第9話 沸騰する東京
第9話 沸騰する東京
翌年の八月、東京は再び記録的な猛暑に襲われた。午前八時には三十五度を超え、板橋区の道路では、向こうを歩く人の足元が陽炎で揺れている。公園の若いコナラは葉を内側へ丸め、住民たちは夜明け前と日没後に交代で水を運んでいた。
未来は十六歳になり、統合先の高校へ進学していた。夏休み中も白い半袖シャツと紺色のスカートで学校へ通い、公園の気温や土の水分を調べている。自宅の食卓には、昨夜途中まで書いた観察記録、赤いボールペン、食べかけのジャムパンが散らばり、冷たい麦茶のコップからは水滴が輪になって広がっていた。
「未来、天気予報を見なさい。大きな台風が来ているわよ」
夏子は空色のワンピースの上へ白いエプロンを着け、冷やし中華のキュウリを刻んでいた。七十三歳になった夏子は、熱中症になった前年の経験を忘れず、台所に立つときも首へ冷却用の輪をつけている。テレビには巨大な雲の渦が映され、気象予報士が海水温の高い地域を通過して勢力を強めたと説明していた。
「中心気圧が急に下がっている。上陸しなくても、台風の周りの湿った空気で大雨になるかもしれないって」
「昨年のゲリラ豪雨よりひどいの?」
「短時間に降る雨の量は、もっと多いかもしれない。公園の小川は、まだ途中までしかできていないよ」
「完成は来月の予定だったわね」
「今降ったら、水を受ける場所が足りない。団地のほうへ流れるかもしれない」
公園では、かつての小川を利用した雨水路の工事が進んでいた。浅い水路の半分は完成していたが、その先は土を掘り返したままで、大きな土のうが積まれている。排水口へつなぐ最後の工事は、資材の到着が遅れたため九月へ延期されていた。
未来が住民協議会の連絡網へ情報を送ると、黒田からすぐ電話がかかってきた。区役所では台風対策本部の設置準備を始めたが、公園の工事については業者の判断を待っているという。未来は窓から赤く焼けた空を見上げ、昨年の豪雨で床下浸水した住宅を思い出した。
「雨が降ってからでは間に合いません。今のうちに土のうを移せませんか」
「私も必要だと考えています。ただ、工事区域へ住民を入れることはできません。重機を動かすにも決裁が必要です」
「決裁は、いつ出るんですか」
「対策本部が設置され、被害予測が確定してからです」
「予測が確定するころには、雨が降っているかもしれないよ」
「分かっています。現地を確認して、もう一度上へ掛け合います」
昼を過ぎると、空の色が変わり始めた。まだ台風は遠くにあるのに、西から黒い雲が重なり、風が公園の土を巻き上げている。道路には、スーパーで水やパンを買った人が並び、レジ袋から長ねぎやカップ麺の容器が透けて見えた。
夏子は押し入れから防災リュックを出し、床へ中身を並べた。期限の切れた乾パン、電池の入っていない懐中電灯、数年前の使い捨てカイロまで出てきたため、未来は一つずつ仕分けた。夏子は乾パンの缶を振り、中で音がするから食べられると言い張った。
「賞味期限が三年前だよ。非常時におなかを壊したら、もっと困るでしょう」
「缶は膨らんでいないわよ。開けて味見してみましょう」
「今、食べ物の発掘大会をしている場合じゃないよ」
「食べられるか確認するのも防災です。捨てるなら、せめて一枚だけ食べてからにしましょう」
乾パンは湿気ていたため処分し、代わりに水、クラッカー、レトルトのおかゆ、缶詰のミカンを入れた。夏子は着替えと薬を透明な袋へまとめ、杖へ名前を書いた札を結びつける。昨年なら自分は避難所へ行くほど弱くないと言っていたが、今年は防災無線が鳴る前から靴まで用意した。
午後三時、区は高齢者等避難を発令した。閉校した未来の中学校は、地域の防災拠点として残されており、旧体育館が避難所として開放された。田辺は統合先の学校へ異動していたが、地域担当の教員として駆けつけ、入口に長机を置いて受付を始めた。
「相沢、来てくれたのか。まず、おばあさんを中へ案内しなさい」
「私は手伝うわよ。まだ自分で歩けます」
「歩ける人が、歩きにくい人を助けてください。ただし、無理はしないで」
「去年から、みんな同じことを言うのよ。私の耳には、その言葉だけよく聞こえるわ」
夏子は口を尖らせたが、灰色の杖をつき、体育館の壁際へ移動した。床には青い避難用マットが並び、扇風機と冷房が低い音を立てている。炊事室では町内会の人が大鍋へ湯を沸かし、紙コップの味噌汁を配る準備をしていた。
住民たちは手分けして、介護施設の入居者や一人暮らしの高齢者を避難所へ運んだ。車椅子の田村は、枕が変わると眠れないと言って自分の座布団まで膝へ載せている。施設職員は桃色のポロシャツを汗で濡らしながら、薬と連絡票の入った透明な袋を一人ずつ確認した。
「私のコナラは大丈夫かい」
「田村さんの木はありません。名札を書いただけです」
「名前を書いたら、半分は私の木だろう」
「今は木より、自分の水分を心配してください」
「木は自分で水を飲めないじゃないか」
黒いパーカーを着ていた少年も、今では白いTシャツ姿で避難の手伝いをしていた。学校へ戻ることはまだできなかったが、毎朝公園へ通い、住民協議会の連絡係を任されている。彼はスマートフォンの地図で避難の終わっていない家を確認し、新と一緒に訪問を続けた。
新は避難所の舞台脇へ小さな机を置き、必要な物資と人手だけをネットで知らせた。昨年なら、黒雲や慌てる住民を撮影して刺激的な題名をつけていたはずだった。今回は避難所へ入る人の顔を映さず、区が発表した情報と、現地で確認した安全な道だけを読み上げた。
「現在必要なのは、未開封の飲料水、乳児用のおむつ、介護用の紙おむつです。食べ物は個人で持ち込まず、受付へ確認してください。公園には近づかないでください」
「もっと台風の映像を見せて」というコメントが流れたが、新は応じなかった。再生数は以前より少なくても、避難所へ水を届けたいという連絡が届き、近くの店から段ボール十箱分のペットボトルが運ばれた。未来は送り主と数量を帳面へ記録し、必要以上の物資が集まらないよう更新した。
午後五時、雨が降り始めた。最初は大粒の雨が間を空けて落ちていたが、十分もたたないうちに校庭の向こうが白くかすんだ。体育館の屋根を打つ音が大きくなり、隣の人の声も聞き取りにくくなった。
公園の監視カメラ映像では、復元途中の水路へ茶色い水が流れ込んでいた。完成した部分は雨を受け止めているが、工事の終点で水があふれ、団地側の道路へ流れ始めている。未来が黒田へ電話をかけると、機械音と雨音の間から荒い声が返ってきた。
「今、公園です。仮設の排水路を掘ります」
「決裁は下りたんですか」
「間に合いませんでした。工事業者へ直接連絡し、重機を一台手配しました」
「勝手に動かしたら、黒田さんが処分されるんじゃないですか」
「住民の家が浸水する可能性があります。責任は私が負います」
「私たちも行きます」
「来てはいけません。重機の近くは危険です。避難所から、土のうを作れる人を募集してください」
未来はすぐ住民協議会へ連絡した。避難を終えた建設業者、造園業者の松田、町内会の若者たちが、区の用意した雨具とヘルメットを着て作業へ向かった。新は公園の場所を公開せず、避難所内で土のう袋へ砂を詰められる人だけを募った。
夏子も袋を持とうとしたが、未来に椅子へ戻された。代わりに、濡れた人へ渡すタオルを体育館の倉庫から集め、一枚ずつ広げて使える状態にした。タオルの中には卒業生が忘れた名前入りのものや、運動会で使った赤い鉢巻きまで混じっていた。
「これなら、私にもできるでしょう」
「重いものは持たないでね」
「分かっています。去年の私とは違うわよ」
「去年も同じことを言って倒れたでしょう」
「人間は一年で学習するの。み使いほど長く生きなくてもね」
午後六時、雨水路からあふれた水が遊歩道へ流れ込んだ。黒田と松田は重機で土を掘り、完成していない水路の先を既存の排水溝へつなごうとしていた。住民たちは土のうを並べ、住宅側へ水が流れるのを防いだ。
公園の苗木は激しい雨に打たれ、細い幹を大きく曲げていた。陽太のコナラを支えていた杭が一本抜け、根元の土が茶色い水へ削られていく。黒田は苗木へ近づこうとした陽太を見つけ、大声で避難所へ戻るよう命じた。
「ぼくの木が流される!」
「近づくな! 木はあとで直せる!」
「去年、一度折られたんだ。今度は守るって決めたんだよ!」
陽太は母親の目を盗み、公園まで走ってきていた。黄色い雨がっぱを着ていたが、膝まで濁った水に入り、コナラの幹を両腕で抱えた。抜けた支柱を戻そうとした瞬間、工事途中に積まれていた土のうが崩れ、濁流が陽太の足をさらった。
「陽太君!」
未来の声は、激しい雨音に消された。陽太の小さな体はコナラから離れ、水路へ向かって流された。黒田と松田が走ったが、足元の泥に阻まれて追いつけない。
次の瞬間、白い光が雨を切り裂いた。エルの背中から大きな翼が広がり、銀色の羽が公園全体を照らした。彼は濁流の上を低く飛び、排水路へ落ちる直前の陽太を両腕で抱き上げた。
翼が起こした風でキバナコスモスの種が舞い、雨の中へ散った。しかし光は苗木を守らず、流れを止めることもなかった。陽太のコナラは根元から倒れ、二本の苗木が濁流にのみ込まれて見えなくなった。
「エル、木が流される! 翼で水を止めて!」
未来が叫んでも、エルは陽太を抱いたまま避難所へ向かった。巨大な翼は子どもを雨から覆い、風にあおられないようゆっくりと地面へ下りた。陽太は泥だらけになりながらも意識があり、母親の姿を見ると、濡れた手を伸ばした。
その間も、公園では人間たちの作業が続いていた。黒田が重機の進路を指示し、松田たちが流木を取り除き、住民が土のうを積み直した。復元した小川に新しい出口がつながると、住宅地へ向かっていた水が向きを変え、排水溝へ流れ始めた。
午後九時、雨は少しずつ弱まった。団地の床下まで水が入った家はなく、避難所にも大きなけが人は出なかった。体育館では、濡れた服を着替えた陽太が毛布に包まり、紙コップの温かい味噌汁を両手で飲んでいた。
未来はエルと公園へ戻った。遊歩道には泥が積もり、若い木の何本かは倒れ、陽太のコナラは根をむき出しにして横たわっている。雨で膨らんだ土からは、草と泥の強い匂いが立っていた。
「なぜ森を救ってくれなかったの」
未来は倒れたコナラの枝を持ち上げた。エルなら、翼で水を止めることも、木を空へ持ち上げることもできたはずだった。けれど彼が奇跡を使ったのは、陽太を救う一度だけだった。
「木は、また植えられます。けれど、あの子の今日という日は、一度しかありません」




