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「耐えられないなら死ね」と言った夫が、私のための薬を持って帰ってきたとき、私はもう息をしていなかった

作者: 熾星
掲載日:2026/08/13

 


 プロローグ

 1931年の初夏、佐伯志津子が欧州から帰国した日、東京はいつになく華やいでいた。新聞は連日のように、ジュネーブで国際関係の資料翻訳や調査に携わってきた彼女を取り上げ、「新しい時代を生きる女性」として紹介していた。その夜の帰国祝賀会には、外務省の関係者や大学教授、新聞記者、商社の重役たちまで招かれていた。

 そんな喧騒は、私たちが暮らす下町にまで届いていた。

 けれど清彦は、病床の脇に膝をつき、湯に浸した手拭いを固く絞って、汗ばんだ私の腕を拭いていた。九日も続いた長雨のせいで、六年前の事故で傷めた神経がまた激しく痛み始めていた。右脚は膝から腰のあたりまで、骨の隙間へ細い針を何本も差し込まれているようだった。

 全身に冷たい汗が浮かんでいた。どうにか耐えていたけれど、とうとう我慢できなくなって、私は清彦の袖をつかんだ。

「清彦さん、痛いの……もう、本当に耐えられない」

 窓の外を見ていた清彦が、ようやくこちらを振り向いた。暮らしに削られ、すっかり疲れ切ったその顔に、一瞬、抑えきれないほど暗いものが浮かんだ。

「そこまで耐えられないなら、死ねばいいだろ」

 言葉の意味がすぐにはわからなかった。

 長いあいだ押し込めていた何かが切れたように、清彦の声はかえって低くなっていった。

「六年だぞ。薬代、医者代、家賃、食費……朝、目を覚ませば、考えるのはそんなことばかりだ。志津子が今日帰ってきたっていうのに、お前はよりによってまたこんな日に発作を起こす。千鶴、こんな暮らしをいつまで続けるつもりなんだ」

 枕元の小さな引き出しを開け、紙を切るための小鋏を取り出すと、布団の脇へ乱暴に放った。

「もう無理なんだろ。だったら、いっそ終わりにすればいい」

 その直後、階下から自動車の警笛が二度鳴った。清彦の身体がわずかに強張る。志津子が迎えに来た合図だった。

 はっと我に返ったように息を止めると、私の手を離して立ち上がった。シャツと古びた背広の皺を手で伸ばし、もう一度顔を上げたときには、先ほどまでの苛立ちはすっかり押し込められていた。

 私を見ることなく、部屋を出ていった。

 布団のそばに残された小鋏を見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。胸の奥で渦巻いていたものが、不思議なくらい静かになっていく。

 清彦。

 六年前、あなたは私のために外務省を辞めた。この六年、あなたは自分の人生を少しずつここへ置いてきた。

 だから今度こそ、私があなたを自由にする。


 1.陰雨の初夏

 小鋏を布団の中へ隠し、病床を囲む厚い幕を一枚ずつ閉じていった。最後の光まで遮ってしまう。

 この寝台は、六年前に清彦がわざわざ職人へ頼んで作り直してくれたものだった。畳に敷いた布団では低すぎて、脚に力の入らない私は起き上がることさえ難しい。そのため床を少し高くし、周囲には厚い幕を取りつけてくれた。冬は隙間風を防げるし、痛みがひどい夜も少しは眠りやすかった。

 病院から戻って間もない頃、清彦は寝台の脇にしゃがみ込み、巻尺を腕に引っかけながら寸法を測っていた。途中で顔を上げ、私に笑いかけたことがある。

「これなら少し暖かいだろ。夜中に寒くて目を覚ますことも減る」

 あの頃の私は、六年後、この寝台が私の世界のすべてになるなど考えもしなかった。

 外の自動車はもう機関を止めていた。それでも志津子は上がってこない。

 彼女は清彦を訪ねるとき、いつも借家の外の路地に車を停めるだけで、この古びた木造家屋に足を踏み入れようとはしなかった。警笛を二度鳴らせば、清彦のほうから下りていく。私への気遣いだったのか、それとも私たちの暮らしを実際に見るのが嫌だったのか、私にはわからない。

 今夜の歓迎会は、東京でも名の知られたホテルで開かれている。外務省の官僚、大学教授、外国人記者、商社の重役、欧州勤務を経験した者たちも大勢集まるらしい。

 六年前、あの事故さえなければ、清彦もそこにいたのだろう。

 若い頃、高等試験外交科に合格して外務省に入った清彦は、英語、フランス語、ドイツ語に秀でていた。ほどなく欧米関係の仕事を任され、上司からは、いずれ欧州へ赴任することになるだろうとまで言われていた。

 その後、私が事故に遭った。

 右脚の神経をひどく損傷し、治療を重ねても大きな回復は見込めなかった。清彦は外務省を辞め、それきり戻らなかった。

 しばらくは蓄えで暮らしていたけれど、やがて底をついた。それからは、洋書の出版も請け負う翻訳事務所に雇われて働き始めた。政治評論、商業調査、英字新聞の記事、ドイツ企業の資料。少しでも多く稼げる仕事なら、何でも引き受けた。

 先月には、祖父から譲られた金の懐中時計まで質に入れた。

 あの夜、清彦は階段に腰を下ろし、長いこと一人で煙草を吸っていた。翌朝はまだ夜が明けきらないうちに翻訳事務所へ出かけ、普段の何倍もの原稿を抱えて帰ってきた。

 それから七日間、昼は事務所で働き、夜は私の寝台脇に置いた小机で持ち帰った原稿を訳し続けた。目を開けていられなくなると、寝台の縁に額を伏せ、ほんのわずか眠った。

 八日目、追加で得た報酬のほとんどを、ドイツから入った鎮痛薬に換えて帰ってきた。目の下には濃い隈ができていたのに、薬の入った箱を私の手元へ置くと、少しだけ笑った。

「前の薬より効くらしい。先生も、痛みがひどいときに使えば少し楽になるって言ってた」

 私は頷いて受け取った。

 けれど、もう三か月も鎮痛薬を使っていないことは言わなかった。あまりにも高価だった。一瓶あれば、何日分もの米や野菜が買える。

 清彦が買ってきた薬は一本ずつ、寝台の下に隠してある朱塗りの小箱へしまった。痛みに耐えられなくなると手拭いを噛み、痙攣がおさまるまでじっと待った。そのあと何事もなかったような顔をする。それを繰り返していた。

 ただ、今日は耐えられなかった。

 雨があまりにも長く続き、傷めた脚の神経を内側から何度も引きちぎられているようだった。呼吸すらうまくできなくなって、たった一度、弱音を吐いた。

 その私のそばへ、清彦は鋏を投げた。

 顔を横へ向けると、押し入れの脇に古い濃紺の背広が掛かっていた。外務省に入ったばかりの頃、清彦がよく着ていたものだ。生地は上等だったけれど、六年間袖を通されることもなく、肩には薄く埃が積もっていた。

 六年前、誰もが清彦には将来があると言った。

 六年後の彼は、東京の下町にある壁の傷んだ木造の借家で暮らし、家賃と薬代と食費を、一銭単位まで計算するようになった。

 そんな人を、どうして責められるだろう。

 身体を折り曲げ、寝台の下から白い琺瑯の洗面器を引き出した。左手首の下へ置くと、冷たい縁が肌に触れた。

 なぜか、それだけで心が落ち着いた。

 清彦はひどく清潔好きだった。寝台の幕も定期的に外して洗う。私たちの借家には内風呂も室内の水道もなかったから、毎回たくさんの布を抱えて共同の水場へ行き、一枚ずつ丁寧に洗っていた。

 これならいい。

 少なくとも、そこらじゅうを血で汚さずに済む。

 帰ってきた清彦に、後始末までさせたくなかった。


 2.帳の向こう

 枕元の古い手拭いを取り、二つ折りにして口に噛んだ。

 痛みが怖かったわけではない。ただ、声が漏れるのが怖かった。

 階下から、志津子の声が聞こえた。

「高瀬さん、いつまでこんな暮らしを続けるつもりなの?」

 清彦は答えなかった。

 しばらくして、志津子がもう一度口を開いた。

「あなたほど語学ができて、苦労して外務省に入ったのに、このまま全部捨ててしまうつもり? 惜しいとは思わないの?」

 雨が軒を叩いていた。

 ずいぶん時間が経ってから、疲れ切った清彦の声が聞こえてきた。

「今月の薬代が、まだ少し足りない」

 短い間があった。

「先週、翻訳所で何日分か給金を引かれた。千鶴の発作が夜通し続いて、朝になってから寝具を洗わなきゃならなかったんだ。共同の水場も混んでいて、仕事に遅れた。規則だから仕方がない」

 その声は、次第に雨音へ溶けていった。

「佐伯さん。欧州から戻ったばかりで悪いが、前に手に入れてくれたドイツの薬……もう一度、なんとかならないか」

 私は目を閉じた。

 今夜、清彦が宴席へ出向いたのも、結局は私の薬のためだった。

 さっきの言葉も、私を本当に憎んでいたからではない。ただ、限界まで疲れ切って、とうとう感情を抑えられなくなっただけなのだ。

 それがわかったところで、何が変わるのだろう。

 私がここに横たわり続けるかぎり、清彦はどこへも行けない。

 小鋏の先を左手首の内側へ当てた。指に力を込めると、鋭い刃先が皮膚へ沈んだ。

 一瞬焼けるような痛みが走り、すぐに温かな血が腕を伝い始めた。ぽたり、ぽたりと琺瑯の洗面器へ落ちていく。

 右脚の発作に比べれば、この程度の痛みなど何でもなかった。

 鋏を手放し、枕元にあったフランス語の詩集を胸へ抱いた。

 昔、清彦がくれたものだった。扉には、彼の字で短い言葉が記されている。

 千鶴へ。

 生涯、君とともに世界の言葉を読みたい。

 何度も開いたせいで、紙の端はすっかり毛羽立っていた。顔を埋めると、古い紙とインク、それに石鹸の匂いがほんの少し残っている気がした。

 意識が遠のいていく。

 最後に胸へ浮かんだものは、悲しみではなく、不思議な安堵だった。

 これで、もう清彦は私を守り続けなくていい。

 次に目を開けたとき、私の身体はまだ寝台に横たわっていた。

 けれど私は、その外側に立っていた。

 幕の向こうにいる女は青白く、左腕を寝台から垂らし、指先から落ちた血が洗面器へ続いている。ぴくりとも動かなかった。

 自分の手を見る。

 薄い霧のように透けていた。

 そのとき、ようやく理解した。

 私は死んだのだ。

 それでも、すぐには消えなかった。

 目には見えない何かに引かれるように部屋を出た。木の扉を抜け、階段も壁も通り抜け、そのまま都心へ向かう自動車を追いかけた。


 3.宴の灯影

 ホテルの大広間は眩しいほど明るかった。入口には志津子の帰国を祝う花が並び、会場には外務省の関係者、学者、新聞記者、財界人たちが集まっていた。

 人々の中心に、志津子がいた。

 欧州帰りらしい洗練された洋装をまとい、立ち居振る舞いにも隙がない。ここ数年、ジュネーブで国際関係の資料翻訳や調査に携わり、英語とフランス語を操る彼女には、外交界や学界にも多くの知己があった。

 こういう場所に立つ志津子は、ひどく華やかに見えた。

 清彦は、会場のいちばん端に座っていた。

 古い背広は何度も洗われて色褪せ、袖口には私が繕った跡が残っている。仕立てのよい服を身につけた人々に囲まれ、ただ一人、静かに取り残されているようだった。

 義母も来ていた。

 志津子のそばに立ち、親しげに腕を取りながら、知り合いたちへ彼女を紹介している。

 結婚して最初の正月を思い出した。

 まだ私の脚が無事だった頃、清彦は一度だけ、私を高瀬の本家へ連れていった。玄関で取り次ぎを頼むと、使用人は清彦だけを中へ通そうとした。

 清彦は長いこと黙っていた。

 そして何も言わず、私の手を取ってその場を去った。

 それ以来、本家へ連れていかれたことは一度もない。

 その義母が今は志津子の隣に立ち、満足そうに笑っている。

 かつて清彦と同じ職場にいたらしい男が近づいてきて、肩を軽く叩いた。

「奥さんの具合はどうだ?」

 清彦はグラスを置いた。

「相変わらずです。家で休んでいます」

 私はすぐ隣に立っていた。

 清彦は知らない。

 その妻はもう、あの寝台の上で死んでいる。

 ほどなく義母もやってきた。息子の袖口に残る継ぎ跡を見ると、それまでの笑みが消えた。

「いつまで、こんな暮らしを続けるつもりなの」

 清彦は答えなかった。

「稼いだお金は、みんな薬代と家賃に消えていく。自分が今どんな格好をしているか、わかっているの?」

 そばから紙袋を取り、清彦の前へ差し出した。

「志津子さんがパリから買ってきてくれたの。少しはきちんとしたものを着なさい」

 清彦は受け取らなかった。

 そのまま立ち上がり、会場の奥にある喫煙室へ向かった。志津子も少し迷ってからあとを追う。

 私も二人についていった。


 4.空白の一欄

 喫煙室には誰もいなかった。

 清彦は窓辺に寄りかかり、ポケットから何度も折り畳まれて柔らかくなった薬価表を取り出した。赤い鉛筆で囲われた金額は、ほとんど二か月分の給金に等しい。

 志津子が扉を閉め、ハンドバッグからドイツ語の印刷された紙箱を取り出した。

「欧州から持って帰ってきたの」

 清彦が目を見開いた。

「しばらくは足りると思う」

 両手で箱を受け取ると、深く頭を下げた。

「ありがとう」

 志津子はその姿を見つめていた。

 少しして、今度は別の書類を鞄から取り出した。

「外務省の人事で、あなたの記録をもう一度調べてもらったわ」

 清彦が顔を上げる。

「六年前は一身上の都合で自分から辞めただけ。懲戒も処分もない。いま欧米局ではフランス語とドイツ語に通じた人材を探しているし、昔あなたを知っていた方たちも何人か推薦してくださるそうよ」

 書類を机へ置いた。

「まだ内々の話だけれど、あなたにその気があるなら再任用の手続きを進めるって。いずれ在仏日本大使館へ出る機会だってあるかもしれない」

 清彦は、その書類には触れなかった。

 廊下から足音が近づいてくる。

 義母が入ってきて、窓辺へ茶封筒を置いた。

 中に入っていたのは、離婚届だった。

 私が用意したものだ。

 一か月前、清彦は寝台脇で翻訳原稿に向かい、何度も筆を落としながら仕事を続けていた。

 翌朝、彼が出勤したあと、私は一階のお春さんに頼んで区役所から離婚届をもらってきてもらった。身体が思うように動かず、一部の欄は代筆してもらったけれど、妻の署名欄には自分の手で「高瀬千鶴」と書き、印を押した。

 成人した近所の二人にも証人を頼み、署名と印をもらった。

 夫の欄だけが、空白だった。

 そのとき、お春さんは私に尋ねた。

「清彦さんに直接渡さなくていいの?」

 私は首を横に振った。

「渡しても、きっと書いてくれないから」

 だから本家へ届けてもらった。

 そして今、その紙がようやく清彦の手に渡っている。

 最初から最後まで目を通す間、義母は黙って横に立っていた。

「千鶴さんのほうは、もう全部整えてあるわ。あなたさえ同意すれば、あとは届けを出すだけよ」

 清彦の指が、私の署名の上で止まった。

「志津子さんも力を貸してくれるそうよ。離婚するなら、千鶴さんを郊外のもっと設備の整った療養所へ入れられる。専門の看護婦もいるし、ドイツで学んだ医師もいる。下町の部屋で、あなた一人が面倒を見るよりずっといいでしょう」

 義母はまっすぐ息子を見た。

「このままでは、あなたにも千鶴さんにもよくないわ」

 志津子も静かに続けた。

「もう一度きちんと診てもらえば、別の治療法が見つかるかもしれない」

 長い沈黙が続いた。

 やがて清彦は離婚届を元の折り目に沿って畳み、胸元のポケットへしまった。薬の箱は反対側へ入れる。

 外務省の書類だけは、机に残した。

「今日はもう疲れた」

 扉へ向かう。

「先に帰る」

 義母が名前を呼んだ。

 それでも足を止めなかった。


 5.蜜の染み

 ホテルを出たあと、清彦はまっすぐ家へは帰らなかった。

 近くの細い通りへ入り、店じまいを始めていた屋台の前で足を止めた。鍋の中には、蜜をまとった大学芋がほんの少し残っている。

 昔から、私の好物だった。

 まだ自分の脚で少し歩けた頃は、二人で近所を散歩することもあった。大学芋の屋台を見つけるたび、清彦は小さな紙袋を一つ買って、道端でゆっくり食べさせてくれた。

 店主はもう片づけを始めていた。

 清彦は鍋の中を見る。

「あと、どれくらいありますか」

「二つだけだよ」

 ポケットの小銭を確かめた。

「じゃあ、二つとも」

 紙袋を受け取り、薬は懐へ、大学芋は潰さないよう大事そうに持ったまま、足早に下町へ戻った。

 借家へ着くと、まず共同の水場で顔を洗った。髪から雨水が滴っている。

 二階へ上がってからも、しばらく扉の前に立ったままだった。

 開けようとはしない。

 薬箱と大学芋を敷居の脇へ置き、そのまま木の扉にもたれて座り込んだ。

「千鶴」

 返事はない。

「寝たのか」

 やはり何も聞こえなかった。

 膝に腕を乗せ、俯いた。

「先月、事務所で何日分か給金を引かれた」

「お前の発作が続いて、朝になってから寝具を洗ってたんだ。共同の水場はいつも順番待ちで、洗い終えてから行くと遅刻した」

 しばらく黙った。

「今月の薬代がまだ足りなくてな。今夜なら、昔の知り合いの誰かに会えるかもしれないと思った。少しだけ借りられればって」

「でも、いたのはこの何年かで知らない顔ばかりだった」

 小さく息を吐いた。

「さっきのことは……言うべきじゃなかった」

 膝の上で指がゆっくり握られる。

「悪かった」

 長い沈黙のあと、声を落とした。

「おやすみ、千鶴」

 胸元から離婚届を取り出した。

 一度。

 もう一度。

 紙を細かく裂いていく。

 破片は木の床へ散った。

 私はその隣に座っていた。

 ほんの数寸しか離れていないのに、もう永遠に触れられない。

 廊下の奥から、踵が木板を打つ音が響いた。

 志津子だった。

 外務省の書類を手にしたまま追いかけてきたらしい。床に散らばった紙片に気づき、一枚拾い上げると顔色が変わった。

 さらに一歩踏み出した。

 その踵が、敷居脇の紙袋を踏んだ。

 袋が一瞬で潰れ、裂け目から蜜が流れ出す。べったりと床板へ広がった。

 清彦が勢いよく顔を上げた。

 志津子を押しのけるようにしてしゃがみ込み、潰れた大学芋を拾い上げる。

 指には蜜がまとわりついた。

 二つの芋はぐしゃぐしゃに砕け、紙屑と埃にまみれていた。

 もう元には戻らなかった。

 志津子は壁に手をついて身体を支え、持っていた書類を清彦へ差し出した。

「高瀬さん。もう、こんなふうに自分を追い詰めないで」

「離婚すれば、千鶴さんはもっときちんとした療養を受けられる。あなたも外務省へ戻れるのよ」

 清彦は顔を上げなかった。

 志津子が手を伸ばした。

 その手を避けるように腕を振った拍子に、肘が背後の木戸へ強く当たった。

 鍵は掛かっていなかった。

 扉が内側へ開く。

 濃い血の匂いが、一気に廊下へ流れ出した。


 6.開いた扉

 志津子の顔から血の気が引いた。

 清彦はもう部屋へ飛び込んでいた。

 風に煽られ、寝台を囲む幕がめくれている。私の左腕が寝台の縁から垂れ、手首は琺瑯の洗面器にかかっていた。

 器の中の血は、もう動いていない。

 清彦は畳へ膝を落とした。

 私の肌に触れた瞬間、そのまま動かなくなった。

 長い時間が過ぎてから、ようやく布団をめくった。

 口にはまだ手拭いが噛まれている。

 胸元にはフランス語の詩集。

 紙の端が血を吸い、赤黒く染まっていた。

 紙切り鋏は、皺の寄った寝具の上に落ちていた。

 やがて廊下が騒がしくなった。

 近所の者が巡査派出所へ知らせに走り、別の誰かが高瀬の本家へ連絡した。

 巡査が到着すると、清彦は寝台脇から血のついた鋏を拾い上げた。

 誰かへ向けたわけではない。

 ただ、鋏を手に寝台の前へ立ち、誰も近づけようとしなかった。

 そして扉を閉め、内側から閂を掛けた。

 部屋は薄暗かった。

 雨に濡れた上着を脱ぎ、私の身体に掛ける。

 それから抱き上げ、いつも寝ていた壁際の場所へ戻した。

 枕元には半分ほど残った蝋燭があった。

 火を灯し、きれいな手拭いを用意すると、寝台のそばへしゃがみ、私の手首と指についた血を少しずつ拭い始めた。

 一枚が汚れれば、次を使う。

 とてもゆっくりだった。

 この六年間、何度も私の身体を拭いてくれたときと、何も変わらない手つきだった。

 すべて拭き終えると、ようやく扉のそばへ戻った。

 潰れた大学芋がまだ床に落ちていた。

 しゃがみ込み、拾える欠片を一つずつ口へ運んだ。

 蜜についた紙屑や埃だけを指で取り除く。

 残ったものは、全部食べた。

 夜が明ける頃、巡査たちはようやく外から戸を開けた。

 医師も呼ばれ、警察の検視と死亡の確認が行われた。これから死亡届を出し、火葬に必要な手続きも済ませなければならない。

 二人の巡査が寝台へ近づこうとした。

 清彦はまだ前に立っていた。

 押し問答になるうち、寝台脇に置かれていた古い桐の長持が倒れた。角が割れ、底の隠し場所から、鍵の掛かった朱塗りの小箱が転がり出た。

 清彦は動きを止めた。

 見覚えのない箱だった。


 7.十本の薬瓶

 小さな錠前が壊された。

 蓋が開き、中のものが畳へ散らばった。

 束ねられた質札。

 薬局の領収書。

 そして、封を切られていないドイツ製の鎮痛薬が十本。

 一本として使われていなかった。

 清彦はその場にしゃがみ、まず薬瓶を手にした。

 一本ずつ封を確かめる。

 どれも未開封だった。

 四本は、清彦が祖父の懐中時計を質に入れて買ってきたもの。

 残りの六本は、あとから私が買ったものだった。

 次に質札を取った。

 いちばん上には、金の懐中時計一個と記されていた。

 質に入れたのは三か月前。

 受け出されたのは二か月前。

 受け出した者の名は、私だった。

 質札の裏には薬局の領収書まで挟まっていた。

 そこには、鎮痛薬六本分の代金が記されている。

 私はとっくに、お春さんへ頼んで懐中時計を質屋から取り戻してもらっていた。

 残った金で、さらに薬を買った。

 それでも一本も使わなかった。

 懐中時計は、小箱の底に収められていた。

 清彦が取り出す。

 外蓋の縁には、小さく乾いた褐色の跡があった。

 痛みに耐えながら時計を握りしめた夜、爪が指先へ食い込み、血がついたのだろう。

 私は清彦の正面にしゃがみ込んだ。

 ずっと伝えたかった。

 いつか全部、あなたへ返したかったのだと。

 薬も。

 懐中時計も。

 私のせいで失わせてしまった年月も。

 けれど、もう声が出ない。

 清彦は懐中時計を掌へ強く握り込んだ。

 長いあいだそうしていた。

 やがて突然、身体を折り、額を畳へ叩きつけた。

 一度。

 もう一度。

 額が切れ、血が鼻筋を伝った。

 三度目。

 そばにいた巡査たちも、すぐには止められなかった。

 入口から義母の取り乱した声が飛んだ。

 清彦は振り向かなかった。

 立ち上がったときには、額の血が片方の目元まで流れていた。

 志津子はまだ廊下にいた。

 階段の曲がり角まで退き、壁に背をつけたままゆっくりしゃがみ込む。

 靴には、蜜と潰れた大学芋がこびりついていた。

 汚れを指で落とそうとした。

 何度拭っても、黒褐色の染みだけは消えない。

 鞄から、清彦の名を刺繍したハンカチを取り出した。

 しばらく見つめていた。

 それから、その布で靴を拭いた。

 蜜と紙のインクが生地へ染み込み、刺繍の文字まで汚した。

 志津子は長いこと、そのハンカチを見ていた。

 やがて階段脇の屑籠へ捨てた。

 階段を下りる頃には、足取りは再び乱れなくなっていた。

 運転手が車の扉を開ける。

 志津子は後部座席へ乗った。

「ホテルへ戻って」

 扉が閉まる。

 窓硝子に映った顔は、化粧も崩れず、姿勢も整っていた。

 ただ、その目だけが、来たときよりずっと空虚だった。


 8.墓碑なき墓

 清彦は床に散った離婚届の破片を拾い直した。

 いちばん大きな一枚には、私の署名と印がまだ残っていた。

 廊下の奥にいる親族へ顔を向けた。

「これは、いつ本家に届いたんだ」

 誰かが答えた。

「先月だ」

「お春さんが千鶴さんに頼まれて届けてきた」

 別の者が、少し間を置いて続けた。

「署名も千鶴さん本人だ。印も自分で押したそうだ」

 清彦はそれ以上、何も尋ねなかった。

 寝台のそばへ戻った。

 志津子が持ってきた外務省の内々の書類が、いつの間にか廊下から拾われ、小机の脇へ置かれていた。

 それを手に取る。

 マッチを擦った。

 紙の端に火が移る。

 炎はすぐに広がり、黒く丸まりながら燃えていった。

 最後に残ったのは、わずかな灰だけだった。

 それから数日をかけて、警察と医師に関わる手続きが済んだ。

 死亡届を出し、火葬の許可も下りた。

 高瀬の本家は葬儀を引き受けようとした。

 清彦は断った。

 立派な葬儀を出す金などなかった。

 近所の小さな葬儀社に頼み、いちばん質素な白木の棺と必要最低限のものだけを用意してもらった。

 出棺の日も雨だった。

 霊柩自動車を頼む金を惜しみ、葬儀社から簡素な棺車を借りた。

 清彦はその柄を自分で握り、火葬場まで歩いた。

 雨に濡れた東京の道を、車輪が進む。

 水溜まりを越えるたび、重い音がした。

 高瀬の本家近くを通ったとき、年長の親族たちが軒下から遠巻きに見ていた。

 誰一人、手を貸そうとはしない。

 その中の老人が、小さく息をついた。

「清彦は、もう駄目だな」

 聞こえていたはずだ。

 それでも清彦は振り返らなかった。

 火葬が終わると、骨壺を抱いて郊外の小さな寺へ向かった。

 高瀬家の墓へ私を入れることは拒まれた。

 清彦は頼みもしなかった。

 残っていたわずかな金で、寺の墓地のいちばん端に小さな場所を求めた。

 石の墓碑を建てる金はない。

 代わりに、簡素な木の墓標を立てた。

 雨脚がますます強くなった。

 清彦は泥の中に膝をつき、骨壺を納めると、雨に崩れた土を手で少しずつ押し固めていった。

 爪の間は泥で真っ黒だった。

 額にできた傷の瘡蓋も雨に濡れ、また開き始めている。

 懐から金の懐中時計を取り出した。

 蓋を開ける。

 秒針はまだ動いていた。

 清彦はそれを墓標へそっと押し当てた。

 ずっとそのままでいた。

 けれど最後には、再び胸元へしまった。

 祖父が残した時計。

 そして、私がようやく清彦の手へ返せた、たった一つのもの。

 私は雨の中に立ち、墓前に一人跪く清彦を見ていた。

 雨粒は私の身体を通り抜けていく。

 それでも手を伸ばし、彼の頭上へかざした。

 一滴さえ防げないと、わかっていたけれど。


 9.空いた席

 寺から戻ったあと、清彦はすぐ二階へ上がらなかった。

 借家の共同水場に座り込み、両手を水で洗った。泥と血、それに火葬場でついた煤が、少しずつ流れていく。

 長いこと洗っていた。

 借家全体が静まり返るまで。

 二階へ戻る頃には、部屋に残っていた濃い血の匂いもだいぶ薄れていた。

 寝台は空だった。

 寝具も片づけられ、わずかに沈んだ敷物と畳だけが残っていた。

 六年間、私はほとんどいつも壁側で眠っていた。

 脚への負担を少しでも減らすため、清彦は膝の下と足首に柔らかな枕を入れてくれていた。そのせいで、いちばん深い窪みは肩から背中、腰のあたりに残っている。

 清彦の指が、その跡をゆっくり辿った。

 腰より下へ来たところで、動きが止まった。

 部屋は静かだった。

 まるで最初から、誰もここで暮らしていなかったように。

 清彦は腰を屈め、割れた桐の長持を引き出した。

 中には、私の細々したものが残っていた。

 歯の欠けた木の櫛。

 紙に包んだ石鹸が二つ。

 事故の前に買った、ほとんど履いていない白足袋。

 それから茶封筒が一つ。

 中には、他人の手で清書された便箋が何枚も入っていた。

 右手は動いたけれど、長く筆を持つと震えてしまう。だからその手紙の大半は私が口述し、誰かに書いてもらった。

 最後の署名だけは、自分で書いた。

 一枚目の冒頭には、こうある。

 清彦へ。

 あなたがこれを読む頃、私はもうここにはいないと思います。

 清彦が読んだのは、そこまでだった。

 便箋を元どおり封筒へ入れる。

 続きを読もうとはしなかった。

 そのあと、琺瑯の洗面器を共同水場へ持っていき、きれいに洗った。

 手拭いを一枚濡らし、今度は扉の前へしゃがみ込む。

 乾いてこびりついた蜜の跡を、少しずつ拭き取った。

 翌朝、一階の豆腐屋の老主人が、階段を下りてくる清彦を見かけた。

 きれいに洗った白いシャツを着て、髪も整えていた。

 額の傷だけは隠していない。

 老主人が遠くから声をかけた。

 清彦は足を止め、軽く頭を下げた。

 そして翻訳事務所へ向かった。

 その日、普段の五倍もの仕事を引き受けた。

 フランス語の政治評論。

 ドイツ語の商業調査報告。

 英語の海運資料。

 外国新聞の記事。

 普通なら数か月かかる量を、二週間で仕上げると言った。

 家へ戻ると、寝台脇に置いていた小机を窓辺へ移した。

 以前は私を起こさないよう暗くしていた灯りを、それからは夜遅くまで明るく灯した。

 右手が疲れれば少し休み、また書く。

 眠気で目が開かなくなれば、庭へ下りて冷たい水で顔を洗った。

 十五日目の朝、すべての訳稿を整えて事務所へ提出した。

 原稿を確認した担当者は、数枚読んだところで言葉を失った。

 そのうち欧州の政治経済に関する一篇が、巡り巡って外務省にいた昔の同僚の手へ渡った。

 誰かが、清彦の古い記録を引っ張り出した。

 六年前の退職理由は簡潔だった。

 一身上の都合による辞職。

 処分なし。

 職務上の問題もなし。

 三か月後、外務省は清彦の再任用手続きを正式に始めた。

 辞令が借家へ届いた日、清彦は封筒を机の上へ置き、長いこと見つめていた。

 今度は、拒まなかった。

 清彦は霞が関へ戻った。

 復帰当初は欧米局で欧州関係の仕事に携わり、その後も外国語資料や対欧関係の実務を任されるようになった。

 数年後、暮らしに余裕ができると、あの木造の借家を出た。

 中古の自動車も買った。

 地位。

 給金。

 同僚たちからの敬意。

 一度失ったものが、一つずつ戻ってきた。

 けれど毎月、給金を受け取ると、清彦は必ず薬局へ寄った。

 ドイツ製の鎮痛薬を十本買う。

 家へ持ち帰る。

 朱塗りの小箱へしまう。

 一本も使わない。

 薬瓶は少しずつ増えていった。

 私が残したあの十本と一緒に。

 それとは別に、仕事帰りには必ず、昔の大学芋の屋台へ寄った。

 二つ買う。

 紙袋へ入れてもらう。

 車の隣の席へ置く。

 その場所には、誰も座ったことがない。

 家へ着くと、冷めた大学芋を捨てる。

 翌日になれば、また新しいものを買う。

 私はずっと、その席に座っていた。

 東京の街並みが、車窓の向こうへゆっくり流れていく。

 季節がいくつか過ぎた。

 銀杏は黄色くなり、また緑へ戻った。

 清彦の髪にも、白いものが何本か混じるようになった。


 10.夜明けの空

 その日の午後、同僚たちが次々に帰り、部屋には清彦一人だけが残った。

 窓の外で突然、風が吹いた。

 半開きだった窓が大きく開き、机の上の資料が何枚か舞い上がる。

 清彦が反射的に立ち上がった。

 肘がインク壺に当たり、黒いインクが机の上へ広がっていく。

 けれど、拭こうとはしなかった。

 窓辺まで歩き、陽射しの中を漂う小さな塵を見つめていた。

 私は数歩離れたところに立っていた。

 ふと下を見る。

 両足が透け始めていた。

 金色の小さな光が足首から生まれ、少しずつ上へ昇ってくる。

 そのとき、わかった。

 私がこの世に留まれる時間は、もう終わるのだ。

 痛みはなかった。

 ただ風に舞う砂が肌を掠めるように、何かが身体から少しずつ失われていく。

 清彦へ向かって歩いた。

 一歩。

 もう一歩。

 目の前まで来たそのとき、清彦が突然、右手を上げた。

 掌を上へ向け、指を少しだけ開いている。

 何かを受け止めようとしているように見えた。

 私は一瞬だけ迷った。

 それから、その掌へ額を寄せた。

 もちろん触れない。

 この数年間、一度だって本当に清彦へ触れることはできなかった。

 それでも、最後に残った私というものを、すべてそこへ預けるように身体を寄せた。

 清彦の指が、ほんの少し内側へ動いた。

 何かを感じたように。

 次の瞬間、風に舞った一枚の紙が、その掌へ落ちた。

 清彦は紙を握り、そのまま長いこと立っていた。

 やがて胸元から、金の懐中時計を取り出した。

 長年、毎日のように手で触れてきたせいで、外蓋は滑らかになっていた。

 昔そこに残っていた私の血の跡も、今ではもう見えない。

 金色の光は、腰まで昇っていた。

 胸へ。

 肩へ。

 急に、別れが惜しくなった。

 隙間風の入る六畳間が惜しい。

 血を受けた琺瑯の洗面器が惜しい。

 踏み潰された大学芋が惜しい。

 もう使う人などいないとわかっているのに、清彦が今も一本ずつ買い続ける薬が惜しい。

 そして何より。

 ようやく自分の人生へ戻ったのに、その心の一部だけを、あの雨の夜へ置き去りにしたままの人が惜しかった。

 最後の金色の光が肩からほどけた。

 私は清彦の身体をすり抜け、そのまま窓の外へ流れていった。

 その瞬間。

 清彦の肩が、かすかに震えた。

 振り返る。

 そこには、誰もいない。

 風も次第に止んでいった。

 舞っていた紙が一枚ずつ床へ落ちる。

 清彦は俯き、懐中時計の蓋を開けた。

 秒針は、今も進んでいた。

 一つ。

 また一つ。

 そして、もう一つ。

 時間は一度も止まらなかった。

 けれど人の心には、いつまでも終わらない夜がある。

 それでも空は、いつか必ず明るくなる。

 ――完――



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