第10話 竜は応える
「わたしは供物ではありません。守り手です。自分で、そう決めました」
その言葉を、わたしは、王都じゅうの人々が見守る前で、はっきりと口にした。——けれど、そこへたどり着くまでには、あの長い一日が、まるごと必要だったのだ。
決戦の日は、よく晴れていた。
レアンドロ殿下の働きかけで、公開の検証が、ついに行われることになった。竜冠の祭壇を中心に、王都の広場には、諸侯も、民も、そして玉座を運ばせた陛下までもが、固唾を呑んで集まっている。広場の隅には、囚われの身となった神官長セヴランの姿も、あった。
祭壇のまわりには、わたしとヴェルナー、ヴェスリアから駆けつけてくれた魔導師たち、そしてレアンドロ殿下が、輪になって立っていた。誰もが、自分の意思で、この場に手を貸すことを選んでくれた人たちだった。
「始めましょう」
ヴェルナーの合図で、わたしたちは、いっせいに魔力を解き放った。
銀の光、藍の光、名も知らぬ魔導師たちの、色とりどりの光。それが、手から手へと撚り合わさって、大きな環になっていく。その環の中心で、わたしは、竜脈の奥深くへ、自分の意思を、まっすぐに差し出した。
——応えて。あなたが本当に応えたいと願うものに、どうか、応えて。
はじめは、竜脈は、びくともしなかった。底に淀んだ澱みは、想像よりずっと重く、環の光を、ぐっと押し返してくる。
そのときだった。環のどこかで、誰かの光が、ふいに、揺らいだ。
無理もなかった。集まった魔導師の多くは、供物の神話を信じて育った人たちだ。竜の怒りに触れるのではないか、罰が下るのではないか——そんな恐れが、ひとり、またひとりと、環を伝って広がっていく。すると、澄んでいたはずの光が、みるみる、あの嫌な濁りを帯びはじめた。恐れもまた、澱みを生むのだ。環が、軋む。
「ほら、見ろ……!」
広場の隅で、セヴランが、声を張り上げた。
「やはり、駄目なのだ。結局は、誰かが命を捧げねば、竜は、応えはせぬ……!」
その叫びに、魔導師たちの怯えが、いっそう深くなる。環が、崩れかけた。
わたしは、とっさに、竜脈へ送り込もうとしていた力を、ゆるめた。無理に押し通せば、これは、また強制になる。脅して絞り取る、あの祈りと、同じになってしまう。
だから、わたしは、こう言った。
「——怖い方は、どうか、手を離してください」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「無理に、続けなくていいのです。ここに、供物は、ひとりも要りません。残ってくれる方の、その心だけで、きっと、足ります」
ざわめきのなか、幾人かが、ほっとしたように、そっと手を離して、環から退いていった。それでいい。怖いまま、無理に繋がっていてほしくは、なかった。
けれど——退いたのは、ほんの数人だけだった。
残った魔導師たちが、互いの顔を見て、それから、もう一度、しっかりと手を握り直す。レアンドロ殿下も、ヴェスリアの魔導師たちも、誰ひとり、離れなかった。隣で、ヴェルナーが、わたしの手を握り直す。怯えてではなく、自分で選んでそこに残った人たちの光が、今度は、濁りひとつなく、澄みわたっていった。
強いたから、ではない。手を離す自由を、ちゃんと残したから。だからこそ、残った環は、これ以上ないほどに、強かった。
竜脈の底に淀んでいた澱みが、その澄んだ光に押されて、ゆっくりと、ほどけていく。
そして——澱みの底から、それは、目を覚ました。
竜脈の主。古き竜の、長くまどろんでいた意識。
姿が見えたわけではない。けれど、たしかに、そこにいた。広場じゅうの空気がふるえ、銀木犀のような澄んだ香りが、王都いっぱいに広がっていく。誰もが頭上に、途方もなく大きな何かが、ゆっくりと目を開けたのを、感じていた。
その意識が、環をめぐる光を、静かに見渡す。そして——わたしのところで、留まった。
言葉ではなかった。それでも、わたしには、わかった。竜は、わたしを見ている。供物としてではなく。器としてでもなく。自分の意思で光を差し出した、一人の守り手として。
幼いころから祭壇でずっと感じてきた、あの気配。気のせいだ、迷信だと言われつづけてきた、あの視線。——あれは、ずっと、この竜だったのだ。無理やり捧げさせられていた濁った祈りにではなく、わたしという存在そのものに、竜は、ずっと、応えようとしてくれていた。器としてではなく、選ばれた一人として、ずっと見ていてくれた。——その事実に、目の奥が、じわりと熱くなる。
「な……何をしている。竜よ、応えよ。我は、アルディスの王であるぞ」
玉座のほうから、陛下の、上ずった声がした。立ち上がり、祭壇へ手を伸ばして、必死に竜脈へ呼びかけている。
けれど、竜は、応えなかった。
陛下が、いくら声を張り上げても、その手からは、光の一筋すら、生まれはしない。当然だった。王家は、もとから、魔力など持っていなかったのだから。この結界を守ってきたのは、ただの一度も、王家ではなかった。母を守れと命じることも、民を守れと命じることも、本当は、誰にもできなかった。守ってきたのは、いつも、名さえ呼ばれない御子たちのほうだったのだ。
その事実を、いま、王都じゅうが、目の当たりにしている。陛下の顔から、みるみる血の気が引いていった。一人を捧げれば皆が救われるのだと、生涯をかけて信じてきたものが、たったいま、足元から、崩れ落ちていく。その目に浮かんでいたのは、怒りでも、悔しさでもなく、ただ、信じてきたものを失った人の、底のない空虚だった。
わたしは、竜脈の主の気配へ、そして、見守るすべての人々へ向かって、もう一度、声を上げた。
「わたしは供物ではありません。守り手です。自分で、そう決めました」
その瞬間、竜が、応えた。
環をめぐっていた光が、いっせいに、天へと噴き上がる。銀と藍を芯にした、目もくらむほどの澄んだ大光。それが王都を覆う大結界へと流れ込み——大結界は、いまだかつてない輝きで、燃え上がった。濁りなど、もう、どこにもない。国境の裂け目から押し寄せていた瘴気が、その澄んだ光に焼かれて、跡形もなく、晴れていく。
竜は、ただ、自由に差し出された光にだけ、応えた。それは、嘘か真実かを、すべての民の前で、はっきりと示してみせた——けれど、竜は、王を罰しもしなければ、神官を焼きもしなかった。竜が見せたのは、ただ、事実だけ。この嘘をどう終わらせるかは、ここから先、人の手に委ねられているのだ。
広場の諸侯が、民が、ひとり、またひとりと、膝をついた。玉座の陛下にではなく——祭壇に立つわたしと、空に燃える竜の光に向かって。
光のなかで、わたしの白い祭衣の裾が、風をはらんで、ひるがえる。削られるためだけに着せられてきたこの白が、いま、はじめて、誇らしかった。
——もう、大丈夫。
心のなかで、わたしは、あの祭壇で独りきり震えていた、幼い自分に、そっと告げた。もう、大丈夫。あなたは、もう、誰の供物でもない。
ふり返ると、ヴェルナーが、すぐそこにいた。
その目が、これまで見たことのない熱を帯びて、わたしを見つめている。最初に祭壇でわたしの魔力に触れたとき、この人は、わたしの共鳴はどの術者より安定している、と言った。あの、まるで観測のような言葉。——あれは、ずっと、わたしを燃料ではなく、対等な守り手として見ていた、その証だったのだと、いまになって、ようやくわかった。
どちらからともなく、わたしたちは、手を伸ばしていた。
ヴェルナーの腕が、わたしを強く引き寄せる。供物でも、御子でもなく、ただのわたしを。澄んだ光のなかで、わたしたちは、抱き合った。そうして、どちらからともなく、唇が重なる。
これ以上ないほどの、昂揚だった。
ふと、視界の隅で、陛下が、くずおれるように膝をつくのが見えた。何も言えずに。何ひとつ、言い返せずに。
竜は、真実を示しただけ。——けれど、その真実を抱いて、これから何をするのかは、わたしたち人間が、自分の手で、選ばなければならなかった。




