてくる。
その前に、一人の男が立っていた。
黒い剣を手に、たった一人で。
勇者イーサンは、まっすぐに剣を構えた。
視界が、白く染まった。
——第二部 完——




