第11話 名前で呼んで
わたしはもう、「御子」とは、呼ばれなかった。
竜が応えた、あの日から、数日が過ぎていた。
けれど、供物の制度を終わらせたのは、竜では、なかった。あの日、竜は、ただ真実を示しただけ。その先を動かしたのは、ほかでもない、人の手だった。
レアンドロ殿下は、王太子の名のもとに、神殿への監査を命じた。書き換えられた祈祷文と、セヴランの修正印が、衆目のもとに晒される。下級神官の幾人かが進み出て、長年見て見ぬふりをしてきた偽りの数々を、自らの口で証言した。
マレナも、その一人だった。
驚いたことに、この老いた侍女は、長い年月のあいだ、こっそりと書き留めていたのだ。これまで祭壇で燃え尽きていった、歴代の御子たちの名と、年と、その最期を。守ることも助けることもできなかったかわりに、せめて、なかったことにはさせまいと。マレナが震える手で差し出したその古い帳面が、何よりも重い、人の証になった。
そして、村々が、声をあげはじめた。もう、次の子は差し出さない、と。
書き換えられた一語の上に、何百年も積み上げられてきた嘘は、竜の奇跡ひとつで消えたのではない。こうして、一人ずつの人間が、自分の意思で「もう、やめる」と口にしたことで、ようやく、崩れていったのだ。
国王ジェラルド陛下は——いえ、もう、陛下では、ない。すべてが明らかになったのち、退位を、自ら表明した。処刑も、幽閉も、なかった。レアンドロ殿下が、それを望まなかったからだ。
「父上には、生きて、見ていただく。——ご自分が尊い務めと信じてきたものが、いったい何であったのかを」
神話を剥ぎ取られた老人は、玉座を降り、うつろな目で宙を見つめていた。母を奪った災いさえ、供物では防げはしなかった。一人を捧げれば皆が救われると、生涯をかけて信じてきたものが、ただの嘘だった。それを抱いて生きつづけることが、あの人に残された、ただ一つの罰だった。
不思議と、胸のすくような思いは、湧いてこなかった。本気で信じていたからこそ、たちが悪かった。その思い込みが、何人の少女を、あの祭壇で燃やしてきたのだろう。わたしは、勝ち誇るかわりに、ただ静かに、その背中から目を逸らした。
そして、結界を支えるのは、もう、誰か一人の犠牲では、なくなった。アルディスとヴェスリアの魔導師たちが、自由な意思で共鳴を繋ぐ。守り手と呼ばれるその役目を、これから、わたしも担っていく。
けれど——すべての人が、わたしに感謝したわけでは、なかった。
城の門を出たところで、喪服の女に、呼び止められた。
「あなたが、あの御子様ですね」
その目は、赤く、けれど、もう涙も涸れて乾いていた。
「わたしの娘も、何年か前に御子に選ばれて、あの祭壇で、死にました。——では、教えてください。供物が、はじめから要らなかったのなら。あの子の命は、いったい、何だったのですか。あの子は、無駄に、死んだのですか」
わたしは、何も、言えなかった。
意味があったのだと、言ってあげることは、できなかった。だって、なかったのだ。あの子の死にも、わたしが削られてきた年月にも、守るべき意味なんて、はじめから、ひとかけらも。慰めの嘘なら、いくらでも口にできた。けれど、それこそが、あの美しい嘘と、同じものになってしまう。
だから、わたしは、ただ、深く、頭を下げた。
「……ごめんなさい」
謝って済むことではないと、わかっていた。それでも、ほかに、差し出せる言葉が、なかった。女は、しばらくわたしを見つめてから、何も言わずに、去っていった。
救ったはずだった。けれど、もう取り返せない命のほうが、ずっと多い。この痛みも、灰になった人たちの記憶も、守り手として生きるのなら、わたしは、これから先、ずっと抱えていくのだろう。きれいごとだけでは、終われない。終わっては、いけないのだ。
その後、城門では、ティナが、家へ帰る支度をしていた。
大きすぎた白い祭衣は、もう脱いでいた。迎えに来た家族が焼いたという、素朴な木の実の菓子を握りしめ、あの木彫りの兎も、ちゃんと一緒だった。
「守り手様。……ありがとう」
ティナが、はにかんで、そう言った。御子様、ではなく。わたしは、その小さな頭を、そっと撫でた。あなたは、ひと晩だって、あの祭壇で削られずに済んだ。それだけは、守れたのだ。
その隣で、マレナが、ふいに、深く頭を下げた。
「リーディア様。——よくぞ、ここまで」
その声は、震えていた。『よくやった』でも『立派でした』でもなく、ただ、よくぞ、ここまで。その短い一言に、この人が長い年月、ひとり飲み込みつづけてきた何もかもが、こもっている気がした。わたしは、その皺だらけの手を、両手で、そっと握る。ずっと見ていてくれた人が、いた。その帳面が、嘘を終わらせる力にまでなった。それが、どれほどの救いだったか。
ティナの帰る家のことを思ううちに、わたしは、ふと、考えた。——わたしには、行きたい場所が、あるだろうか。これまで、考えてみたことすら、なかった問い。けれど、いまなら、少しずつ、思い描けそうな気がした。
その日の夕暮れ、わたしは、祭壇の跡を訪れた。
竜冠の祭壇は、もう、誰かを縛りつける場所では、なくなっていた。役目を終えた静かな石の上に、夕日が、やわらかく差している。
そこに、ヴェルナーが、いた。
「……リーディア」
その人は、わたしの名を呼んで、それから、めずらしく、しばらく、黙っていた。いつものように観測の手帳へ逃げることも、魔力の質がどうのと話を逸らすことも、しなかった。ただ、まっすぐに、わたしを見つめて。
「私は、不器用な男です。想いを、術式や、世話に置き換えることしか、できなかった。あなたの共鳴は安定している、などと、まるで観測のような言い方でしか、伝えられなかった。——ですが、もう、逃げません」
夕日のなかで、その人の耳が、また、ほんの少しだけ、赤くなる。
「あなたを、想っています。供物としてでも、守り手としてでもなく。リーディアという、一人のあなたを。——ずっと、惹かれていました」
あの夜、塔の一室で、この人が飲み込んだ言葉は、これだったのだ。最後まで聞きたかった、と思った、あの続きは。
あの光のなかで唇を重ねたとき、本当は、もう、わかっていたはずだった。それでも、こうしてまっすぐ言葉にしてもらえると、胸が、ふるえるほど熱くなる。供物だったわたしが、誰かに、ただ一人のわたしとして想われている。その事実を、わたしは、ようやく、信じてもいいのだと思えた。
わたしは、その人を、まっすぐに見つめ返して、言った。
「ヴェルナー様。——名前で、呼んでください。供物ではなく、わたしの名を」
誰にも名で呼ばれることなく、御子と、供物と、器とだけ呼ばれて、生きてきた。その名を、わたしは、いま、自分の手に、取り戻したかった。ほかでもない、この人の声で。
ヴェルナーは、ほんの少し、目を見開いて。それから、これまでのどんなときよりも、やわらかく、はっきりと、わたしの名を呼んだ。
「——リーディア」
今度は、もう、ためらいも、照れ隠しも、なかった。ただ、まっすぐに、わたしの名前だけを。
その響きが、夕日のなかに、静かに、ほどけていく。わたしは、生まれてはじめて、自分の名前というものを、心から、愛おしいと、思った。




