第12話 わたしが選ぶ
最近のわたしは、何を食べたいかと聞かれるたびに、すこし、困ってしまう。答えが、いくつも浮かんでくるからだ。少し前まで、わたしには、そんなもの、ただの一つも、なかったというのに。
竜が応えた、あの日から、数週間が過ぎて、季節は、すっかり冬になっていた。
わたしは、新しく整えられた、守り手の塔にいた。
かつての、わたしを閉じ込めるための塔ではない。アルディスとヴェスリアの魔導師たちが集い、それぞれ自由な意思で結界を支えるための、開かれた場所。レアンドロ殿下たちは、わたしに、その守り手の一人として——いや、その要として、ここに残ってほしいと、望んでくれた。
「もちろん、強いるつもりはない」
殿下は、慎重に、そう言い添えた。
「あなたは、もう、何も背負わずに、どこへでも行ける。それを選んだとしても、誰も、責めはしない」
その言葉に、わたしは、一瞬、立ちすくんだ。
どこへでも行っていい。何も背負わなくていい。——それは、夢にまで見たはずの自由だった。けれど、いざ「選んでいい」と言われると、わたしは、こわかった。選ぶということを、わたしは、まだ、ほとんど知らなかったから。命じられるままに生きるほうが、ある意味では、ずっと楽なのだ。何も、考えなくて、済むから。
けれど、もう、わたしは、知ってしまった。誰かの言いなりに削られていく夜の、あの冷たさを。そして、自分の意思で誰かと手を取り合う日の、あの温かさを。——だったら、たとえこわくても、わたしは、自分で選びたい。この先、何度、まちがえることがあるとしても。
「……わたしは、ここに、残ります」
わたしは、言った。自分の声で、はっきりと。
「逃げるためではありません。誰かに命じられたからでも、ありません。——わたしが、この結界を、この国の人たちを、守りたいと、そう思うからです。削られるための魔力ではなく。自分で選んで、差し出す魔力で」
同じ魔力だった。同じ場所に、立っている。それなのに、何もかもが、違っていた。供物だったわたしが、いまは、守り手として、ここにいる。誰かに決められたからではなく。わたしが、そう、決めたから。
その隣には、ヴェルナー様が、いた。
——いえ。もう、様は、いらないのかもしれない。
「ヴェルナー」
わたしが、はじめて、様をつけずにその名を呼ぶと、その人は、ほんの少し、目を見開いて、それから、やわらかく笑った。この人がはじめてわたしの名を呼んでくれたとき、わたしの胸がどれほど跳ねたか、きっと、この人は、知らないのだろう。
「わたしは、ここで、守り手として生きます。あなたは、ヴェスリアの主席魔導師です。住む国も、立場も、違う。それでも——」
「それでも、隣にいたい」
ヴェルナーが、わたしの言葉を、引き取った。今度は、観測の手帳にも、術式の話にも、逃げずに。
「役割としてでは、ありません。あなたを支える者として、でもなく。対等な、二人の守り手として。——リーディア。これから先の道を、私と、一緒に歩いてくれませんか」
妻という器に、わたしを収めようとする言葉では、なかった。一人の人間として、ただ隣に立つことを、選んでくれた言葉だった。
供物だったわたしと、隣の国の主席魔導師と。本当なら、決して交わるはずのなかった二人だ。それでも、この人は、立場でも役割でもなく、わたしという、ただの一人を、選んでくれた。だったら、わたしも——わたしの意思で、この人を、選びたい。
「はい」
わたしは、迷わず、頷いた。これだけは、迷う必要が、まるで、なかった。
そんなある日、ティナから、手紙が届いた。
たどたどしい字で、こう書いてあった。元気にしています。家族と、毎日、菓子を焼いています。——それから、大きくなったら、わたしも、魔導師に、なりたいです、と。
あの子が、もう、怯えるのではなく、なりたいものを、夢に描いている。供物に選ばれることを、恐れなくていい世界で。それだけで、わたしは、胸が、いっぱいになった。
ヴェルナーと二人、守り手の塔から、連環共鳴の環を見守る日々が続いた。竜脈の底に淀んでいた澱みは、大勢の自由な祈りに洗われて、少しずつ、少しずつ、晴れていく。一夜では、晴れない。けれど、もう、誰か一人を燃やして、先を急ぐ必要は、どこにもないのだ。みんなで、ゆっくり、癒していけばいい。急がなくていい、というそのことが、わたしには、何よりの贅沢に思えた。
その日の午後、塔の庭の卓には、たくさんの菓子が、並んでいた。
琥珀色の蜂蜜菓子。黒蜜のかかった焼き林檎。塩漬けの杏に、見たこともない、色とりどりの焼き菓子。冬の陽だまりのなかで、わたしは、ひとり、真剣に、悩んでいた。
「どれから、食べたら、いいのでしょう」
正真正銘、本気の問いだった。味のしない白い粥しか知らずに育ったわたしには、これは、世界でいちばん難しい問題の、ひとつなのだ。
ヴェルナーが、こらえきれない、というふうに、笑った。
「全部、で構いません。——順番なんて、好きに決めればいい。あなたが、いちばん食べたいものから」
好きに、決めればいい。
その言葉が、なんだか、おかしくて、うれしくて、わたしも、つられて笑ってしまった。遠くの回廊では、マレナが、菓子に迷うわたしの横顔を見て、目もとを、やわらかくほころばせている。
なんでもない、冬の午後だった。誰かに命じられることも、何かを無理に捧げることも、もう、ない。ただ、好きな菓子を選んで、好きな人と、笑う。それだけの、ありふれた一日。——けれど、このありふれた一日こそ、わたしが、ずっと、欲しくてたまらなかったものだった。
わたしは、まず、蜂蜜菓子に、手を伸ばした。あの日、生まれてはじめて甘さというものを知った、あの菓子に。アシュレの空が灰色に沈んでいたあの日には、後ろめたくて、どうしても手を伸ばせなかった、あの甘さに。——けれど、いまなら、ためらわずに、選べる。もう、誰かの犠牲の上にある甘さでは、ないのだから。
真夜中の祭壇は、いつも、氷の匂いがした。その匂いだけで一日の終わりを知るような夜を、わたしは、何年も、繰り返してきた。——けれど、いまのわたしの一日は、こんなにも、甘くて、あたたかい匂いがする。冬の陽だまりと、蜂蜜と、隣にいる人の、匂いが。
削られるだけだった、わたしの魔力。誰かに捧げて、消えるためだけのものだと思い込んでいた、わたしの命。それでわたしは、いま——守りたいものを、自分の手で、選んでいる。
そして、それを——隣で笑う、この人と、一緒に。




