医師の彼氏は、私に十分すらくれなかったのに、後輩の女医には夜更かししてチケットを取り、一日中付き合っていた
プロローグ
うつ病と診断された日は、ちょうど私の二十六歳の誕生日だった。診療所の洗面所で長いこと座り込み、脚が痺れてきてから、私は予約していた小さなケーキを持って青嵐中央医療センターへ向かった。朝倉蓮は消化器外科で働いている。知り合って七年、付き合い始めて五年になる。
院内のスキルトレーニング室前にある待合スペースで蓮を見つけたとき、彼は小日向美月の腹腔鏡縫合トレーニングを終えたばかりで、手には彼女の訓練記録が残っていた。
「少しだけ外を歩かない? 十分でいいから」
蓮は一度だけ私を見て、すぐに記録へ視線を戻した。美月はまだトレーニング用の手袋を外したところだった。
「紗季、ただ慰めてほしいだけだろ?」
「前にも言ったよな。俺はいつでも時間を空けられるわけじゃない。待ってる患者もいるし、明日は手術もある」
「今日は無理だ。先に帰ってて」
胸の奥に何かが詰まったようで、言葉が出なかった。
美月は壁の時計を見て、テーブルの上の水筒を手に取った。
「朝倉先生、そろそろ休憩の時間ですよ。今日もカフェインレスのハーブティーにしますか?」
さっきまで冷たかった蓮の表情が、わずかに和らいだ。
「そうする。昨日もあまり眠れなかったんだろ?」
「じゃあ、ちゃんと飲んだらご褒美あります?」
「ある」
「何ですか? 二週間前は東京ディズニーランドに一日付き合ってくれて、先週は午後ずっと手芸に付き合ってくれたんですよ。今回はそれより適当なの、なしですからね」
私は入口に立ったまま、手の中のケーキが急に重くなった気がした。私には十分すら惜しむのに、彼女には丸一日の休日を渡せる。
その場を離れ、一階の休憩スペースで少し溶けかけたケーキを一口ずつ食べた。病院を出るころ、診療所の予約システムから次回受診の通知が届いた。そこには、前回の診察で佐久間先生が残してくれた生活上の助言も添えられていた。
「なるべく閉じこもらず、日光に当たって外の空気に触れてください。信頼できる人がいるなら、一緒に来てもらってもいいですよ」
私はその画面を長いこと見つめた。本当に私を閉じ込めていたものは、窓のない部屋なんかじゃなかったのかもしれない。
蓮だった。
1.十分すらくれなかった人
残っていた半分のケーキをゴミ箱に捨てた。舌には甘ったるいクリームの味が残っているのに、胸の穴は少しも埋まらない。背後から足音が近づき、美月が明るい表情で追いついてきた。
「白石さん、一緒に行きませんか? 朝倉先生がちょうど臨床研修センターまで送ってくださるんです。明日の症例検討会で使う資料を取りに行くので」
振り返ると、少し離れたところに蓮が立っていた。指先で車のキーを弄んでいる。
「乗って」
後部座席に座るころには、美月はもう慣れた様子で助手席に収まっていた。シートベルトを締める仕草まで自然で、そこがもともと彼女の席だったように見えた。
「朝倉先生、昨日のミュージカルのチケット、取れました?」
「夜中まで粘ったんだ。取れなきゃ困る」
「やった!」
車内の冷房は強く、膝の上に置いた指先が冷えていく。昨夜、精神科の予約を取る前、私は二時間近くスマートフォンの画面を見つめて迷った末、書斎にいる蓮のところへ行った。
「どこを受診したらいいのか分からなくて。少し一緒に見てくれない?」
彼はパソコンに表示した症例資料から目を離さなかった。
「病院のサイトに書いてあるだろ。自分で調べて。明日手術なんだ、今は邪魔しないでくれ」
扉は私の目の前で閉まった。廊下に数分立ち尽くしたあと、私は自分で精神科の診療所を予約した。
赤信号で車が止まると、蓮は助手席の脇からブランケットを取り出して後ろへ差し出した。
「寒いなら使って」
付き合い始めたころ、彼が不器用な手つきで編んだものだった。端は少し歪んでいるのに、ずっと車に置かれている。蓮はいつもこうだった。昔の優しさを時々ほんの少しだけ見せて、私はそのたびに、見過ごされてきたことをもう少しだけ我慢できる気がしてしまう。
車内ではすぐに二人の病院の話が続いた。
「小日向、最近は術中の動きがだいぶ安定してきたな」
「本当ですか?」
「慌てるな。自分で処理できないと思ったら、決められた手順で上級医を呼べ。俺が手術室にいれば、そっちにも行く」
私は窓の外を見て、それ以上は聞かなかった。二か月前、母が亡くなり、実家に戻って葬儀と四十九日の法要を終えた。いちばんつらかったころ、深夜に蓮へ電話をかけたことがある。
「こういうことは誰にでもある。まず必要なことを済ませて、それから少しずつ落ち着けばいい」
彼はいつも、私にもっと強くなってほしがった。愚痴を減らして、できることは全部自分で片づけてほしいのだと思う。それなのに、美月に向ける忍耐だけは尽きることがなかった。
雨粒が窓を叩き始めた。臨床研修センターに着くと、美月はパソコンバッグを抱えて降り、蓮を振り返った。
「資料、けっこう多いんです。手伝ってもらえますか?」
「行くぞ」
蓮はシートベルトを外し、降りる前に私を振り返った。
「数分で戻る。待ってて」
今夜はレストランを予約していた。十日前、交際記念日の食事が彼の急な残業で流れたから、今日こそ埋め合わせをするはずだった。
一本の傘が建物の入口へ消えていく。四十分待ち、一時間を越えても二人は戻らなかった。やがて予約時間は過ぎ、キャンセル扱いになった。午後七時、私は車を降り、雨の中を最寄り駅まで歩いた。
家に戻ってから、ようやく蓮からメッセージが届いた。
「今夜は美月と外科の先輩の先生たちに会ってくる。先に食べてて。待たなくていい」
チャット画面を閉じ、会社のメールを開いた。三日前、人事部から、私が応募していた白峰支社の新規プロジェクトについて社内公募の選考を通過したと連絡が来ていた。期限までに受諾すれば、正式な異動辞令が出る。
それまでずっと迷っていた。
もう、迷わなかった。
2.彼に優しさがなかったわけじゃない
シャワーを浴び、指示どおりに薬を飲んで、簡単なうどんを作った。SNSを開くと、美月が新しい写真を投稿していた。会食の席で、蓮が隣に座り、彼女のために海老の殻をむいている。
「朝倉先生、いつもありがとうございます。こんなに面倒見のいい上級医に指導してもらえて、本当に幸運です」
数秒見ただけで画面を閉じた。蓮が帰ってきたとき、服からかすかに酒の匂いがした。知り合って七年、彼が飲酒する姿をほとんど見たことがない。外科医はできるだけ頭を冴えさせていなければならないと、いつも言っていた。母に初めて正式に挨拶した日でさえ、翌日に当直があるからとノンアルコール飲料しか口にしなかった。
彼はミュージカルのチケットを二枚、食卓に置いた。
「記念日のプレゼント」
「どういうこと?」
「美月が行けなくなった。友達と行けばいい」
「蓮は?」
「来週、あいつが執刀医の指導のもとで少し重要な手技を担当する。俺も立ち会う」
箸を握っていた手から、ゆっくり力が抜けた。
「蓮、今日が何の日だったか覚えてる?」
彼は眉を寄せた。
「紗季、最近本当に忙しいんだ。俺がどういう仕事をしてるか、最初から分かってただろ」
「私が欲しかったのは十分だけ。それすら惜しむのに、美月がミュージカルを見たいと言えば夜中までチケットを取って、遊びたいと言えば丸一日空けられるんだね」
「美月は外科専門研修に入ったばかりだ。今の時期は俺が日常的な指導を担当してる」
「指導担当の医師って、ディズニーランドまで一緒に行くの?」
蓮の顔が険しくなった。
「今のお前は調子が悪い。何でも悪いほうに考えるな。あいつは外科専門研修に入ったばかりでプレッシャーも大きい。上級医として少し気にかけるくらい普通だろ」
胃の奥が急にせり上がった。洗面所へ駆け込み、さっき食べたものを全部吐いた。蓮は入口まで来ると、ティッシュを一枚抜いて洗面台に置いた。
「自分で自分を追い込むなよ」
鏡越しに彼を見た。
「お母さんが亡くなったとき、私だってつらかった」
蓮は何も言わなかった。
スマートフォンの着信音が沈黙を破った。画面の名前を見て、蓮はすぐに電話を取った。
「朝倉先生、当直の看護師さんから術後の患者さんのご家族の質問を引き継いだんですけど、大事なことを漏らしそうで……」
「退院指導の資料、二ページ目を開いて。確認する」
「こんな時間にすみません。邪魔じゃないですか?」
「平気」
「じゃあ、しじみの味噌汁を送ります。飲んだら早めに休んでくださいね」
「分かった」
ほどなくインターホンが鳴った。蓮は上着を持って玄関へ向かった。
「明日は早い。今夜は客室で寝る」
私は答えなかった。テーブルに置いたスマートフォンの画面が光り、航空会社からの通知が表示された。
白峰市行きの航空券は、もう発券されていた。
3.本当に傷ついたのは私だけだった
数日後、予約どおり佐久間先生の診療所へ行った。睡眠、食欲、気分の変化をもう一度確認され、処方は変えず、そのまま様子を見ることになった。
「初診のときより、少し落ち着いて見えます。しばらく安定した状態が続けば、その先で薬を少しずつ減らせるかどうか考えましょう」
あの航空券のおかげだと思った。診療所を出たあと、青嵐中央医療センターの近くで用事を済ませるため、連絡通路のエレベーターに乗った。そこで蓮と美月に出くわした。二人は一台のタブレットを覗き込み、症例資料を確認しているようだった。
「白石さん、朝倉先生に会いに来たんですか?」
「違います」
蓮が顔を上げ、私の手首をつかんだ。
「意地張るな。ちょっと休んでいけ」
私が押した階のボタンを取り消す。
「胃が弱いんだから、昼くらい一緒に食べていけ」
科の近くにある来客用の面談室まで行くと、蓮はすぐ看護師に呼ばれた。
「十分だけ待ってて。患者を一人診たら戻る」
美月はその場に残った。面談室の小さな戸棚からカフェインレスのハーブティーを取り出す。どこに何があるのか、よく知っているようだった。
「白石さん、飲みます?」
「結構です。ありがとう」
「最近眠れないって言ったら、朝倉先生が選んでくれたんです。コーヒーを飲みすぎると余計眠れなくなるからって」
私だって、夜中じゅう眠れないことがあると蓮に話したことがある。そのとき彼は、考えすぎるからだと言っただけだった。
面談室の外から、突然激しい怒鳴り声が聞こえた。中年の男が扉を押し開けて入り込んでくる。胸には面会証をぶら下げ、手には何枚もの領収書を握っていた。
「金を返せ! 手術をすれば良くなるって言っただろ! なんでまだ痛がってるんだ!」
美月の顔色が変わり、一歩後ろへ下がった。
「手術前にリスクについては説明しています。まず落ち着いてください。主治医と医療安全管理部門の担当者を呼びます」
「そんな言葉でごまかすな!」
男は脇にあったワゴンを乱暴に押した。上に置かれていたトレーが机の角にぶつかり、ガラスのコップが床に落ちて砕けた。私は反射的に美月を引いたが、飛び散った破片が腕を深く切った。
警備員と看護師がすぐに駆けつけ、男を廊下の反対側へ連れていった。病院も安全対応の手順に従って警察へ連絡した。
少し遅れて蓮が診察室から走ってきた。彼は私の前を通り過ぎ、真っ先に美月の肩を支えた。
「小日向、けがは?」
「してません……大丈夫です」
私は床に座り込んだまま、腕から流れる血を見ていた。結局、私のそばにしゃがみ込み、傷口を圧迫してくれたのは看護師だった。
「傷が深いです。処置室へ行きましょう」
医療安全管理部門の担当者が先に経緯を記録した。警察が到着すると、警察官が処置室へ来て傷の状態を確認し、被害者として事情を説明する意思があるか尋ねた。
「あります」
「待って」
蓮が振り返った。
「まだ何があったか整理できてない。まず病院の中で確認させろ」
「私、けがしてるんだけど」
「分かってる。傷の処置が先だ。ほかのことは医療安全の記録がまとまってからでいい」
美月は青ざめたまま、指先で服の裾を強く握っていた。
「白石さん、私、外科専攻医一年目なんです。対応が不適切だったって判断されたら、年次評価に響くかもしれないし、手術チームから外されることだって……」
「それで?」
蓮は彼女の隣に立った。
「もう警察は来てる。ここで被害者として詳しく話して、捜査を続けてほしいと言えば、話はもっと大きくなる。せめて院内の記録がまとまるまで待て」
私は彼を見た。腕の傷が、急にそれほど痛くなくなった気がした。
冷えたのは、傷口じゃない。
この状況でも、彼がまだ美月のことを優先していると分かった心だった。
4.彼は私に、彼女のための釈明をさせた
人が引いたあと、私は処置室の近くで荷物を整理した。さっきの騒ぎで、薬の入った袋が鞄から落ち、抗うつ薬のシートが床に散らばっていた。一つずつ拾って袋に戻したが、そばを通った蓮は、その薬に視線すら止めなかった。
病院を出ようとしたところで、彼が一階ロビーまで追いかけてきて腕をつかんだ。包帯の下の傷が引きつるように痛み、私はすぐに振りほどいた。
「誰がまた医療安全に話をしに行けって言った?」
「行ってない」
後ろから美月がついてきた。目の縁が赤い。
「でも、さっき連絡が来たんです。白石さんが正式に私への苦情を申し立てて、病院も今回の対応を年次評価に記録するって」
私は蓮を見た。
「信じるの?」
二秒ほど、彼は黙っていた。
「これ以上、話を大きくしないことが先だ」
「どうやって?」
「病院は手順どおり事故記録をまとめる。お前は、患者の家族が勝手に興奮したこと、小日向が相手を刺激していないこと、医療上の対応にも問題がなかったことだけ確認すればいい」
「事実なら、そのとおり言う」
「もう一つある」
蓮はスマートフォンを取り出した。画面には、生活用品メーカーである森川ライフ株式会社のコンプライアンス相談窓口が表示されていた。
「それでも小日向の対応が悪かったって外で言い続けるなら、俺は事件の関係者として、お前の会社のコンプライアンス窓口に自分から事情を説明する」
私は彼を見つめた。
「脅してるの?」
「白峰支社の新規プロジェクトは、まだ正式な異動辞令が出てないんだろ。森川ライフは社員のコンプライアンスや外部での評判を気にする会社だ。苦情が入れば、人事が異動をもう一度確認するかもしれない。どう判断するかは俺には分からない」
指先が少しずつ冷たくなっていった。白峰支社への異動は、まだ正式には決まっていない。社内公募に応募して、やっとつかんだ新しい仕事だった。青嵐を離れるために、私が確実に持っている唯一の出口でもあった。
美月が唇を噛み、一歩前に出た。
「朝倉先生、もういいです。白石さんが嫌なら無理にしなくても。私、今の手術チームを外されても構いませんから」
「俺に任せろ」
蓮は私を見た。
「紗季、こんなことまでしたいわけじゃない。俺が言うとおり、事実確認書を書いてくれればいい。それが終わったら休みを取ろう。犬を飼いたいって言ってただろ。帰ってきたら見に行けばいい」
「結婚のことも、そろそろちゃんと話そう」
その言葉を、私は五年待っていた。
よりにもよって、私の未来を人質にして、別の女の尻拭いをさせようとしている今になって。
「……分かった。私の負けでいい」
その日の夕方、病院の面談室で事実確認書に署名し、医療安全管理部門へ提出した。蓮が何度も書き直させた内容には、美月が患者家族を刺激する言動をしていないこと、医療上の対応に問題がなかったこと、そして私自身が私的な感情から彼女に先入観を持っていたことが書かれていた。院内調査に余計な負担をかけたことについても謝罪した。
「関係する医療スタッフの皆さんにご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
病院の公式サイトには、その後、個人を特定できる内容を含まない短い事故説明だけが掲載された。
翌日、美月は自分のSNSに投稿した。病院が自分の対応に問題はなかったと確認したことを強調し、さらに、私的な感情から自分に偏見を持っていた人がいたと匂わせた。名前は出していなかったが、日時と経緯が具体的すぎて、すぐに私と結びつける人が現れた。
若い女性医師への嫉妬でわざと騒ぎを起こしたのではないか。私情を病院に持ち込んだのではないか。そんな投稿が次々に広がっていった。
蓮は少し離れた場所に立ち、私の顔色を見て、こちらへ来ようとした。
「朝倉先生、ちょっとめまいが……」
美月が机に手をついた。蓮は足を止め、彼女の身体を支えた。
私はそのまま病院を出た。
知らないアカウントからDMが次々に届いたが、一つも開かなかった。母が残した最後の手続きを済ませ、空港へ向かうタクシーに乗ると、蓮からメッセージが届いた。
「今日のことはこれで終わりだ。夜は帰ってこい。埋め合わせする」
しばらくして、もう一通。
「紗季、俺はお前を愛してる。ただ、これ以上問題を大きくしたくなかっただけだ」
画面を消した。
これが彼の愛なら、私はいらない。
搭乗前、五年間いちばん上に固定していた連絡先を削除し、そのままブロックした。
青嵐にあったものは、全部置いていくことにした。
5.彼はようやく、私がいなくなったことに気づいた
私が出発した日の午後、蓮は一人で医局へ戻った。送ったメッセージには既読がつかない。スマートフォンを置いてはまた手に取り、それを何度か繰り返すうちに、胸の奥の落ち着かなさが少しずつ膨らんでいった。
ノックの音がして、美月が入口に立った。
「朝倉先生、白石さん、まだ怒ってますか?」
「放っておけばいい」
「私が悪いんです。病院が調査するって先生に話さなければ、こんなことにはならなかったのに」
蓮は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
「前にも怒ったことはある。二、三日すれば戻る」
「白石さん、先生のことがあんなに好きなんですから。本当に別れるなんてできませんよ」
蓮は否定しなかった。
午後、彼は科内で数日分の有給休暇を調整し、予定されていた手術と担当患者の引き継ぎを同じチームの医師に済ませた。勤務表を確認した上級医が、珍しそうに彼を見た。
「お前が自分から休むなんて珍しいな。結婚でも決まったか?」
「ちょっと、機嫌を直してもらいに帰るだけです」
その口調は軽かった。プレゼントでも買って、少し優しい言葉をかければ、また元に戻ると本気で思っていたのだろう。
医局を出て階段脇を通ったとき、美月の低い声が聞こえた。
「叔父さん、昨日はありがとう」
「叔父さんが事務部門の管理職で、白石さんが正式に私への苦情を申し立てたとか、今回のことを年次評価に記録する予定だとか、朝倉先生に直接言ってくれたから。先生、全然疑わなかった」
蓮は曲がり角の陰で足を止めた。顔色が少しずつ変わる。次の瞬間には、その場に留まることもなく駐車場へ向かっていた。
マンションの扉を開けると、中は真っ暗だった。
「紗季?」
返事はない。
明かりをつけ、部屋を一つずつ見て回った。私の服、パソコン、いつも読んでいた本、化粧台の上の物まで、何も残っていなかった。玄関には彼の靴しかなく、洗面台には歯ブラシが一本だけ置かれている。
寝室で立ち尽くした蓮の手から、車のキーが床へ落ちた。
「そんなはず……」
何度も私へ電話をかけたが、ずっとつながらない。最後に、以前私たちと一緒に食事をしたことがあり、交際も知っている私の同僚へ個人的に電話した。
「もしもし、蓮です。紗季が今どこにいるか、知ってる?」
相手は一瞬黙った。
「知らないの? 白峰支社への異動、受けるって正式に返事したよ。今日もう出発したはずだけど」
「紗季から聞いてなかったの?」
電話が切れたあと、蓮はベッドの端に長く座っていた。
そのとき、ベッドサイドの引き出しの奥に、角の折れた診断書が残っていることに気づいた。荷物をまとめたとき、私が見落としたものだった。
そこには、私の名前が書かれていた。
診断名。
うつ病。
6.彼が見つけた、私の記録
翌日、蓮は私が通っていた精神科の診療所へ行った。自己紹介を聞いた佐久間先生の表情は変わらない。
「白石さんの恋人だとおっしゃいましたね?」
「五年付き合っています」
「申し訳ありません。ご本人の同意がない限り、診療内容についてお話しすることも、記録をお見せすることもできません」
蓮の手がゆっくり握られた。
「ただ、紗季がどういう状態なのか知りたいんです。こんなに悪かったなんて、俺は何も知らなくて……」
「それでも、白石さんご本人の医療情報です」
結局、彼は何も教えてもらえなかった。
マンションへ戻り、私が置いていった段ボールを整理し直した。書棚のいちばん下から、ありふれた灰色のノートが出てきた。それは診療記録ではなく、通院を始めてから私が途切れ途切れに書いていた気分の記録だった。
一ページ目には、数行だけ。
「今日は気分が悪い。少し怖い。蓮に言ったほうがいいのかな」
「やっぱりやめよう」
「きっと、弱すぎるって思われる」
蓮は次のページをめくった。
「また美月と残業。今日も帰ってこない。部屋が静かすぎる」
「お母さんがいなくなった。息をするだけでも疲れる。蓮は、そのうち乗り越えられるって言っただけ」
「どれくらいちゃんとしていれば、面倒な人だと思われずに済むんだろう」
後ろへ行くほど、文字は乱れていた。
「今日のうどんはおいしかった。薬は苦い」
「SNSの写真。蓮があの子の海老をむいてる」
「航空券を取った。昨夜は逆によく眠れた」
「蓮、この五年は返すね」
蓮は床に座ったまま、長いこと次のページをめくらなかった。
夜、美月から何度も着信が入った。ようやく出ると、向こうは当直室らしく、周囲が騒がしかった。
「朝倉先生、ちょっと困ってて……患者さんの書類を二つ入れ違えてしまったんです。どうしたらいいのか分からなくて」
「当直の上級医に報告しろ」
「でも、前は何かあったら助けるって言ってくれたじゃないですか」
「小日向」
その声には、初めて逃げ道がなかった。
「自分で起こしたミスは、自分で報告して、決められた手順で対応しろ。毎回俺がフォローする話じゃない」
電話の向こうが静かになった。
「それと昨日のこと。叔父さんとの電話、聞いた」
「朝倉先生、私はただ……」
「来週、専門研修プログラムの責任者に事情を説明する。今後はお前の日常指導から外れる。仕事のことは科の正式な手順でやれ。私的にも、もう連絡してこないでくれ」
電話を切り、美月の個人的な連絡先を削除した。
それでも、何一つ戻ってはこなかった。
7.暗い部屋を出たあと
白峰市に着いたのは、よく晴れた昼だった。青嵐よりずっと寒く、通り沿いの木々はもう色づき始めていた。乾いた空気を吸い込むと、初めて呼吸が軽くなった気がした。
会社が用意してくれたのは、白峰支社から二駅ほど離れた借り上げ社宅だった。1LDKで、広くはない。二重窓が外の風を遮り、室内には暖房と淡いベージュのカーペットがあり、ベランダからは小さな公園が見えた。
携帯番号を変え、新しい精神科の診療所へきちんと通った。仕事以外の時間にはジムへ行き、週末は本を読んだり散歩をしたりした。新しい同僚や友人も増えた。ここでは、私が以前どれほど誰かの帰りを待っていたかを知る人はいないし、感情を全部隠せと言う人もいない。
白峰に来て八か月目、主治医はそれまでの安定した状態を確認したうえで、薬を少しずつ減らし始めた。毎日ベッドのそばに置いていた薬の袋は、いつしか棚の奥へしまうようになった。
私はまた、小さなことを好きになれた。春には川沿いの花を見に行き、夕方には少し遠回りして夕焼けを見る。休みの日に焼いた不格好なパンでさえ、長いこと嬉しかった。
美月から電話がかかってきた日は、ちょうど一つのプロジェクトをまとめたところだった。部署のみんなが夜の打ち上げを相談している最中、知らない番号から着信があり、何気なく出た。
「もしもし?」
「白石さん、私です」
少し間を置いた。
「何?」
「すみません。前の件、病院で全部確認されました。私が事情を隠して、身内の立場を利用して事実と違う説明をさせたことも分かって……手術チームから外されて、研修の進みも半年遅れることになりました。叔父も、不適切に介入したことで処分を受けました」
「それで?」
「朝倉先生に、一言だけ言ってもらえませんか? 今は本当に何も話してくれなくて。私、このまま外科医としてやっていけなくなるのが怖いんです」
私は会議室の外の窓にもたれた。
「どうして、蓮が私の言うことを聞くと思うの?」
「ずっと探してます」
「白石さんがいなくなってから、先生、別人みたいになりました。手術と仕事ばかりで、私生活では誰にも会わないし、ときどき一人で長いこと座って、白石さんの写真を見てるんです」
聞き終えても、ずいぶん遠い話にしか思えなかった。
「美月は、蓮のことが好きなんでしょ?」
電話の向こうで数秒の沈黙があった。
「はい。外科専門研修に入ったころから、ずっと好きです」
「それは、あなたたちの問題」
「白石さん、私はただ――」
「私と蓮はもう別れてる。あなたが病院でどんな処分を受けたかも、私には関係ない」
遠くで同僚が手を振っているのが見えた。
「嘘をつくって決めたときに、いつか分かる日が来ることくらい考えるべきだった。もう連絡しないで」
電話を切り、オフィスへ戻った。
「白石さん、早く! みんな待ってるよ!」
「今行く!」
その電話のことは、すぐに頭から消えた。
8.雪の夜の、遅すぎた謝罪
白峰に来て初めての冬、蓮は白峰支社の入るオフィスビルの前に現れた。その日は取引先との夕食を終えたあと、忘れた書類を取りに会社へ戻っていた。ビルを出ると雪はまだ弱く、前の小さな広場では子どもたちが不格好な雪だるまをいくつか作っていた。
そのうち一つの首に、見覚えのある古いブランケットが巻かれていた。
二メートルほど離れた街灯の下に、蓮が立っていた。あのブランケットを持ってきたのが誰なのか、説明はいらなかった。久しぶりに見る彼は少し痩せ、相変わらず同じ黒いコートを着ていた。肩には薄く雪が積もっている。
「紗季」
一歩だけ近づき、そこで止まった。
「元気にしてた?」
「何か用?」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
蓮は寒さで赤くなった私の手を見て、反射的に伸ばしかけた。私は半歩下がった。
「ありがとう。でも、自分で大丈夫」
宙に止まった手は、ゆっくり下ろされた。
「佐久間先生のところに行った。何も教えてくれなかった」
私は眉を寄せた。
「当たり前でしょ」
「そのあと家で、お前が置いていった日記を見つけた」
蓮の目が赤くなっていた。
「ごめん」
「俺、本当に知らなかった。お前が毎日どんな気持ちで過ごしてたのか。仕事をちゃんとして、生活に困らないようにしてれば、それで責任は果たしてると思ってた」
「間違ってた」
昔は何度も想像した。いつか蓮が本気で私の話を聞いてくれる日が来たら、その瞬間に全部許してしまうのではないかと。
けれど今、目の前にいる彼より、家に帰ってベッド脇に置いた読みかけの小説の続きを読みたいと思っていた。
「私、今はかなり安定してる」
「自分でここまで来たんだな」
「うん」
蓮は俯いた。吐息が白くほどける。
「来るのが怖かった。俺を見たら、またあの頃のことを思い出させるんじゃないかって」
「でも、会いたかった」
「紗季、もう一度だけやり直せないか?」
「これからは、行きたいところがあれば一緒に行く。犬が欲しいなら飼おう。つらいときはちゃんと聞く。もう一人にはしない」
ガラス越しにビルのロビーの明かりが見え、その光の中を雪が静かに落ちていた。
「最初からやり直そう」
私は、五年間愛した顔を見つめた。
「蓮、遅すぎるよ」
彼の身体が固まった。
「お母さんが亡くなったとき、私は一言でいいから慰めてほしかった。初めて精神科へ行くときは、怖かったから少しだけ一緒にいてほしかった。病院であのことが起きた日だって、ただ私を信じてほしかった」
「もう全部、終わったことなの」
「これから埋め合わせる」
「埋め合わせられないよ」
私は首を振った。
「蓮は、人を大事にする方法を知らないわけじゃない。私にだけ、その優しさを使わなかった」
蓮は口を開きかけたが、何も言えなかった。
「自分で選んだことには、自分で責任を取らなきゃいけない」
「私を失った。それが、蓮が自分で選んだ結果だよ」
私は駅へ向かって歩き出した。
「もう来ないで」
背後から、足音は追ってこなかった。
9.二度と会うことはない
あの夜のあとも、蓮はすぐには諦めなかった。休みの日を使って青嵐と白峰を行き来し、ときどき会社の受け取り窓口宛てに荷物を送ってきた。昔好きだった菓子だったり、以前ほしいと思いながら高くて買わなかったアクセサリーだったりした。
菓子は近所の人や同僚に配り、アクセサリーはすべて未開封のまま送り返した。返事だと受け取られそうなことは、一つもしなかった。
やがて彼は会社の下まで来るようになった。その日は紫陽花の花束を抱え、午後から暗くなるまでずっと立っていた。同僚が私の机の横まで来て、窓の外を見た。
「白石さん、下の人、待ってるんじゃない? ずっといるよ」
「うん」
「行かないの?」
「今日の資料、まだ見終わってないから」
私はブラインドを閉めた。
帰る支度をしてから、ようやく日付に気づいた。その日は、昔の私と蓮の交際記念日だった。去年の同じ日、私は雨の中を電車で帰り、彼は別の女のために海老の殻をむいていた。
パソコンを片づけて外へ出た。
道路脇に濃い色のレクサスが停まる。付き合っている人が夕食に迎えに来てくれた。私は助手席に乗り込み、車が見えなくなるまで一度も振り返らなかった。
あとで同僚から聞いた。蓮はその場に長く立ち尽くしていたらしい。紫陽花の花束は手から落ち、風に花びらが散っても、しばらく動かなかったという。
白峰に来て三年目、私は会社から遠くない場所に小さな中古の2LDKを買った。窓からは、冬になると雪に覆われる公園が見える。引っ越しのとき、昔使っていた薬の袋はいつの間にかなくなっていた。
私には新しい恋人もできた。彼は、私が急な予定変更を嫌うことを覚えていて、調子が悪い日は「そばにいたほうがいい?」と先に聞いてくれる。私の代わりに、どう立ち直るべきかを決めたりしない。
彼と一緒にいるうちに、ようやく分かった。大切なのは、誰かを理想の恋人に変えることじゃない。お互いを尊重できて、無理をせず自分らしくいられる人を選ぶことだった。
青嵐の元同僚から、蓮が私に新しい恋人ができたと知った夜、一人でひどく飲んだらしいと聞いた。その翌日、SNSのDMが届いた。
「もし、いつか振り返る気になったら。俺はまだここにいる」
私は返信せず、そのまま削除した。
青嵐を離れて六年目、私は結婚することになった。
式の数日前、知らない番号から電話がかかってきた。私はウェディングドレスの試着中で、スマートフォンをテーブルに置いていたため、婚約者が代わりに出た。
「今、本人は電話に出られません」
向こうが何か言った。
「朝倉さん、紗季はもうすぐ僕と結婚します」
「これ以上、彼女に連絡しないでください。あなたたちのことは、もう過去の話です」
通話を切ると、彼は私にスマートフォンを渡した。
「ブロックする?」
「うん」
結婚式の日、蓮は共通の知人を通じて、かなりの額の祝儀を送ってきた。私はそのお金を自分のものにはせず、そのまま地元の児童養護施設へ匿名で寄付した。
その後、青嵐の元同僚から断片的に近況を聞いた。蓮は青嵐中央医療センターを辞め、青嵐市からも離れたという。どこへ行ったのかは、誰も知らなかった。
私はそれを聞いても、ほとんど何も感じなかった。
ずっと昔、雨の降る夜に、彼は私の目の前で書斎の扉を閉め、私を一人で廊下に残した。
そして今度は、私が自分の扉を閉めた。
扉の外に、もう彼はいない。
私の世界にも、二度と戻ってこない。
――完――




