傘
「傘、忘れたの?」
雷が鳴る。酷い雨の世界。僕は紺色の水玉模様の傘を片手に、ふと、下駄箱の出口で立ち尽くす白野へ声をかけた。
白野とは今まで話したことがない。大人しい雰囲気の子だなとは思っている。
丸い目と鼻、ぷっくりと膨らんだ唇。可愛らしい顔立ちの彼女が、まるで怯えた子犬のような目で僕を見る。
「うん・・・」
彼女は風が囁くような、小さい声で返事をした。
「そっか」
それ以上言葉が喉を出なかった僕は、気まずくなって校門の方を見た。
やはり雨が酷い。こんな大雨になるのなら、まだ小学生の僕たちを学校になど行かせない方が良かったのではないか。授業中も同じようなことを考えていた気がする。
僕はもう一度白野の方を見る。彼女もまた、僕を見ていて、不意に目が合った。
途端、僕の顔に熱が集まる。名前の分からない感情を覚えた僕はそれが怖くなり、すぐに目線を外した。
心臓がやけに大きく跳ねた気がする。放課後の学校、他の生徒はみんな我先にと、迎えだったり友達と一緒に帰って行ったから、校舎は今、雨の音だけが響く静寂だった。だからこそ、この心音が彼女にまで届いてしまわないか不安になった。
僕は大して誰かと仲が良い訳でもなかった。僕はいつもみんなが帰るまで教室にいて、学級文庫の本を読んで時間を潰している。僕は他人の目を気にしていた。友達と一緒に帰ることは僕にとって憧れでもあったが、同時にそれは怖いことでもあった。僕は小学校に入学して早々、自己紹介の時の緊張に耐えられず泣き出してしまった。それからもことあるごとに泣いたから、僕はみんなから『泣き虫野郎』と馬鹿にされている。結果、僕はいつも一人だった。僕のような『泣き虫』が、果たして友達など作ってもいいのだろうか。たとえ友達ができても、僕はすぐに泣くから、嫌われてしまうのがオチではないのか。
だから、僕は誰かと一緒にいることが怖くなった。
「黒井君は、まだ帰らないの・・・?」
白野が僕に尋ねた。僕は未だ彼女と目線を合わすこともできず、下駄箱の出口の扉を乗せるレールに挟まった砂利を眺めながら、返事を考える。
「今、帰るとこ」
僕は傘を握る手にちょっとだけ力を込めた。
「あのさ」
言いながら思い切って、彼女の顔へ目をやった。
「傘持ってきてないならさ、その、一緒に帰ろうよ。僕の傘に入っていいから」
ぎこちなく笑みを浮かべてみた。すると、白野は驚いたようにその丸い目を大きく見開いた。
「いいの・・・?」
「うん」
「ありがとう」
僕は下駄箱の敷居をまたぎ、外へ出る。傘を開く。バサッと鳥が羽ばたくような強い音がする。
後ろを振り返る。白野が急いで傘の中へ入って来た。彼女のきれいな黒髪が靡いて、思わず僕はその動きに見惚れる。
それから僕たちは歩き始めた。
「家、近いの?」
「別に」
白野は頭を横に振る。
歩く度、彼女の水色のランドセルに付けられた鈴が揺れて、音が鳴る。雨の音に混じって聞こえる鈴の音、そして彼女の声。
しばらく歩いたところで横断歩道に差しかかった。左手には坂があり、右手には住宅街へ繋がる道がある。
「わたし、家こっちだから」
「うん」
「ここまでありがとう。ばいばい」
「ばいばい」
白野は傘の中から出る。雨に打たれていると言うのに、彼女は走る素振りも見せず、ただゆっくりと歩いている。
僕は耐え切れず、走って彼女の側へ向かった。そして、濡れた彼女を傘の中へ入れる。
「家まで着いて行くよ」
「そこまでしなくても大丈夫」
「ずぶ濡れになって風邪でも引いたら大変だから、だめ」
僕の台詞に、白野は戸惑った表情を見せた。それから今にも泣き出しそうな目をして、
「大丈夫」
また一人で雨の中を歩いて行った。
僕には最早追いかけることもできず、ただ黙って彼女の後姿を眺めていた。
あれから雨は降っていない。白野は誰かとコミュニケーションを図ろうとする素振りは見られなかった。かく言う僕もまた、依然として教室の中では一人だった。
僕は彼女と共に傘を差して歩いた日から、時折彼女を目で追うようになった。彼女の一挙手一投足をその目に焼き付けると言わんばかりに。
彼女の帰りは僕より少しだけ早い。ただ、学校が静まり返ってから帰るという点だけは共通していた。
僕はどうしてもずっと忘れられない。あの日、僕に見せた今にも泣き出しそうな目が。
とある日のことだ。放課後、僕はトイレに行きたくなって教室を出た。曲がり角の向こうにトイレ、その近くに階段がある。その階段の方から、誰かの笑い声が聞こえた。
僕はトイレに行くことを忘れ、その声に耳を澄ませた。
「いいじゃん、お金ちょうだいよ」
「そうそう。あんたの家、金持ちなんでしょ」
女子生徒の声だ。僕は何やら良からぬ現場に出くわしたようで、今にもこの場を離れようとした。しかし――、
「『白野さん』ってば、いいでしょ?」
思わず、逃げようとする足が止まった。心臓がどくどくと激しく動く。僕は声のする、階段の方へ向かった。声は上から。
僕の教室は最上階にあり、これより上に上がる階段と言えば屋上へ繋がるものしかない。きっとそのスペースで、白野が脅されているのだ。
二人の女子生徒の姿が見えた。さらに階段を上ると、二人に囲まれている白野の姿もあった。
「あの・・・」
僕は勇気を振り絞って声を発する。緊張と恐怖のあまり、声は掠れた。
二人が一斉に僕を見る。すると途端に彼女たちは笑い始めた。
「何?『泣き虫野郎』の黒井じゃん!私たちに何か用ですかー?」
「てかキモイんだけど。何、近付かないで」
恐怖で体が震える。涙が目の奥から込み上げてくる。目が熱い。このままだと、僕はまた泣いてしまう。
白野の目が僕を映していた。するとその瞬間、僕ははっとした。
僕が何もしないでいると、きっと白野はあの二人に悪いことをされてしまう。だから、僕がそれを止めないといけない。今この場にいる僕にしかできないことなんだ。
「白野さんに、近付かないで・・・これ以上何かするなら、先生を呼びます」
「はぁ?」
二人が僕を睨み付ける。怖い。だが、どうしても引けない。
僕が白野を守らなければならない。
僕は決して見なかったことにはしない。あの日、彼女が泣きそうな目をしたことを覚えている。どうして泣きそうになったのか、その理由をずっと僕は考えていた。考えても分からない。それでも何度も考えた。
「もう行こう。私、黒井と同じ空気吸うとか無理だから」
「確かに。覚えてろよ、黒井」
二人は白けた顔をして階段を降りて行った。
僕は胸を撫で下ろし、そして白野の方へ向かう。彼女は無事だった。
「白野さん、大丈夫・・・?」
白野は何も答えない。彼女は黙ったまま僕をじっと見つめている。
しばらくの沈黙が続いた。すると唐突に、白野が涙を浮かべた。僕は慌てて言葉を探すも、なんと彼女に声をかければよいか分からなかった。
「黒井君は、どうしてわたしに優しいの・・・?」
「えっと、それは・・・」
「やっぱり、黒井君もお金が目的?」
すると僕の心の中で、何かが疼いた。
「違う」
僕ははっきりとそう言い切った。白野が驚いたように何度も目を瞬かせる。
「なら、どうして」
僕は頭の中でその答えを探した。しかし見つかるのは彼女に対する、熱気を催す謎の感情ばかり。
その感情が一体何なのか、僕は前からずっと考え続けている。
きっと、白野を助けられたのはその感情があったからだ。
上手く言葉にできずにいる僕を見て、白野が下を向く。彼女は服の袖で涙を拭うと、僕の横を通り過ぎて行った。
彼女のシューズの硬い音が、やけに鼓膜を震わせた。
僕は階段の下を見る。もう白野の姿は見当たらない。
ああ。結局何も答えられなかった。
僕はふと今になって、あの日下駄箱の出口で立ち尽くしていた彼女の姿を思い出す。
僕と途中まで下校した時、彼女は傘を出て雨に打たれながらもゆっくりと歩いていた。つまり雨に濡れるのが嫌じゃないと言うことだ。僕より少し先に下校する白野は、どうして僕が帰るタイミングまで下駄箱にいたのか。
僕は本を読む格好を取っていながら、全く本の内容が頭に入ってこなかった。
今日も雨が降っている。放課後、すでに白野は教室にいない。じゃらじゃらと鍵を鳴らして、教室の戸締りに来た教員の男性が僕を見る。彼に何か言われる前に僕はランドセルを背負い、足早に教室を出て行った。
すると下駄箱にはまた、白野の姿があった。前とは違い、彼女は傘を手に握っている。
僕の足音が聞こえたからか、白野が振り返った。途端に目が合う。
「黒井君・・・」
白野が呟いた。よく見ると、彼女の傘は壊れている。
「白野さん、どうしたの」
「傘を持ってきてたんだけど、でも、壊れてて・・・」
白野は下を向く。僕は自分の手に握った傘を見て、それからもう一度彼女へ目をやった。
「一緒に帰ろう、白野さん」
「うん・・・ありがとう」
僕の言葉を聞いて、白野は微笑んだ。僕は初めて彼女の笑顔を見た。
心臓が大きく跳ねる。また顔が熱くなった。この熱を纏う謎の感情は一体何なのだろう。何度も何度も、僕に寄ってたかって。
「行こう、白野さん」
僕は外に出て傘を差し、後ろを振り返っては白野へそう言った。白野はこくりと頷いて、隣にやって来る。
彼女のランドセルに付いた鈴の音が、また雨音に溶ける。
「その鈴って、お守り?」
「うん。前のお母さんにもらったの」
白野はいつもの無表情でそう答えた。僕は彼女の言った、『前のお母さん』という言葉が頭で引っかかった。
「大事にしてるんだね」
無難に、僕はそう言葉を返した。
すると白野は嬉しそうに笑う。僕もつられて笑みが漏れる。
「黒井君って、やっぱり優しいね」
白野にそう言われて、僕の胸が高鳴った。途端に彼女の顔を直視できなくなり、僕は濡れたアスファルトの地面へと目線を落とした。
またあの横断歩道に着いた。
「わたし、こっちだから」
「僕、着いて行かなくて大丈夫?」
「うん」
白野が「ばいばい」と言って傘の中から出て行った。僕も「ばいばい」と返す。
前とは違って、白野は雨の中を走って行った。
授業参観の日がやって来た。いつもは仕事で忙しい僕の両親が、今日は学校に来てくれる。
心なしか胸が躍っていた。クラスメイトから馬鹿にされる日々が続いているとは言えど、親が僕を見に学校まで来てくれるとなると嬉しい。
白野の親も、今日は来ているのだろうか。
放課後になった。クラスのみんなは親と一緒に帰宅するようで、大半がすぐに教室を飛び出していった。
僕の父と母が廊下で僕を待っている。
「ほら、帰るぞ!」
父が張り切ったように大声でそう言った。
「今日はお前の授業参観に来れてよかった。お前が頑張って発表している姿を見ると、父さん泣きそうに・・・」
「立派に成長したのね・・・」
母と父が言いながら涙ぐんでいる。僕はなんと言っていいか分からず苦笑を浮かべる。
すると教室から白野が出てきた。彼女は一人だった。
「あら、あの子って」
母が何か知っている風な口ぶりでそう言った。
「ああ、確か交通事故で両親を亡くしたっていう」
「そうそう。なんでもその後お金持ちの親戚の人に引き取られたんだって。あの年で酷なことよねぇ」
僕は耳を疑った。
そして、
「ごめん、今日は一人で帰る」
僕は父と母にそう言い残してこの場を去った。今すぐ白野に会いたかった。
下駄箱。他の親子の間を掻い潜って僕はようやく、白野に追いついた。すると、彼女は驚いたように勢いよく僕の方を振り向いた。
「黒井君?」
「白野さん・・・その、一緒に帰ろう」
「うん、いいけど・・・」
僕と白野は並んで歩く。するとその様子を見た何人かの生徒らが、くすくすと笑う。
「あれって『泣き虫野郎』の黒井とあの金持ちの白野じゃないか?」
「あの二人って付き合ってんのか?」
「変なの」
ひそひそと交わされる会話に、白野が俯いた。
「行こう」
僕は白野に言い切った。彼女は立ち止まり、それからじっと僕を見つめる。
すると突然笑い出した。何がおかしいのだろう。
「うん・・・!」
白野は満面の笑みを浮かべていた。
また雨が降った。僕はいつものように最後まで教室に残り、そして下駄箱に向かう。
下駄箱にはもう見慣れた白野の姿がある。
白野は僕の方を振り返り、にっこりと明るく笑って見せた。
「白野さん、傘は・・・?」
僕は分かり切っていることを尋ねる。
「忘れた」
「そっか」
それだけの会話を交わして、僕は外へ出る。傘を開いて、後ろを振り返る。
何も言わずに白野が傘の中へ入って来た。そして二人並んで歩き始める。
「わたし、最初はね」
突然、白野が話を切り出した。
「親が迎えに来てくれないかなって思って待ってたの。でも、今のわたしの親は、わたしのことなんてどうでもよかったみたい。新しい傘も買ってくれないし。でもそんな時に、黒井君が現れてわたしを傘の中に入れてくれた。それだけでわたし、救われたの」
初めて白野に声をかけたあの日、下駄箱で一人立ち尽くしていた白野の姿を思い出す。彼女は親の迎えを期待していたのだ。だが、来なかった。
「ありがとう、黒井君」
白野は僕を見て微笑んだ。また心臓が大きく跳ねる。顔が熱くなる。僕はいい加減この感情の正体を知りたくて仕方がない。
唐突に、授業参観の日の帰りを思い出した。あの時、白野と歩いていると周りの生徒から『付き合っているのか』と言われたのを覚えている。
付き合う男女は互いに恋をしている。
恋。もしかしたら、僕は白野のことが・・・。
顔が茹で上がるほど熱くなる。
「黒井君・・・?」
白野が首を傾げる。僕は上手く彼女を直視できずに目を逸らして、
「な、何でもないよ」
と、明らかに何かありげな返事を返したのだった。
深呼吸。僕は自分の心を落ち着かせて、もう一度白野の顔を見る。
「僕の方からも言わせて」
僕は二人の女子生徒に金をせびられていた白野の姿を思い返す。あの時、彼女にどうして優しくするのかと尋ねられた。
「前に、僕が白野さんにどうして優しくするのか聞いたよね」
「うん」
「僕、その・・・白野さんと仲良くなりたかったんだ」
すると白野は微笑んだ。どこかその笑みは悪戯に映って見える。
「知ってた」
「え」
「黒井君がお金を狙ってわたしに接するような悪い人じゃないことぐらい、もう分かり切ってる」
前からずっと僕の体を襲った謎の熱、感情。それはきっと、恋だ。
だからこそ僕は白野に『仲良くなりたい』と話した。本当は彼女のことが『好き』だからだが、それを正直に話すわけにはいかない。
僕は前を見る。すでにあの横断歩道が迫っていた。
「ばいばい、黒井君」
「ばいばい、白野さん」
二人は挨拶を交わして帰り道に体を向ける。その時、雨に打たれながら、不意に白野が振り返った。
「わたしも・・・ううん、私も黒井君と仲良くなりたい」
僕は思わず言葉を失った。
それは嬉しさのせいでもあったが単純に、雨の中でも輝いて見える彼女のその眩しい笑みに、心が奪われたからだろう。
僕も少し間を置いて笑みを返す。
「ありがとう、白野さん」
「こちらこそありがとう、黒井君」
それだけ言って、白野は走り去った。
一人残された僕は傘の中を見上げる。
紺色の水玉模様の傘。入学したばかりの頃から変わらず使っているせいか、支えの部分の鉄が錆びている。
僕は前を向いた。信号が青になったので横断歩道を渡る。
いつもより足が軽くなった気がした。




