第32話 勇者イーサン
「……お断りいたします」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
「イーサン殿、それは——」
「コルネ村に魔物の大群が押し寄せたとき、村を守ったのは彼らです。ほかにも各地で彼らの活躍は聞いております」
イーサンは、まっすぐに教皇を見返した。
「力を持つものが人々を救う。それが教会の教えのはず……たとえ、その力が魔族のものだったのだとしても」
イーサンは一度、言葉を切った。
「多くの人々の命と心を救いました。私にとって、彼らは英雄です」
「勇者ともあろう者が、魔族に与する者をかばうのですか」
宰相の声は静かだったが、冷たかった。
「私は、剣を向ける相手を間違えたくないだけです。……失礼いたします」
イーサンは深く一礼すると、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「……困りましたね」
宰相が、教皇に目を向ける。
教皇は、指輪をゆっくりと撫でた。
「ご安心を。すでに手は打っておりますゆえ」
◇◆◇◆◇
——数日後、大聖堂の奥、教皇の私室。
イーサンが部屋に入ると、教皇は窓辺に立っていた。
宰相の姿はない。
「先日は、失礼をいたしました」
イーサンは一礼した。
討伐を断ったことを、咎められるのだと思っていた。
「いえいえ。あなたの申すことにも、一理ありましてな」
教皇は、穏やかに笑った。
指輪をはめた指で、机の上の細長い箱を示す。
「今日は、詫びの印をお渡ししたくてお呼びしたのです」
教皇が箱の蓋を開けた。
中に収められていたのは、一振りの剣だった。
白銀の鞘に、細かな金の装飾が施されている。
柄頭には、親指の先ほどの黒い石がはめ込まれていた。
「教会に代々伝わる聖剣です。勇者であるあなたにこそ、ふさわしい」
イーサンは、すぐには手を伸ばさなかった。
——聖剣と呼ぶには、どこか冷たい。
見ているだけで、背筋がざわついた。
「……私には、過ぎた品かと存じます」
「何をおっしゃる。手に取ってください。聖剣が、あなたを選ぶかどうかも見てみたい」
教皇は張り付けたような笑みを浮かべていた。
断る理由を探した。
だが、目の前の聖剣から目を離すことができなかった。
柄頭の黒い石が、まるで呼吸をするように、かすかに明滅している。
気づけば、手が伸びていた。
柄を握った瞬間、指先から冷たいものが流れ込んできた。
冷たさは腕を伝い、肩を這い上がり、胸の奥に沈んでいく。
「……っ」
剣を離そうとした。
指が、動かない。
視界の端が、黒く滲んでいく。
教皇の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「魔族と、それに与する者どもを、討ちなさい」
——違う。
あの人たちは……
その思いも、黒い水の底へ沈んでいくように、形を失っていった。
「古い剣は、もう要りますまい」
イーサンは、腰の剣帯に手をかけた。
長年使い込んだ剣が、鞘ごと床に落ちる。
がらん、と乾いた音がした。
イーサンは、それを見ることはなかった。
聖剣を手に、ただ、まっすぐに立っている。
窓から差し込む光が、その顔を照らしていた。
穏やかな笑みは消えていた。
瞳だけが、柄頭の石と同じ色に染まっていた。
「……はい」
抑揚のない声だった。
教皇は満足そうに、指輪を撫でた。
◇◆◇◆◇
王都を出て、四日が過ぎた。
幸い、予想していた襲撃は一度もなかった。
その夜、僕たちは街道から外れた林の中で火を囲んでいた。
シドが見張りに立ち、ティナは干し肉をかじりながら、ぱちぱちと爆ぜる火を見つめている。
「……串焼き、食べたい」
「さっき夕飯食べたばかりだよね……」
「串焼きは別腹よ!」
クレアがくすくすと笑った。
王都を出てから、クレアがこんなふうに笑うのは初めてかもしれない。
「そういえば、イーサンさん、元気にしているでしょうか」
クレアが、ふと思い出したように言った。
「イーサン? 誰だっけ……」
ティナが首をかしげた。
「リンドルで迷い猫を探したとき、一緒に探してくれた勇者様ですよ。いつか、故郷の森を案内してくれるって約束してくれたんです」
「ああ、あの猫にやたら懐かれてた人ね。そういえば、そんなこと言ってたわね」
「森で育ったから、動物の気持ちがわかるんだそうです。私、森ってあまり行ったことがないので、楽しみなんです」
クレアは、両手で膝を抱えた。
「それに……教会を変えたら、孤児院の子たちも連れていってあげたいなって。エルデンハイムの王の家みたいに、みんなでお腹いっぱい食べて、外で思いきり遊べるような場所に、いつかしたいんです」
「クレアなら、きっとできるわよ」
ティナが、ぶっきらぼうに言った。
火のほうを向いたまま、こちらを見ようとしない。
「本当ですか?」
「……私が手伝ってあげるんだから、当たり前でしょ」
「ティナさん……!」
クレアがティナに抱きついた。
炎が照らしているせいか、ティナの顔が赤く見えた。
——こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
僕は火に薪をくべた。
◇◆◇◆◇
翌日の昼過ぎ。
僕たちは、両側を切り立った崖に挟まれた谷あいの道に差しかかっていた。
街道を外れて歩いてきたけど、リンドルへ戻るには、どうしてもこの谷を抜けなければならない。
「……静かすぎるな」
シドが足を止めた。
鳥の声も聞こえないほど静まり返っていた。
そのとき、足元が光った。
紫の光が、地面を走る。
一本、二本と線が増え、谷全体を覆うように広がっていく。
——この光は。
「ティナ!」
振り返ったときには、ティナはもう地面に膝をついていた。
「うそ……でしょ……」
教会の地下のときとは比べものにならなかった。
ティナは、立ち上がることすらできずにいる。
額に、びっしりと汗が浮かんでいた。
「クレア、援護の用意を! シドは周りを警戒!」
「は、はい!」
「おう」
クレアが錫杖を構え、シドがあたりを見回す。
光の線は谷の向こうまで、どこまでも続いていた。
どこが始まりなのかも、わからない。
谷の後方で、土煙が上がった。
遠くに、騎士団の旗が見える。
まだ距離はあるけど、確実にこちらへ向かってきている。
「ライル、前だ!」
シドの声に振り向く。
谷の出口に、十人ほどの武装した集団が道を塞ぐように並んでいた。
後ろからは騎士団がどんどん迫ってきている。
その列が不意に左右へ割れた。
その間を一人の男がゆっくりと歩いてくる。
長い髪を後ろで束ね、白銀の鞘に収まった剣を手にしていた。
「……イーサンさん!」
クレアの声が弾んだ。
「よかった……イーサンさん、助けに来てくれたんですね!」
イーサンは答えなかった。
男たちの前で足を止め、ただ、こちらを見ている。
その手が、すっと上がった。
男たちが一斉に地面を蹴った。
「え……?」
クレアの声が、かすれた。
「クレア、下がって!」
僕はティナの前に立ち、盾を構えた。
銀の膜が広がる。
最初に飛び込んできた刺客の剣が、膜に弾かれた。
二人目、三人目。
膜が軋み、腕が痺れる。
——ここから先には、行かせない。
「シド!」
「わかってる!」
シドが外套を羽織った。
その輪郭が、ふっと景色に溶ける。
膜に斬りかかっていた刺客の一人が、急に崩れ落ちた。
その隣の刺客も、背中を押さえて倒れる。
何が起きたのかわからないまま、刺客たちの足並みが乱れた。
「クレア、今だ!」
クレアは、まだイーサンを見つめていた。
唇が震えている。
それでも、クレアは錫杖を掲げた。
「……光よ!」
膜の内側に、数えきれないほどの光の矢が浮かび上がった。
矢は一斉に放たれ、刺客たちを次々と貫いていく。
最後の一人が地面に倒れたとき、谷には、僕たちの荒い息だけが残っていた。
銀の膜には、細かなひびがいくつも走っていた。
クレアは錫杖にすがるようにして、肩で息をしている。
シドが外套を脱いで、僕の隣に戻ってきた。
その間、イーサンは一歩も動かなかった。
倒れた刺客たちを、見下ろすことさえしない。
ただ、まっすぐに、僕たちを見ている。
いつもの穏やかな笑みは消えていた。
こちらを見ている瞳は、ひどく暗い。
イーサンが、ゆっくりと歩き出す。
そして、無言で剣を抜いた。




