第8話 人間が選んだ森
第8話 人間が選んだ森
公開討論会が終わったあとも、区民館の大会議室には十数人が残っていた。長机の上には黒田が配った公園の図面、夏子のおにぎりを包んでいたラップ、飲み残した麦茶のペットボトルが散らばっている。掃除の時間が迫っていたが、誰もすぐには椅子から立とうとしなかった。
「花を残せば、虫が増える。虫を減らそうとすれば、花を刈る。結局、どちらかが我慢するしかないんじゃないですか」
蜂が苦手だという女性が、腕をさすりながら言った。夏でも長袖の白いブラウスを着ており、首元までボタンを留めている。子どものころに蜂へ刺されて以来、羽音を聞くだけで体が固まり、公園の近くを歩けなくなると話した。
「私は花が見たいけれど、あなたに我慢しろとは言えないわね」
夏子は杖を机へ立てかけ、残った梅干しのおにぎりを保冷バッグへ戻した。十年前まで花があった遊歩道を取り戻したい気持ちは変わらなかったが、花の間を歩けない人も同じ町で暮らしている。夏子は図面を自分のほうへ引き寄せ、花壇と遊歩道の間へ太い線を引いた。
「花を道のすぐ横へ植えなければいいんじゃないかしら。人が通る場所から少し離して、間に何も植えない場所を作るのよ」
「でも、花を見るためには近づきたいです」
田中陽太はカブトムシ柄のTシャツを着たまま、椅子から身を乗り出した。隣では母親が、テーブルへこぼれた麦茶をハンカチで拭いている。陽太は花から離れた道では虫を観察できないと言い、夏子の引いた線へ消しゴムをかけようとした。
「観察するための細い道を、別に作ればどうかな」
未来は別の鉛筆を取り、花を避ける道と、観察する人が入る道の二本を描いた。車椅子が通る主な遊歩道は広く平らにし、花を見たい人だけが細い観察路へ入る。全員を同じ道へ押し込まなければ、虫を避けたい人と近づきたい人の両方が使えると思った。
「それなら、どちらの道を通るか自分で選べます」
「車椅子の道は、途中で行き止まりにしないでください。向きを変えるには、広い場所が必要です」
介護施設の職員が、車椅子の横幅と回転に必要な広さを図面へ書き込んだ。田村はその数字を見て、自分の車椅子は特別大きいから、もう十センチ広くしたほうがいいと言い張った。職員が同じ型の車椅子だと説明しても譲らず、最後には休憩用のベンチを一つ増やすことで納得した。
「全部残すか、全部刈るか。その二つしかないと思い込んでいたのかもしれないね」
新はカメラを片づけながら、図面をのぞき込んだ。動画を配信することばかり考えていたころは、花を刈る役人と守る住民という分かりやすい対立が必要だった。しかし、虫を怖がる女性と昆虫を観察したい陽太が同じ机で話す様子は、短い刺激的な題名には収まらなかった。
「二つしかないほうが、動画は作りやすいんだ。正しい人と悪い人に分ければ、見る人も迷わないから」
「でも、実際の人間は、そんなにきれいに二つへ分かれないよ」
「分かっている。黒田さんを悪い役人にしたら、再生数は伸びた。でも、その先で家族まで攻撃された」
「今度は、答えが決まる前の話し合いも撮ろうよ。すぐに結論が出なくても、そのまま見せればいい」
「最後まで見る人は少ないかもしれないけど、やってみる」
その後、区役所は公園再生のための住民協議会を正式に設置した。月に二回、区民館で会議を開き、住民、区職員、松田造園、昆虫研究者の木下、学校、介護施設が参加することになった。最初の会議では、お茶を誰が用意するかだけで十五分かかり、夏子は自宅から急須まで持ってこようとして未来に止められた。
「会議室に給湯器があるんだから、急須は借りればいいでしょう」
「よその急須は、注ぐときに蓋が落ちるかもしれないのよ。うちのは、持ち手の具合まで分かっているもの」
「森を作る会議に、急須への信頼は関係ないよ」
「毎月使うなら大切です。話し合いの途中で熱いお茶をこぼしたら、また安全管理でもめるでしょう」
結局、区民館の急須を使い、紙コップではなく洗って繰り返し使える湯飲みを借りることになった。茶菓子には個包装の塩煎餅が用意され、田村は一枚を食べ終える前に二枚目を上着のポケットへ入れた。会議という堅い言葉のわりに、机の周りには茶葉の匂いと煎餅をかじる音があり、未来は少しだけ話しやすくなった。
松田は公園の風向きと日当たりを調べ、木を密集させすぎない植栽案を作った。高木、中くらいの木、低い草を無計画に重ねると、風が通らず湿気がこもり、蚊が休む場所も増える。枝の間隔を確保し、地面まで点検できるようにすれば、木陰を作りながら人の目も届くと説明した。
「森というと、木を隙間なく植えたくなる人が多い。しかし、町の公園では風と見通しも必要です」
「木が少なかったら、森にならないんじゃないですか」
「本数だけで森を決めるものじゃない。根が育ち、鳥や虫が行き来し、落ち葉が土へ戻る。それが続く場所を作るんだ」
「すぐに完成しないんですね」
「人間が完成したと思ったときから、木はまだ育つ。だから、十年後に誰が手入れをするかまで考える必要がある」
木下は蚊の対策として、鉢皿、空き缶、詰まった側溝など、小さな水たまりを残さない管理方法を提案した。雨水タンクには蓋と細かな網をつけ、定期的に内部を点検する。花壇そのものを蚊の原因と決めつけず、幼虫が育つ水を一つずつ減らす計画を作った。
「花に来る蜂と、地面の水で増える蚊を一緒に考えないでください。虫にも暮らし方の違いがあります」
「虫の顔を見ても、私には違いなんて分かりません」
蜂が苦手な女性は、膝の上で両手を組んだ。木下は無理に虫へ近づく必要はないと答え、花の区域から離れた場所へ、虫を避ける迂回路を作る案を示した。さらに開花時期を看板やネットで知らせれば、苦手な人が別の道を選べると説明した。
「怖くない人になれと言われたら、もう公園へ来ません。でも、避ける道があるなら歩けるかもしれません」
「私も、全員が花の間を歩きたいと思っていたわ。花を好きにならない人がいても、いいのよね」
夏子が言うと、陽太は少し考えてからうなずいた。自分は虫を見たいが、虫を怖がる人を無理に観察会へ連れていく必要はない。陽太は観察路の入り口へ、「虫がいます」と大きく書いた看板を立てる案を出した。
火災への備えとしては、花と住宅の間へ植物を植えない防火帯を設けることになった。枯れた草を放置せず、季節ごとに刈り取る日を決め、刈ったものは状態を確認して堆肥にする。全面的な草刈りではなく、区域ごとに時期をずらせば、虫の逃げ場所を残しながら安全を保てると松田が説明した。
「花を残すためにも、刈る作業は必要なんですね」
「刈ることが全部悪いわけではない。どこを、いつ、何のために刈るかが大切なんだ」
「前は、刈る人と守る人に分かれていたね」
「これからは、守る人も刈る。管理する人も残す。それなら、敵を作らずに済むでしょう」
黒田は住民の意見を一枚ずつ記録し、公園管理の基準を見直す案へまとめた。作業前には区役所だけで判断せず、住民協議会と現地を確認する。緊急時を除き、草刈りの日時と範囲を事前に知らせ、残す区域へ目印をつけることになった。
しかし、排水の問題だけは簡単に解決しなかった。短時間の豪雨が降ると、公園の低い場所へ水が集まり、遊歩道を越えて住宅地へ流れる。現在の排水溝を広げるには大きな費用がかかり、工事のために木を切る可能性もあった。
「昔は、この辺りに小川があったのよ」
夏子は会議へ緑色の日記と、一九九〇年の古い地図を持ってきた。地図の端には、かつて雑木林を流れていた細い水路が青い鉛筆で描かれている。現在は埋め立てられたが、地面の高低差は残り、豪雨のたびに水が昔の流れをなぞるように集まっていた。
「この道の下を流れて、雑木林の池へ入っていたの。夕立のあとには水が増えて、ザリガニが道まで出てきたわ」
「その小川をそのまま復元するのは難しいですが、雨水の通り道として一部を生かせるかもしれません」
黒田は現在の公園図面へ古地図を重ねた。二つの地図では道路も建物も違っていたが、水が低い場所へ流れる線はほとんど重なっている。専門業者に調査を依頼し、普段は乾いた浅いくぼみとして使い、大雨のときだけ水を受け流す水路を作る案が出された。
「川を作ったら、蚊が増えないんですか」
「水が長くとどまらない傾斜にして、雨のあとは点検します。常に水をためる池ではありません」
「子どもが落ちたら危なくない?」
「深く掘らず、車椅子の道とは柵で分けます。水路をまたぐ場所には、滑りにくい橋を作りましょう」
「橋には手すりをつけてください。田村さんは、車椅子でも身を乗り出しますから」
「魚を見るには、身を乗り出さないといけないだろう」
「普段は水がないと、今説明したでしょう」
何度も意見がぶつかり、図面は消しゴムの跡と書き直した線で汚れた。新は若者向けの設計ソフトを使い、未来たちの中学校では、公園を立体的に見られる模型を作った。生徒たちは使われなくなった菓子箱、割り箸、緑色の毛糸を持ち寄り、車椅子が通れる道の幅を定規で測りながら貼りつけた。
介護施設の入居者たちは、昔の公園にあった樹木や水の流れを思い出し、手書きの記録を残した。記憶の違いで言い合いになることもあったが、複数の話を古地図や写真と照らし合わせると、失われた地形が少しずつ分かってきた。高齢者の記憶を若者がデータへ変え、そのデータを専門家が工事計画へ組み込んだ。
三か月後、公園再生案が完成した。風が通る木々、虫を観察する花の区域、車椅子が通れる広い道、火災を防ぐ空間、雨水を流す浅い水路が、一枚の計画図へ描かれている。右下には住民協議会、区役所、学校、介護施設、専門家の代表が、それぞれ名前を書いた。
夏子は完成した計画書を自宅の食卓へ広げた。夕食の水炊きは鍋の中で湯気を立て、鶏肉、白菜、ごぼう、にんじん、長ねぎが柔らかく煮えている。未来は汁をこぼさないよう計画書を端へ寄せ、エルへ鉛筆を渡した。
「エルも名前を書いて。最初に木を植えたのは、あなたなんだから」
エルは鉛筆を受け取らず、静かに首を振った。計画書へ触れようともせず、土で少し硬くなった指を膝の上へ置いている。未来は理由が分からず、空いている署名欄を指でたたいた。
「どうして? エルがいなかったら、誰も木を植えなかった。古い切り株の記憶を見せてくれたのも、あなたでしょう」
「私は、最初の穴を掘っただけです」
「でも、この公園はエルの森でもあるよ」
「いいえ。この図面にある道を選んだのは、虫を恐れる人です。花の場所を選んだのは、虫を見たい子どもです。水路を見つけたのは、過去を覚えていた人です」
エルは湯気の向こうから、汚れた計画書を見つめた。そこには一本のまっすぐな線ではなく、何度も消され、曲げられ、書き足された人間たちの判断が残っている。彼は未来から渡された鉛筆を食卓へ戻し、完成した図面へ触れないよう両手を引いた。
「これは奇跡ではありません。だからこそ、私が触れてはいけない。人間が話し合い、人間が選んだ森です」




