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役に、立てるんです

 今思うと少し、可哀そうな子だったのかも。自分で認めたくは、無いけれど。


 その日はたしか、帳面の紐をほどくと、擦り切れた表紙の角が指に引っかかった。


 窓の外はまだ青くて。向かいの屋根で鳩が一羽、羽を膨らませたまま動かないのがみえたはず。


 私は寝床に腰かけ、膝の上で帳面を開いた。


 昨夜書いた頁。少し自分でも、読みづらい。


 宿屋 買い出し


 古本屋 棚


 午後 荷運び(たぶん)


 たった三行。


 最後の一行だけ、括弧の中の字が異様に小さい。右へ傾いて、上の行にかかりそうになっている。


 前の頁をめくる。


 昨日の欄には、粉屋の袋詰めと手紙の代筆。両方に線が引いてある。その横に小麦粉の重さが書きつけてあった。一袋ずつ量った数字が、縦に八つ。


 その前の日は、井戸の滑車の油差し。


 その前の日は、何も書いていない。市場で一日、芋の皮を剥いた日だ。


 鉛筆を帳面の背に挟み直して、靴を履いた。


 紐を二度結ぶ。右の踵が少し薄くなっているけれど。


 まだ、履ける。


「ああ、ノエル。いいところに」


 宿屋の裏口を覗くと、女将さんが前掛けで手を拭きながら出てきた。台所から、玉葱を炒める匂いが流れてくる。くぅ、とお腹が鳴ったのが自分でもわかった。


「今日は多いよ。昼に団体さんが入るんでね」


 女将さんが口で言う品目を、帳面に書き取っていく。


 塩漬けの豚、二斤。


 玉葱、ひと籠。


 卵、三十。


 酢、小瓶で一本。


 粉は、先週と同じ店で。


「卵は割らないでおくれよ!」


「任せてください」


「いつもすまないね、頼んだよ!」


 女将さんは笑って、銀貨を二枚と銅貨を何枚か、私の掌に落とした。


 その場で数えて、帳面の端に数字を書いた。


 最初の頃は数えるなんて、信用がないのかい、なんて言われたりもしたけど。


 今は、何も言われない。それが少し、誇らしくもあったの。


 市場は、確か、朝の荷が入ったばかりで、通路に木箱が積まれていたような


 肉屋では、量りの針が止まるまで待ってから金を出す。


 玉葱は二軒目のほうが、ひと籠で銅貨二枚安かった。一軒目の親父さんに頭を下げて離れる。親父さんはあいよ、と言って手を振ってくれた。


 卵は、藁を敷いた箱ごと借りた。両腕で抱える。


 帰り道、籠の縁が腕に食い込んだ。持ち替えるたびに、箱の中で何かが小さく鳴る。そのたびに足を止めて、覗く。


 割れてはいない。


 台所の卓に品物を並べ、帳面を開いて、釣銭を返す。


「肉が四十二、玉葱が十八、卵が――」


「いいよいいよ、合ってるんだろ」


「えっと、はい、間違いなく」


「じゃあ、いいじゃないか!」


 それでも、最後まで読み上げた。女将さんは途中から聞くのをやめて、玉葱の皮を剥きはじめている。


 最後の銅貨を卓に置く。女将さんがそこから三枚をつまんで、私のほうへ押し返した。


「助かったよ。また頼むね」


「はい」


 銅貨を財布にしまう。三枚。これで、今日のご飯には、困らないから、足取りは軽かった。


 裏口を出るとき、奥で亭主さんの声がした。団体さんの部屋割りだ。表の掃除は誰。夜の配膳は誰。風呂の湯は誰。


 名前がいくつも呼ばれて、呼ばれるたびに、どこかから返事がした。


 羨ましいな、と正直、思いながら戸を閉めた。


 帳面を開いて、宿屋の行に線を一本引く。


 古本屋の戸を開けると、鈴が鳴るより先に古い紙の匂いが出迎えてくれる。


「来たね」


 奥さんは帳場で眼鏡を額に上げたまま、顎で奥を示した。


「三番から七番。昨日来たお客が、全部引っ掻き回していったんだよ」


 三番の棚は、背の番号がひとつも順番通りに並んでいなかった。


 十二の隣に、百四十。その上に、薄い冊子が三冊、横倒し。


 棚の本を床に下ろして、番号ごとに小さな山を作っていく。


 背の擦り切れた一冊を持ち上げたとき、綴じ糸がほつれかけているのが見えた。ここまでひっくり返してでも探したい本があったのか、それがどんな本なのか、少しだけ、気になる。


 指を、そっと緩める。


 紙を破ると、奥さんに怒られる。


 破らなくても、破りそうな持ち方をしただけで怒られる。


 両手で底を支えて、山に置いた。


 山がひとつ低くなるたび、棚が一段埋まる。


 最後の一冊が入る隙間は、最初から空いている。


 五番の棚にかかったあたりで、帳場から声が飛んできた。


「昼は?」


「終えてから、どこかで食べようかなと」


 返事はなかった。


 しばらくして、床に屈んでいる私の横に皿が置かれた。


 黒パンが二切れ。端の固くなったチーズ。


「余りもんだがね。どうせ捨てるから、とっとと食べちまいな」


 作業中の手を止めて立ち上がり、財布の口に指をかけた。


「いくら、ですか」


「だから、捨てるものだって」


「でも」


「いいから黙って食べな! 食べたらきちんと手を洗うんだよ! 商品を汚したら、承知しないからね!」


 奥さんはもう、帳場のほうへ歩き出していた。背中を向けたまま、何か小さく呟いているようだ。


 皿の前に座り直す。


 パンを一切れ取ると、表面がかさかさに乾いていた。噛むと、奥のほうだけまだ柔らかい。


 食べながら帳面を開く。


 膝の上に、財布の中身を並べた。


 今朝より、三枚多い。


 ここの分が入る。今夜の分を引く。明日の朝の分を引く。


 指で、一枚ずつ横へずらしていく。


 残りが、少ない。


 明日の分まで、とはいかないみたい。


 二切れ目のパンは、半分だけ食べた。残りを布に包んで、ポケットにしまった。


 七番の棚まで終えたのは、昼を少し、過ぎた頃。


 奥さんは私の手に銅貨を五枚置いて、ついでのように言った。


「来週、こんなにした客がまた来るってんだ」


「あはは……、大変ですね……」


 それが次の仕事なのか、ただのぼやきなのかは、分からないんだ。


 だから、帳面には、書けなかった。埋まっていない不安が、黒いもやもやが、お腹のあたりで、ずっとグルグル回っているんです。


 川沿いの倉庫の前には、午後になるといつも荷馬車が三台は並んでいる。


 その日も、それは、変わらなくて。


 荷台から麻袋を降ろしているのは、見覚えのある顔ばかり。その中に一人、知らない若い男が混ざっている。


「おう、ノエル」


 親方が首の汗を拭いながら、こっちを見た。それから倉庫の中を振り返った。


「悪いな。今日はいいんだ。甥っ子が来てくれてよ」


 知らない若い男が、麻袋を肩に担いだまま会釈した。


 つられて私も会釈を返す。


「分かり、ました……」


「明日はどうだか分からねえが」


「はい」


 倉庫の前を離れる。


 背中で、麻袋が荷台から落ちる重い音がした。


 通りを二本戻って、樽屋を覗いた。


 主人は鉋をかける手を止めずに、首を横に振ってくれる。


 三軒先の荷車屋は、戸口に錠が下りていた。


 井戸端の石に腰を下ろす。


 帳面を開く。


 午後 荷運び(たぶん)


 括弧の中の小さな字の上から、鉛筆で一本、横に線を引いた。


 財布を出して、銅貨を数える。


 八枚。


 今日の夕食は、買える。


 明日の朝は、ポケットのパンがある。


 帳面を閉じた。


 井戸の縁で、誰かが桶を引き上げる音がした。


「ちょいと、あんた」


 帰り道の角で呼び止められた。


 洗濯屋の隣のおばあさんが、自分の腰ほどもある布包みの横に立っている。


「これをね、娘のとこまで。赤い戸の家」


 赤い戸の家は、通りを二つ渡った先。宿屋の買い出しですら、自分にとっては重労働になるというのに。


 包みは見た目より軽い。抱えると、中で柔らかいものが潰れた。


「頼めるかい。あの子は冬物を出すのが遅いんだ」


 おばあさんは杖をつきながら、後ろをついてきた。


 赤い戸の前で、包みを降ろす。


 おばあさんが前掛けの隠しから、銅貨を一枚つまみ出した。


「ほら」


「いえ。すこし手伝ったくらいで」


「いいから受け取んな」


「ありがとう、ございます」


 おばあさんは、しばらく、私の顔を見上げていた。


「相変わらず、真面目だねえ」


 赤い戸が内側から開いて、娘さんが顔を出した。


 おばあさんが何か言う。娘さんが何か返す。二人が、同じ顔で笑った。


 会釈して、その場を離れた。


 角を曲がってからも、戸の閉まる音がしばらく耳に残っていた。



 夕方の鐘が鳴った。


 広場の噴水の縁に座って、帳面を開く。


 今日の頁は、三行とも線で消えている。


 次の頁は、白い。


 宿屋に行けば、団体さんの後片付けがあるかもしれない。


 古本屋は、来週まで分からない。


 市場なら、朝早く行けば誰かが荷を降ろしている。


 いつも通りだ。お腹が鳴る。これも、いつも通り。


 ポケットから布の包みを出す。黒パンの半切れは、昼よりもっと固くなっていた。


 明日の朝の分と決めたはずだった。


 包みを見下ろして、それから、端を少しだけ齧った。


 歩きながら、もう少し齧った。


 ローデンの外れへ足が向いたのは、パンに気を取られて、角をひとつ間違えたからで。


 この辺りには、あまり来ない。だって、用事が、その、仕事がありませんから。


 家と家の間が少しずつ空いていく。道の石が、途中から土に変わる。垣根の向こうで、山羊が鳴いた。


 その並びに、見たことのない店が目に付いた。


 間口は狭くて。


 軒先の看板は、板が雨風で少し反っていて。


 そのわりに、文字だけはやたらと丁寧で。


 配達困難郵便、承ります。


 配達不能印の押されたものも、ご相談ください。


「……郵便屋さん?」


 声に出してから、口の中にまだパンが残っていることに気づいた。


 扉に近づく。硝子越しに中を覗く。


 受付台らしい机。壁の仕分け棚。棚の升目は、ほとんど空いている。机の上には何も載っていない。暖炉に火も入っていなかった。


 扉には、札が掛けられていて。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 空を見上げる。西の屋根の上が、もう橙から灰色に変わりかけている。


 日暮れ前後なら、今頃のはず。


 道の先を見る。誰も来ない。


 反対側を見る。山羊が、こっちを見ていた。


 店の横の、古い雨樋の陰に入って、壁にもたれた。


 パンの残りを、少しずつ食べた。


 指についた粉を払う。


 道の先は暗くなっていくばかりで、足音もしない。


 空も見た。何も飛んでいない。


「……変な店」


 雨樋の陰から出て、来た道を戻った。


 寝床に戻る頃には、もう日はすっかりと落ちていた。


 蝋燭を一本だけ点けて、寝床の上で帳面を開く。


 白い頁の一番上に、明日の日付を書いた。


 宿屋


 古本屋


 鉛筆の先を紙に当てたまま、しばらく動かせないでいた。


 蝋燭の芯が、じじ、と鳴った。


 市場、と書きかけて、やめた。市場は、書かなくてもどうせ行くんだから。


 あの看板を思い出す。


 鉛筆を帳面の背に挟んだ。紐を二重に巻いて、枕の横に置いた。


 明日は明日で、仕事を探せばいい。


 今日もそうした。昨日もそうした。


 蝋燭を吹き消して。それから、瞳を閉じた。少し、肌寒い夜。


 翌日。


 宿屋の団体さんは、朝のうちに発ったみたいで、後片付けの手は足りているみたい。


 女将さんは、また頼むね、と言ってくれた。


 古本屋の戸には、午前休みの札が出ていて。中をのぞくと、どうやら留守にしているみたい。


 市場で昼まで荷を降ろして、銅貨を二枚もらった。


 午後。


 帳面を開くと、今日の欄にはもう何も残っていない。


 閉じて歩き出す。足が、昨日間違えた角を曲がっていた。


 道の石が、土に変わる。


 山羊が鳴く。


 昨日の店の前に、背の高い老人が立っていた。


 手に、封筒を一通持っていて、赤いマークが付けられているのが見えた。


 老人は看板を見上げ、扉の札を読み、それから封筒を見下ろした。


 昨日と同じ雨樋の陰で足を止めて。


 札は、昨日と同じ。


 配達中。


 御用の方は、日暮れ前後に再度お越しください。


 老人は、まだ扉の前から動かない。


 だから、教えてあげたんです。


「閉まっていますよ」

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