第7話 正義の炎が人を焼く
第7話 正義の炎が人を焼く
花が刈られた翌朝、黒田慎一の名前がネットへ書き込まれた。区役所の職員紹介ページに載っていた顔写真が切り取られ、「自然を殺した役人」という赤い文字を重ねられている。勤務先だけでなく、妻が働く店や娘の通う学校まで探し出そうとする投稿が続き、真偽の分からない住所まで拡散されていた。
黒田の家では、午前六時から電話が鳴り続けていた。妻の美和は薄い桃色の寝巻きの上へ紺色のカーディガンを羽織り、受話器の音量を最小にしてから、朝食の支度へ戻った。食卓には焼きすぎたトースト、目玉焼き、昨夜の残りのポテトサラダが並んでいたが、黒田は冷めたコーヒーを一口飲んだだけだった。
「今日は休んだほうがいいんじゃないの」
「電話を受けている職員もいる。私だけ休むわけにはいかない」
「娘の学校にまで電話があったのよ。お父さんが公園を壊したのかって、友達から聞かれたそうよ」
「すまない」
「謝ってほしいんじゃないわ。家族まで巻き込まれることを、あなた一人で耐えようとしないで」
黒田はネクタイを締めようとしたが、指がうまく動かず、結び目が何度も曲がった。美和は無言でネクタイを外し、皺を伸ばしてから結び直した。玄関には、昨夜のうちに買っておいた鮭のおにぎりと麦茶が入った弁当袋が置かれていた。
同じころ、未来も自宅でスマートフォンの画面を見つめていた。自分が投稿した伐採直後の動画は二百万回を超え、区役所への抗議を呼びかけるコメントが何万件もついている。最初は多くの人が味方になったと思ったが、黒田の家族を探し出そうとする文章を読むうち、朝食の納豆をかき混ぜる手が止まった。
「おばあちゃん、これを見て。黒田さんの娘さんの学校まで書かれている」
夏子は白いご飯へ納豆を載せ、刻んだねぎを少し振りかけた。昨夜は眠れなかったらしく、いつもの水玉模様のエプロンを裏返しに着ている。画面をのぞき込むと、口の端についていた海苔を指で取り、ティッシュへ包んだ。
「花を刈ったのは黒田さんでも、娘さんは関係ないでしょう」
「でも、黒田さんは止めなかった。昨日、私たちの目の前で安全管理だって言ったんだよ」
「だからといって、家族の暮らしを壊していいことにはならないわ。私たちが守りたかったのは、誰かを追い詰めるための花だったの?」
「そんなつもりじゃなかった」
「つもりがなくても、起きたことは消えない。それは、花を刈った人にも、動画を出した人にも同じでしょうね」
未来は納豆の糸が伸びた箸を茶碗へ置いた。自分は黒田の名前を書いていないが、顔が映った動画を公開し、区役所へ抗議してほしいと話していた。切り取られた映像では、黒田が花を刈るよう命じ、未来の訴えを冷たく退けたように見える。
「動画を消したほうがいいかな」
「消せば全部なくなるわけではないけれど、今からできることはあるでしょう。まず、黒田さんが何をしてきた人なのか、自分の目で確かめてみたら?」
「会ってくれないかもしれない」
「会いたくないと言われたら、そのとき考えればいいわ。相手の返事を聞く前から、都合よく決めないことね」
未来は朝食を半分残し、公園へ向かった。花を失った遊歩道には茶色い土が広がり、昨夜の雨でできた小さな水たまりが残っている。刈られたミントの香りも薄れ、代わりに湿った堆肥と泥の匂いが漂っていた。
公園の奥では、黒田が一人で木々を点検していた。紺色の作業服を着て、頭には白いヘルメットをかぶっている。長い棒で枝を押し、折れかけた部分がないか調べたあと、排水溝へ詰まったビニール袋と枯れ葉を素手で取り除いていた。
「黒田さん、何をしているんですか」
「昨日の風で枝が折れたという連絡がありました。落下すれば危険なので、確認しています」
「こういうことを、いつもしているんですか」
「仕事ですから」
「毎朝ですか」
「必要があれば、開庁前にも来ます。遊具の破損、倒木、蜂の巣、排水溝の詰まりは、事故が起きる前に見つけなければなりません」
黒田は短く答え、ベンチの下へ落ちていた菓子の袋を拾った。ポケットから小さなごみ袋を出すと、吸い殻や割れたプラスチック片も一緒に入れていく。未来は、黒田が花を刈った朝だけ公園へ来たのではなく、誰にも撮影されない時間から町を歩いていたことを初めて知った。
「花を残したいとは思わなかったんですか」
「残す方法を調べるため、現地調査を提案しました。松田さんや木下先生とも話す予定でした」
「それなら、どうして刈ったの?」
「調査前に事故が起きれば、対応しなかった責任を問われます。苦情を寄せた人も、花を育てた人と同じ住民です」
「課長に命令されたから、仕方がなかったということ?」
「命令だけの責任にするつもりはありません。作業指示書どおりに刈る判断を受け入れ、現場に立ったのは私です」
黒田はヘルメットを脱ぎ、額の汗を作業服の袖で拭いた。目の下には薄い隈ができ、顎には剃り残した髭が見える。未来が家族の情報まで広がっていることを謝ると、黒田は手にしたごみ袋の口を固く結んだ。
「あなた一人が始めたことではありません。ただ、動画は強いですね。私が十年間してきた仕事より、花を刈った一時間のほうが多くの人に知られました」
「動画を消します」
「消すかどうかは、あなたが決めてください。ただ、花を刈る前の私も、刈ったあとの私も、同じ一人の人間です」
その日の昼、公園へ三人組の配信者が現れた。派手な赤いシャツを着た男がカメラへ向かい、「自然破壊の現場へ来ました」と大声で叫び、二人の仲間は刈られた土を踏みながら黒田を捜した。視聴者から翼を見せろと要求されると、男はエルを追いかけ、植えたばかりの苗木をまたいだ。
「そこへ入らないでください。苗木があります!」
未来が止めるより早く、配信者の靴が陽太のコナラへぶつかった。細い幹は途中から曲がり、支柱を結んでいたひもが外れた。陽太が駆け寄ると、配信者は謝る代わりに、壊れた苗木と少年の顔を一緒に撮ろうとした。
「泣いているところ、撮ってもいい? 役所に木を壊された少年って題なら伸びるよ」
「壊したのは、あなたでしょう!」
「わざとじゃないって。それに木くらい、また植えればいいじゃん」
エルは配信者と陽太の間へ入り、カメラのレンズを手のひらでふさいだ。背中に淡い光が浮かんだが、翼を広げることはなかった。未来は曲がったコナラを支え、松田へ電話をかけた。
午後には、公園再生を名乗る新しい団体が、ネットで寄付を募っていることも分かった。団体のページにはエルと花畑の写真が無断で使われ、「区役所から自然を取り戻すため」と書かれている。しかし記載された連絡先は使われておらず、集められた金がどこへ送られたのかも分からなかった。
「僕たちの活動と関係ありませんって、すぐ動画で知らせよう」
新はベンチへノートパソコンを置き、注意を呼びかける文章を打ち始めた。黒いTシャツの胸には、コナラを支えたときについた泥が残っている。画面の隅には、以前に新が投稿した「花を殺した黒田を許すな」という題の動画が表示されていた。
「この動画も消さないと」
「新が作ったの?」
「刈られた日の朝、腹が立って作った。黒田さんの顔も大きく映して、名前まで入れた」
「どうして私に言わなかったの」
「再生数が増えて、正しいことをしていると思った。でも、その動画を見た人が家族の情報を探し始めたのかもしれない」
新は削除の画面を開いたが、決定ボタンへ指を置いたまま動かなかった。動画は五十万回以上再生され、彼の投稿の中で二番目に大きな数字になっている。広告収益も発生していたが、新は唇をかみ、画面を閉じる前に削除ボタンを押した。
「消しても、保存した人がまた投稿するだろうね」
「それでも、残しておくよりいいよ」
「僕は翼を撮ろうとした配信者と同じだった。正義って言葉を使えば、何を撮っても許されると思ったんだ」
「今から違う動画を作ろう。黒田さんにも話してもらって、花を残す方法をみんなで考えるの」
「黒田さん、来てくれるかな」
「断られても、まず頼む。おばあちゃんに言われたんだ。相手の返事を聞く前に決めるなって」
未来たちは区民館を借り、公開討論会を開くことにした。花を育てた住民、虫を恐れる人、車椅子の利用者、区役所、造園業者、昆虫の研究者へ参加を呼びかけた。会場の予約表には囲碁教室と健康体操の予定がびっしり書かれていたため、空いていた金曜日の午後七時から二時間だけ、大会議室を使えることになった。
討論会当日、夏子は朝から台所で鮭と梅干しのおにぎりを握った。食べ物の持ち込みは禁止されていなかったが、会場を汚さないよう一つずつラップで包み、塩分が必要な人だけに渡すつもりで保冷バッグへ入れた。白いブラウスに薄紫色のカーディガンを合わせ、膝が痛むため灰色の杖も持っていった。
「おにぎりの討論会じゃないんだから、そんなに要らないでしょう」
「話し合いはおなかがすくのよ。空腹だと、相手の言葉より時計ばかり見るでしょう」
「でも、三十個もあるよ」
「余ったら朝ご飯にします。鮭はあなた、梅干しは私ね」
区民館の大会議室には、予想を超える住民が集まった。壁際には車椅子のための場所を作り、虫が苦手な人は花壇から離れた公園の入り口を残してほしいと書いた紙を持っている。ネット配信を見る人のため、新は三脚へカメラを固定したが、参加者の顔は許可なく映さないよう、演台だけを撮影する角度にした。
黒田は開始五分前に一人で現れた。濃い灰色のスーツを着て、手には何枚もの図面と苦情票の写しを持っている。会場の一部から低い声が上がったが、未来は演台の前へ立ち、最初に自分の動画について話した。
「私は花を刈られたことに腹を立て、黒田さんの顔が映った動画を投稿しました。その結果、黒田さんの家族まで攻撃されました。花を守るためでも、関係のない人の暮らしを壊していい理由にはなりません。動画は削除しました」
新も自分が作った批判動画を削除したと話し、頭を下げた。会場の後ろでは、誰かが椅子を引く音を立て、別の誰かは小さく咳をした。エルは窓際に立ち、翼を見せることも、人々を静めることもせず、全員の言葉を聞いていた。
次に黒田が演台へ立った。彼は花を刈る判断に従った責任を認め、活動していた人々へ十分な説明をしなかったことを謝った。区の管理基準、通路の幅、寄せられた苦情の内容を示したあと、一度資料から顔を上げた。
「花を刈ったことを、正しかったと言い切るつもりはありません。調査と話し合いを先に行う方法はあったはずです。しかし、苦情を単なるわがままと決めつけることもできません」
「蚊が出たくらいで、全部刈る必要はなかったでしょう!」
会場から声が飛んだ。黒田は逃げずに声のした方向を見て、机の端へ両手を置いた。夏子は保冷バッグを膝に載せたまま、黒田が次に話す言葉を待った。
「花を守りたい人だけでは、公園は管理できません。虫を恐れる人も、車椅子で通る人も、火災を心配する人も、この町の住民です。全員が使える場所を、一緒に考えてください」




