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捧げる供物には、もうなりません  作者: 秋月 もみじ


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第9話 割れる王家


王太子レアンドロ殿下が、生まれてはじめて、父である陛下の言葉に「いいえ」と返したのは、その数日後のことだった。


ことの始まりは、殿下が、わたしとヴェルナー様のもとを、自ら訪ねてきたことだった。


レアンドロ殿下とは、これまで、ろくに言葉を交わしたこともなかった。供物と王太子では、立つ場所が、違いすぎたから。けれどその日の殿下は、いつもの硬い表情の奥に、抑えきれない何かを、滲ませていた。


「ファルネーゼ嬢。——私は、ずっと、目を逸らしてきた」


殿下は、静かに切り出した。結界の光が年ごとに濁っていくこと。御子が、若くして次々と燃え尽きていくこと。そして先日、わたしが拒んでも結界が崩れなかったこと。その一つひとつを、殿下は王太子として、ずっと見てきて、そのたびに、見ないふりをしてきたのだという。


「私が、もっと早くに声を上げていれば。——あなたが、これほど長く削られることも、なかったのかもしれない。それを詫びる資格すら、私にはない」


この国で、わたしの受けてきたことに「すまなかった」と言ってくれた人は、殿下が、はじめてだった。恨み言なら、いくらでもあったはずなのに、出てきたのは、ただ、小さな会釈だけだった。


「神殿の古い記録を、調べた。——竜冠の祈りに供物が要らぬことを、神殿は、とうの昔から知っていた。知っていて、隠しつづけてきたのだ」


わたしは、息を呑んだ。そして、自分が塔の蔵書で見つけたものを、殿下に差し出した。古い祈祷書の「応えよ」と、書き換えられた現行写本の「捧げよ」。


殿下は、その二つを見比べて、低く唸った。


「……符合する。神殿の記録にも、この写本を改めた者の、修正印が残っていた。——若き日の、セヴランのものだ」


応えよを捧げよに書き換えた手が、誰のものだったのか。わたしの見つけた一語の改竄と、殿下の掴んだ記録が、いま、一人の男の名の上で、重なった。


その足で、わたしたちは、神殿へ向かった。


神官長セヴランは、いつもの慇懃な笑みで迎えた。けれど、殿下が修正印の写しを突きつけると、その笑みは、みるみる強張っていった。


「殿下、それは……何かの、お間違いに——」


「とぼけるな、セヴラン。この印は、お前のものだ。供物が要らぬと知りながら、祈りの言葉を書き換え、八つの子までも祭壇に立たせた。なぜだ」


セヴランの口が、わなないた。慇懃な仮面が、音もなく剥がれ落ちていく。


「……そうだ。書き換えたのは、私だ」


その声は、ふいに、別人のように掠れていた。


「だが、聞いてくれ。私とて、はじめから偽ろうとしたのではない。若いころ、私も一度は疑った。供物など、本当は要らぬのではないかと。——だが、そう思った矢先に、あの大災厄が起きた。先の王妃様までも呑まれた、あの瘴気の禍だ。多くの民が、死んだ。私は、恐ろしくなった。もし、私の疑いのせいで供物をやめて、この国が滅びでもしたら……それは、すべて、私の罪になる」


早口だった。長く磨かれてきた声は、もう、どこにもなかった。


「だから私は、疑いごと、真実を封じたのだ。応えよを、捧げよに書き換えて。——そうして私は、嘘の、番人になった」


それは、長年の重荷を吐き出すようでもあり、ただの言い訳のようでもあった。けれど、どちらにせよ、もう、遅すぎた。恐怖に負けたその一度の嘘のために、いったい何人の御子が、あの祭壇で燃え尽きてきたのか。


神殿の隅では、下級神官たちが、青ざめて顔を見合わせていた。長いあいだ信じてきたものの土台が、いま、目の前で崩れていく。そのうちの幾人かが、もう、これ以上は黙っていられないという顔で、こちらへ歩み寄ってきた。


そして、謁見の間。


殿下は、玉座の父の前へ進み出ると、まっすぐに告げた。


「父上。供物は、要りませぬ。祈りの言葉は、書き換えられていた。神官長が、それを認めました。——母上を奪ったあの災いさえ、供物では、防げなかったのです」


陛下の顔が、朱に染まり、それから、ゆっくりと、青ざめていった。


「……黙れ。竜冠の祈りは、王家の根幹であるぞ。あれがなければ、母も、民も——」


「その根幹が、八つの子を喰らうことで保たれているのなら。私は、そのような王家を、継ぎたいとは思いません」


殿下の声は、震えていた。それでも、一歩も退かなかった。父を憎んでいるのではない。むしろ、母を喪った痛みを、誰よりも分かち合える相手だからこそ、その嘘に、これ以上すがらせたくないのだ。そういう、苦しい敬意のこもった声だった。


陛下は、何か言い返そうと口を開き、けれど、続く言葉を、見つけられないようだった。長年すがってきた信仰の根を、実の息子に断たれて、玉座の上の陛下は、はじめて、ただ老いた一人の男のように見えた。


血を分けた親子が、たもとを分かつ。その光景を、わたしは、胸の痛みとともに見ていた。けれど——これで、外堀は、ようやく埋まりはじめたのだ。


その夜、わたしとヴェルナー様は、公開検証に備えて、祭壇で共鳴を重ねていた。


銀と藍の光が、いつものように撚り合わさっていく。けれど、その夜の共鳴は、これまでと、どこか違っていた。竜脈の澱みに向き合ううちに、わたしたちの呼吸が、いつのまにか、ぴたりと重なっていたのだ。彼の魔力の律動と、わたしの鼓動の境目が、わからなくなるほどに。触れ合った手のひらから、言葉にならない何かが、たしかに流れ込んでくる。共鳴の向こうで、その眼差しが、いつになく、熱を帯びていた。


——この人を、誰にも、渡したくない。


ふいに胸をよぎったその想いに、ほかでもないわたし自身が、いちばん驚いていた。それでも、その想いは、もう止められそうになかった。


そのときだった。


誰も触れていないはずの竜冠の祭壇が、ふっと、独りでに、淡い光を零したのだ。


零れた光は、磨かれた黒曜石の床に広がって、ふわりと、銀木犀に似た澄んだ香りを残した。澱みの、あの饐えた匂いとは、まるで正反対の。居合わせた下級神官たちが、ざわめいた。祭壇が、御子の祈りもないのに、自ら光るなど。


ヴェルナー様が、その光を見つめて、低く呟いた。


「……竜脈の、主だ。長く眠っていたものが、目を、覚ましかけている」


幼いころから祭壇でずっと感じてきた、あの気配。気のせいだ、迷信だと言われつづけてきた、あの視線。——あれは、ずっと、この竜だったのだ。わたしが捧げさせられてきた澱んだ祈りにではなく、わたし自身の意思で差し出した、この共鳴にこそ、応えようとしている。


祭壇が、誰も触れていないのに、もう一度、静かに、光を零した。


——竜が、目を、覚ましかけていた。

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