- あらすじ
- 1931年の初夏、佐伯志津子が欧州から帰国した日、東京はいつになく華やいでいた。新聞は連日のように、ジュネーブで国際関係の資料翻訳や調査に携わってきた彼女を取り上げ、「新しい時代を生きる女性」として紹介していた。その夜の帰国祝賀会には、外務省の関係者や大学教授、新聞記者、商社の重役たちまで招かれていた。
そんな喧騒は、私たちが暮らす下町にまで届いていた。
けれど清彦は、病床の脇に膝をつき、湯に浸した手拭いを固く絞って、汗ばんだ私の腕を拭いていた。九日も続いた長雨のせいで、六年前の事故で傷めた神経がまた激しく痛み始めていた。右脚は膝から腰のあたりまで、骨の隙間へ細い針を何本も差し込まれているようだった。
全身に冷たい汗が浮かんでいた。どうにか耐えていたけれど、とうとう我慢できなくなって、私は清彦の袖をつかんだ。
「清彦さん、痛いの……もう、本当に耐えられない」
窓の外を見ていた清彦が、ようやくこちらを振り向いた。暮らしに削られ、すっかり疲れ切ったその顔に、一瞬、抑えきれないほど暗いものが浮かんだ。
「そこまで耐えられないなら、死ねばいいだろ」
言葉の意味がすぐにはわからなかった。
長いあいだ押し込めていた何かが切れたように、清彦の声はかえって低くなっていった。
「六年だぞ。薬代、医者代、家賃、食費……朝、目を覚ませば、考えるのはそんなことばかりだ。志津子が今日帰ってきたっていうのに、お前はよりによってまたこんな日に発作を起こす。千鶴、こんな暮らしをいつまで続けるつもりなんだ」
枕元の小さな引き出しを開け、紙を切るための小鋏を取り出すと、布団の脇へ乱暴に放った。
「もう無理なんだろ。だったら、いっそ終わりにすればいい」
その直後、階下から自動車の警笛が二度鳴った。清彦の身体がわずかに強張る。志津子が迎えに来た合図だった。
はっと我に返ったように息を止めると、私の手を離して立ち上がった。シャツと古びた背広の皺を手で伸ばし、もう一度顔を上げたときには、先ほどまでの苛立ちはすっかり押し込められていた。
私を見ることなく、部屋を出ていった。
布団のそばに残された小鋏を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。胸の奥で渦巻いていたものが、不思議なくらい静かになっていく。
清彦。
- Nコード
- N3962MP
- 作者名
- 熾星
- キーワード
- 女主人公 昭和 バッドエンド 切ない 悲恋 すれ違い 幽霊 死後視点
- ジャンル
- ヒューマンドラマ〔文芸〕
- 掲載日
- 2026年 08月13日 16時45分
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「耐えられないなら死ね」と言った夫が、私のための薬を持って帰ってきたとき、私はもう息をしていなかった
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